京都 四条高倉の占庭から

受験シーズン

今日の朝ドラで子どもの合格発表を待つシーンがあり、

いろんなことを思い出して胸がいっぱいになりました。

 

前期試験の発表当日、息子は中期試験を受けに行っていました。

で、わたしは仕事に行っていて。

午後に来るテレックスの前に、大学構内に貼り出される掲示板の

ネット映像で合否を確認したのでした。

まず、母、妹に連絡し、家族のように心配してくださっていた方にも

電話をしました。

息子が2歳のときからずっと見守り、お世話になったその方は、

すぐに職場に飛んできてくれて、抱き合って泣きました。

きっと、息子が合格したことそのものより、

母ひとり子ひとりで、ここまでよくがんばってきたね、

って、わたしを労ってくれる涙だったのだと思います。

ほんとに、いつもわたしの周りには温かい人がいてくださって、

ありがたかったなあ、っていまさらながら感じます。

 

テレビを見て、うるうるしながら息子の受験番号が、8425番だったことも

思い出しました。

この受験票が来たときに、息子が、

「ええ番号じゃなあ~」と言ったのです。

ん? 8425が?と思っていると、

「ハッシー ニッコリ じゃもん」とニコニコしています。

「え、だから、それがなんで?」と訊くと、

「進路指導の先生、橋本先生っていうんよ。ハッシーがニッコリしてくれるなら、

 ええんちゃう?」

と、どこまでもポジティブな子どもなのでした。

おかげで、10年以上経ったいまも、忘れません。

この能天気なほどのポジティブさが、きっとよい作用をもたらしたのだと思います。

二次試験の倍率が2倍少々だとわかったとき、

「隣のヤツより1点でもええ点取れば受かるんなら、なんかイケそうな気もする」

と、のんきそうに言うていました。

模試では、ずっとE判定(予想合格率20%以下)だったにもかかわらず。

「ふつうに考えたら、受かるはずがないんやけど、

 なんか落ちる、って気もせんのよなあ~~~」

と、肩の力が抜けてたのもよかったのかもしれません。

担任の先生に、

「お前の家は浪人させられる家じゃないんやから、やめとけ」

と、こんこんと言われながらも、

「それでも受けてみたい」

と揺らがなかったことで、運を引っ張ってきたのかもしれません。

ほんとに、奇跡的な運だけで受かったといって、過言ではない状況でした。

なので、ほんと、受験は、ふたを開けてみるまではわからない、

と実感しています。

努力の結果だけではなく、運、不運で、合否が決まることも少なからずあるものだと

思うのです。

けれども、志望校に不合格であったとしても、それが本当に不運であったか、

というと、そうとも限らない、ってことを去年、書いていたので、

よかったら読んでみてください。

kyoto-uraniwa.hatenablog.com

 

実はここに出てくるセンター試験で失敗してしまった子のお母さんが、

合格発表の日に、泣きながら抱き締めてくれたその人です。

人生、いろいろすんなりいかないことだらけ。

それを知っているからこそのやさしさが、あるということですね。

「情報生産者になる」がおもしろい

いつもとはちょっと雰囲気の違うお話を今日はしますね。

 

『ちくま』1月号からの、上野千鶴子さんの新連載がとても興味深くて、

楽しく読んでいます。

「情報生産者になる」というタイトルで、研究について書いておられるのですが、

特に、大学生のみなさんに読んでもらいたい内容です。

 

高等教育以上の段階では、もはや勉強(しいてつとめる)ではなく、学問(まなんで問う)ことが必要です。

つまり正解のある問いではなく、まだ答のない問いを立て、みずからその問いに答えなければなりません。

それが研究(問いきわめる)というものです。

研究とは、まだ誰も解いたことのない問いを立て、証拠を集め、論理を組み立てて、答を示し、相手を説得するプロセスを指します。

そのためには、すでにある情報だけに頼っていてはじゅうぶんではなく、自らが新しい情報の生産者にならなければなりません。

 

なるほどー

大学で研究したことのないわたしにも、よくわかる説明です。

で、上野千鶴子さんは「大学で教える」に当たって、情報生産者になるということを

重視してきた、と。

 

情報には、生産・流通(伝達)・消費の過程があります。

メディアは情報伝達の媒体、多くのひとたちはそこから得られた情報を消費します。

もちろん学ぶことは「真似ぶ」こと。

ですから他人の生産した情報を適切に消費することは、自らが情報生産者になることの前提です。

 

研究者ではない、わたしのような一般人も、日々、膨大な情報を得ています。

この過程の最後の部分に当たる、消費ですね。

消費者には誰でもなれるけれど、生産者になるのは難しい。

批評家には誰でもなれるけれど、批評されるものを提供する側になるのは難しい、

ってことなのでしょう。

その後、情報とは何か? という説明があり(端折りますけど)、

情報を生産するには、まず問いを立てることが肝心である、

という話につながります。

 

問いを立てるには、センスとスキルが要ります。

スキルは磨いて伸ばすことができますが、センスはそういうわけにはいきません。

センスには現実に対してどういう距離や角度を持っているかという生き方があらわれます。

 

こんな風に理系なスタンスで、センスという言葉を見事に言い表せるって

すごいなあ、とわたしはそこに感服してしまうのです。

 

そして、問いを立てる際に大切なポイントがふたつ挙げられ、

また、問いを解くというのはどういうことかが語られます。

(長文なので、省略しまくりですみません。)

それから、誰も立てたことのない問いを立てる、ということがオリジナルな研究に

なっていくということである、というお話に移っていきます。

 

オリジナリティとはすでにある情報の集合に対する距離のことを言います。

距離は英語ではdistanceですが、立ち位置のことをstanceと言います。

つまり自分の立ち位置からの遠さをdistanceというのです。 

誰も立てたことのない問いを立てるには、すでに誰がどんな問いを立て、どんな答を出したかを知らなければなりません。

すでに蓄積された情報の集合を知識として知っていることを「教養」と呼びます。

教養がなければ、自分の問いがオリジナルかどうかさえわかりません。

ですからオリジナルであるためには、教養が必要なのですが、教養とオリジナリティはしばしば相反することがあります。

教養は努力すれば身につけることができますが、オリジナリティはセンスです。

 

教養、オリジナリティ、センス。

まったく毛色の違う言葉のようで、すべてつながっているんですね。

オリジナルである、ということを確かめるためにも、証明するためにも、

たくさんの論文を読まねばなりません。

「先行研究の検討」です。

 

なぜなら、あなたの立てた程度の問いは、それ以前に、あなた以外のひとによって、とっくに立てられていると考えるところから、研究は出発するからです。

まったく誰も立てたことのない問いなんてめったにありません。

ですが「先行研究の批判的検討」をすることによって、自分の立てた問いのどこまでが解かれており、どこからが解かれていないかがわかるようになります。

そこではじめて、自分のオリジナリティが何かが、わかるのです。

 

おお、なんか「研究する」ということが詳らかになってきました。

 

この後、インプットとアウトプットについて、一次情報をいかに収集するか?

学問とは何かについての見解が続き、「情報生産者になる」ということはどういう

ことなのか、がまとめられていきます。

 

かつて研究したことがなく、きっとこれからもないであろうわたしが読んでいても、

研究の困難さの片鱗を知った気になり、その上で、なんとも言えぬワクワクする

魅力も感じるお話だったので、このブログを読んでくださっている学生さんにも

知ってもらいたいなあと思って紹介してみました。

卒業するために必要だから、とにかく卒論をやっつけないと、というのではなくて、

大学時代に、こんな風に研究と向き合えたら素敵やなと思うのです。

 

うまくまとめられておらず、ワクワクが伝わらなかったらごめんなさいね。 

いつまでも人を恨んでいてはならない。なぜなら、

寒い寒い京都ですが、幸い、昨日、今日と通勤路に積雪はなく。

四条大橋から望む北の山々は雪化粧していましたけれどね。

 

先日、知人がSNSにUPしていた写真を見てビックリ!

左手に何かを持って自撮りしてはったんですけど、こちらを向いた手のひらに、

手相がない!

えええ~~~~~! なぜっ?

と思ったら、シワを飛ばす加工をされていたようで。

最近の写真は、ほんまにオソロシイですねぇ。

手相すら、つるりんとさせてしまうくらいですから、そりゃあお顔のシワくらい

いくらでも無きものにできてしまいますわねぇ。ふふふ。

 

 

さて、以前も書きました「ムーミン谷の言葉」ですが、やさしいだけじゃなく、

シニカルなものも多いんですよ。

今日、流れてきたツイートなんて、

 

いつまでも人を恨んでいてはならない。

 

あなたが恨んでいる人は、今も人生を楽しんでいる。

 

ですよ。

この一行目から二行目への展開は、ちょっと意表を突かれます。

 

「人を恨んでいたら、いつまでたっても幸せがやってこないわよ」

とか、来そうなもんですよね。

わたしなら、

「いつまでも恨むのは、いつまでもその人に支配されてる、ってことよ」とか

「人を恨んでいたら、人相悪くなるよ」とか、言いそうやなあ。

 

そこを

「あなたが恨んでいる人は、今も人生を楽しんでいる。」

ってのは、衝撃的でもあります。

そう聞いたら、余計に心を乱されて、ますます恨んでしまう人もあるかもしれない。

けれど、それがどれだけ不毛なことであるか、っていうことを

リアルに教えてくれているとも思えます。

そこで、

「ああ、バカバカしい!」

と思えたら、恨みのトンネルを抜けたってことではないかしら。

「それならば、わたしの方がもっと楽しまないとおかしいじゃないの!」

というところまで進めたら、自然にいろんな道が開いていきそうです。

 

恨む気持ちというのは、怒りと未練と後悔の匂いがしますよね。

怒りも未練も後悔も、引きずっててイイことは何ひとつないんです。

ずうっと自分自身の心のわだかまりに囚われ続けている、ってことですものね。

過去は変えようがないというのは、絶対的な真理なので、

そこで思い煩い続けるというのは、はっきり申しまして無駄、なんですよね。

これからいくらでも変えられ、創り出していける将来をよりよいものにするために

思い悩む方が、よほど建設的ってもんで。

 

ええ、そんなこと百も承知ですよね。

わかっていながら、そう思えないのよ。

という堂々巡りをバッサリ斬って捨てるこの言葉。

ムーミン谷の言葉、侮れません。

泣いても恥ずかしくないから

長年、使いかけの生姜を冷蔵庫で、カビさせたり、萎びさせたりしてきましたが、

最近、適切な保存方法を知りまして、それ以来、使い切れるようになりました。

ああ、なんでもっと早く、この方法を知らなかったのかしらっ!

と悔やまれます。

ご存知の方も多いのかもしれませんが、書いておきますね。

 

① キッチンペーパーで包む。

② その上からアルミホイルで包む。

③ ジップロックに入れて冷蔵庫の野菜室へ。

 

これだけ。

こうしておけば、カビないし、シワシワにもならず、

よい状態で保存できるんですよねぇ。

どうってことない手間ですし、おすすめです。

 

さて、今日は、こんな話を。

占庭に来られるお客さまで、話している内に泣いてしまわれる方が、

たくさんおられます。

わたしがキビシク叱るから、じゃないですよ。

見料を支払って、占い師に叱られて、なんて、そんな話、あんまりでしょ。

大丈夫。泣かせたりしません。

 

じゃあ、どうして泣いちゃうのか。

今、つらくて、悲しくて、悔しくて、腹が立って、話しながら感情が昂ぶって、

という方もおられます。

うーん、どうも混乱してらっしゃる・・・・という場合です。

どうすればよいのか、どう考えればよいのかわからず、

心がざわついてしんどい状態なのですね。

こういう時は、とにかく全部吐き出していただきます。

そうしている内に、涙は止まってくるし、気持ちも落ち着いてこられます。

わたしからお話するのは、それからなんですが、占いの話をする頃には、

ご自分の気持ちがだいぶ見えてらして、もう占いはどっちでもいいかも・・・・

てな感じになってらっしゃることも結構あります。

自分なりの道筋が見えてきたら、占いの役割は半分終わったようなもので、

後は、今の運気を上手に活かしてもらえるようお話しするだけです。

 

でも、感情的になって涙をこぼしてしまう、っていう方は、

実はそんなに多くありません。

どうして泣いたりしてしまったのか、よくわからない、

って半ば戸惑いながら、涙を止められない、という方のほうが多いんですよ。

たぶんね「ふっと気づいて」しまって、胸が詰まってしまうんじゃないかと。

何に気づくのかというと、ご自分の気持ちに。

 

ああ、あの時のわたしは、

そこまで ガマンしてたのか

     傷つけられていたのか

     ムリしていたのか

     必死だったのか

っていう風に。

見て見ぬふりをしてきたこと、

自分の気持ちに素直になれなかったこと、

誰かのせいにしてはいけない、自分が悪かったのだから、と言い聞かせてきたこと、

自分がひどいダメージを被っていたことに気づいて、もしくは認めて、

そのことに対する、正当な労いの気持ちが、やっと湧いてきはったのかな、

と思うことが多々あります。

がんばり屋さんほどそうですね。

ちゃんと泣くべき時に、泣かずに、ただ心に蓋をしてこられたんでしょう。

 

 そうか。わたし、泣いてもいいくらいかわいそうやったんや。

 

て気持ちが、胸にふっと灯った瞬間に、涙があふれてくるんやろね。

遅ればせながら泣いてらっしゃる、ってことです。

気持ちが鎮まるまで泣いてオッケー。

恥ずかしいとか、みっともないなんて、全然思わなくていいです。 

もう、思いっきり泣いちゃってください。

 

そうすると、なんだかスッキリしたお顔になりはります。

泣いてスッキリしたから、っていうんじゃないんですよね。

無意識に棚上げしたまんまだった感情に、ひとまずカタをつけた、

ってことなんだと思います。

ですので、その後、占いの話をしていると、どんどん表情が明るくなって、

ふつふつと意欲が湧いてきてる、っていうのが伝わってきます。

もうね、わたしまで、前を向こう!っていう気持ちになってきたり。

 

これは、まったく占いの力でも、わたしの力でもなくて、

たまたまそういうタイミングで、そういうキッカケになった、ってだけのことです。

たまたま、そこに占いがあって、たまたま占い師がわたしだった、ってだけ。

 

これもご縁なんやなあ~

申酉天冲殺の方へ

本日は節分。

占いの暦では、今日で申年が終わります。

申酉天冲殺のみなさん、折り返しまできましたね。

「まだ、半分かああああああ、、、、」とお思いでしょうけれども、

半分ではありません。

いえ、半分は半分ではあるけれど。(どっちやねんな)

天冲殺の期間は2年間なので、その丁度半分まで来たのは確かなことです。

けれども半分ではないというのは、山は越えましたよ、ということ。

 

申酉天冲殺の場合、良ろしくない影響が、ほぼ申年に集中します。

特に、近しい人との関係に影響が出やすい。

ひどいケンカをしたり、裏切られたり、別れてしまったりと、

人間関係にひびが入りがちです。

そして、そのひびの修復がとても難しい。

というのが、申酉天冲殺の方に共通して出やすい影響です。

 

これに加えて、去年、今年にめぐり来ているふたつずつの星の影響が

被ってきます。

これらは、お一人ずつ違うので、影響はまちまちです。

ビジネス関係に出る人、健康面に出る人、夫婦関係、親子関係に出る人など、

いろいろなパターンがあるので、こちらは個別にお訊ねください。

 

この1年、心に大きな傷を負ってしまった人も多かったでしょう。

極度に消耗して、クタクタになっておられるところで、

まだ1年あるのか・・・・とぐったりなさっているかもしれませんが、

酉年は申年ほどのひどい状況には、まずなりませんので、

あまり恐れなくても大丈夫です。

もちろん、天冲殺期間は抜けていないので、要注意ではありますけれどもね。

 

それでも、そろそろ来年以降の10年間を見据えて、

 自分はどうしたいのか?

 どうなっていきたいのか?

という意思と望みを意識していってください。そして、

 そのためには、何が必要なのか?

 どんな準備や計画をしておかねばならないのか?

をなるべく現実的、具体的に考えていきましょう。

 

今はまだ、結果や、成果に対する評価を期待する時期ではありません。

必死にアウトプットしたところで、手応えを得るのは難しいでしょう。

あと1年間は、ご自身の中をもう一度、磨き直してくださいね。

 

では、その手順をまとめておきましょう。 

まず、これまでの自分を省みる。

反省すべきところは反省し、変えていく努力、補填する努力をしていきましょう。

ここで、もうひとつ大事なのは、がんばってきた部分を褒めてあげること。

きちんと褒めて、そこをもっと伸ばすにはどうしたらよいのかを考えます。

要は、等身大の自分自身を再確認するということですね。

過大でも過小でもない認識をするための、客観的な目が肝要となります。

 

現在のご自身を正確に把握できたならば、その自分をワンランクUPさせるぞー!

という意識を明確に持ちましょう。

どこをどうUPさせたいのかがわかると、どこからどう手をつけていけばよいのか、

道筋も見えてきます。

 

後は、地道な努力を続けるだけ。

その努力に対する評価は、自分自身が下す正当な判断のみです。

他人に、褒められようが、くさされようが、一喜一憂せず、

この期間は、サラーっと流してください。

あくまで自分目線で、ご自身を見つめることです。

 

そうして怠らないでいると、来年の節分が明けるころには、

いまよりももっとピカピカになった自分で、また流れ始める新しい次の運気に

うまく乗っていくことができるのです。

 

今、運気が滞っているのですから、ものごとがスイスイ流れるはずがありません。

うまくいかなくて当たり前。

しんどいけれども、そう思って焦らないことです。

焦って、あーでもない、こーでもない、を繰り返すと、体力は消耗するわ、

気力は萎えるわで、ロクなことになりません。

つらいですが、辛抱のし時だと言い聞かせながら、やり過ごしてください。

 

申酉天冲殺の一番苦しい、大変な時期はもう過ぎました。

残り1年は、どうかしっかり自分磨きをなさってください。

お墓参りなどの先祖供養も忘れずにね。

悪魔のカード

明日は節分ですね。

わたしはこの豆まきっていうのが好きでして。

「福はー 内ぃーーーー!」だけ言います。

鬼は外は、ナシ。(家の中に悪さをしている鬼はいないから)

家の中に豆をまくのも、踏んで粉々になるのがイヤなので、ナシ。

マンションの玄関を出て、下の駐車場に停めてある車に当たらないように、

家族並んで豆をまきます。

これがなんともウキウキするんですよねぇ。なんでかしら。

あの豆は、明朝、野鳥が食べるのだろうなあ、と想像するのも楽しいです。

 

 

さて、今日はタロットカードのお話を。

タロットカードは1組(1デッキ)78枚で成っているのですが、

その内、大アルカナと呼ばれるカードが22枚あります。

この22枚のカードは、それぞれにタイトルがつけられています。

「愚者」「魔術師」「皇帝」「恋人」という具合に。

どのカードもドラマチックで、いかにも西洋の占いツール、って感じ満載です。

 

今日はその中の「悪魔」のカードについて。

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これです。

 

タロット占い教室のおためしレッスンの時に、好きなカードと嫌いなカードを

選んでいただくんですが、このカードなどはわかりやすい嫌われるカードでして。

この、いかにも邪悪といった風貌の悪魔がいやらしいですし、

鎖に繋がれた裸の男女も不穏ですよね。

15番目のカードということもあって、悪魔の角の間には、刺さるように

逆五芒星が表されています。

タロットの世界観では「5」という数字の概念はあまり良いものではないようで、

五芒星もエネルギーは強いのだけれど、安定感のない、落ち着かないものの象徴に

使われることが多いです。

これが六芒星になると、ぐっと落ち着いて、良い意味で使われます。

それもタロットの世界観での「6」という数字は良いものとされているからです。

 

で、この悪魔なんですが、どう見ても人ではない顔に、

しまりのない身体をしています。

裸の男女も、角や尻尾が生え、もはや人間ではなくなっています。

実はこの男女「恋人」のカードのアダムとエバのなれの果て、とも言われています。

このカードですね。

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この「恋人」のカードの時は、まだ人間でもなかったんですよ。

この後、楽園を追放されることで、命は有限となり、出産の苦しみが生まれ、

労働もしなければならない人間となるわけです。

悪魔のカードは、その人間の心の闇を表しているのです。

 

ですので、悪魔がジャーン!と現れて、良くない事を起こすとか、連れ去るとか、

不幸に陥れる、なんて意味はこのカードにはありません。

誰の心の中にもある、黒い部分、獣的な部分、ダメな部分の影響が、

今、明るみに出ていますよ、ということが言いたいカードなのです。

 

怠ける。ウソをつく。不正を働く。魔が差す。暴力・暴言。邪な気持ち。不倫。

ズルズル。だらだら。コソコソ。

みたいなことを表します。

これらは、悪魔の仕業ではなく、自分自身の心の弱さの問題なんですね。

そこにどれだけ正面から向き合えるか?

ってところがポイントなわけです。

このカードが出たら、自身の品性・品格を問われていると思わねばなりません。

なかなか厳しい警告ですね。

 

恋愛や結婚などを占っていて、相手のところにこんなカードが出たら要注意です。

うかうかと信じてしまうとマズイことになりそう、というのは、

誰が見ても明白です。

最悪、DVや結婚詐欺なんてこともあるかもしれません。

十分な警戒をしなければ。

 

悪魔というのは、日本人にとっては、あまりなじみのないもので、

案外、ぴんとこない存在です。

西洋の人たちと、日本人では、きっと捉え方が違うんだろうなと思います。

タロットカードは西洋人の感覚で編まれているので、キリスト教や、

西洋絵画のお約束的なものなどが当たり前のように織り込まれているのですが、

それらは日本人には縁のない「当たり前」なことも多いので、

絵を見ても意味がよくわからない、というカードもあったりします。

そこはもう覚えていくしかないわけですが、その西洋的なわからなさが、

神秘的にも感じられて、タロット占いの魅力であるとも言えるんですよねぇ。

1年経ちました

明日から2月。

毎年、1月はあっと言う間に過ぎていく気がするんですが、

今年はみっちりしたひと月だったなあ~という実感があって、

えっ、もう2月?っていう感じがしません。

はい、よい1月を過ごさせていただきました。

 

実は昨年の今日から、このブログを始めました。

1月末日からって、なんとも中途半端なとこから始めたもんです。

占庭がどんなお店で、占い師のわたしはどういうヒトか、

占術について、占いをどうとらえているのか、など、

占い関連のコト、そうでないコト(の方が多いんですけれど・・・・)、

思いつくままに書いてきまして、一年間です。

いつもこの、つたない文章をお読みくださり、ありがとうございます。

 

これからも細く長く続けていきたいと思っています。

今後とも、どうぞご贔屓に。