京都 四条高倉の占庭から

引っ張ってくれる人

本格的なお盆の帰省ラッシュは明日の祝日からだと思いますが、

夏休みを選べるお仕事の方などは、すでに旅行や帰省をされているようですね。

占庭にも遠方からお越しくださる方が増えてきています。

ここ数日でも、愛知、三重、千葉と、旅行を兼ね、もしくは占いが主目的で、

というありがたーいお客さまも。

ありがたいのですが、そんなに遠方からわざわざおいでいただいて、

それだけの意味なり、価値なりを提供できているのか、甚だ不安です。

が、最近はなぜか帰り際に「スッキリしましたー!」とおっしゃる方よりも、

「おもしろかった~!」とか「楽しかったあ♪」という方の方が多くて。

自分では何も変えてはいないのですが、

楽しみを求めて来られる方が増えているのかな、と感じます。

 

ま、とにかく「来なけりゃよかった、、、、」とお感じになっていなければ、

わたくしとしましては、ひとまず役割を果たせたかしらと、ほっとする次第です。

それに、本来、占いっておもしろいし、たのしいものだと思ってやっていますしね。

そう思っていただけたら本望です。

 

さて、今日はパートナー選びについて。

特定のお相手がいない方の恋愛や結婚について占うとき、よく、

「どういう人がいいと思いますか?」とお訊ねします。

やっぱり定番の「やさしい人」という答えももちろん多いのですが、

時代ですかねぇ、「ちゃんと働いてる人」という、

それ、基本中の基本やからね、と言ってしまうような答えも結構あります。

あとは「穏やかな人」「しっかりしている人」。

意外に多いのが「タバコを喫わない人」。

こちらも時代ですね。

 

そしてタイトルになっている「引っ張ってくれる人」というのも多いんですよ。

なんだかそれって「夫唱婦随」っぽくて、いまの世にそぐわない気がするんですが、

バリバリ仕事をなさっている女性でも、そういう方がおられます。

本人の星が「ついていくタイプ」もしくは「支える役割の人」であり、

パートナーの星が「リーダー型」、「わが道を行くタイプ」であれば、

まさに相手は「引っ張ってくれる人」であり、ご自身は従い支える組み合わせ、

ということになります。

けれども、そんな風に、まさにドンピシャ!はまってるわ、ってことは

めったにありません。

むしろ、お話を聞いていて、なぜ引っ張っていってほしいなんて思うのかしら?

と不思議に感じてしまうことの方が多いんですよ。

と申しますのも、

「あなた、自分が思うように引っ張っていった方がラクじゃないの?」

と思えるような人が、引っ張ってほしいなんておっしゃるから。

 

たしかに、

 

 自分よりもしっかりした考えの人が

 こちらの意向も吟味した上で

 強いリーダーシップを外へも向けて発揮し

 行動に責任を取ってくれる

 

というのが理想、というのはよくわかります。

そういう人を「引っ張ってくれる人」と思ってらっしゃる。

でもねー そんな都合よく素晴らしい人、実際にいます?

 

まず、どんなにしっかりしている人でも間違ってしまうこともあるし、

しっかりしている自信のある人ほど、自分の考えを通そうとしてしまいがち。

引っ張っていくことにこだわると、ゴリ押しで暴走しそうになったりも。

強いリーダーシップはひとつ間違うと押しつけや支配にもつながりかねません。

責任感の強い人はプライドも高いことが多いので、その扱いにくさもある。

と、どれも長所と短所が紙一重だったりするんですよね。

 

ですから、自分の考えがあり、行動力もそこそこある人であれば、

引っ張ってもらおうなんて考えず、むしろ、柔軟に意見をきいてくれる人や、

「全力でキミを支えたい」と思ってくれるような「ついていきたい」、もしくは

「並走していこう」タイプのパートナーを選んで、

そこそこ自分のペースで家庭を運営していった方が、

ずっとストレスも、モメ事も少なくていいんじゃないかなあ、と思うわけです。

 

お互い「我」は必ずあるので、それをどこまでどういうカタチで通していくか、

というのは、共に歩んでいく上で、結構重要なところじゃないかと思います。

引っ張ってくれる人に依存するというのは、相手よりもかなり多めに、

自分の「我」を手放したり、抑えたりする、ということでもあります。

ラクに生きようとして、ちがうしんどさを抱えることになったりもします。

 

やっぱりね、依存ってのはよくないです。

夫婦としては、どちらかがどちらかに寄りかかり過ぎない、

共に歩み、共に成長する「共存型」を目指していた方がいいと思います。

そのためには、精神的にはどちらもが自立しておかないとね。

うん。これはなかなか高い理想。

そう簡単にはいかないだろうけれど、できればそうありたいなあ、

と思っておきたいところです。

「負けず嫌いさんは超謙遜家」again

先日、初めておいでになったお客さまに、

「どなたかのご紹介ですか?」と訊ねましたら、

「いえ、検索で。『京都 占い』で出てきたので」と。

「えっ! ウチが出てきましたか! 全然ヒットしないと思ってたんですけど」

とビックリしました。

検索上位になる対策を何ひとつしていないので、

京都・占いでは、うーんと後ろの方になってしまうはずなんですよ。

よく辛抱にページをくってくださいました。

 

そのお客さま曰く、HPからブログを読んでくださり、

「ここはごくふつうの占いの店、占い師ではなさそう」

と思って来てくださったんだそうです。

「未来は決まっていません」とか「わかりません」とか書いてあったので、

ホントそうやわ、と思われたらしいです。

 

ありがたいですねぇ。

占庭とわたしのことをご理解くださって、その上でご来店いただけるとは。

こんなにうれしいことはありません。

で、初対面なのに、なんだか、わっはっはと何度も大笑いしながら、

たのしくお話しできました。

 

さて、久し振りに、秘儀・二番煎じを!と思い、1年ほど遡って物色しましたら、

これが見つかりまして、再掲載です。

kyoto-uraniwa.hatenablog.com

 

優位性を保ちたい=マウンティングという場合もありますが、

マウンティングの虚しさについては、もういろんな本も出ていますし、

今さらお話しすることもないですよね。

ただ、ひとつだけ。

永遠に勝ち続けることは不可能である。

ってこと。

 

そんなん当たり前やんなあ、と思えたらなら大丈夫。

最終目標

8月に入りましたね。

もう随分と長い間、強烈に暑い気がしているんですけれどねぇ。

まだまだ続きそうですね。

 

こちらは先日お参りした知恩院さんの蓮。

f:id:uraniwamiyuki:20170723130542j:plain

 

もうすぐにお盆だなあ、って感じますね。

占庭は、お盆休みはありません。

お盆期間中も、通常通りの営業です。

関西へお帰りになる方、ご旅行の方、どうぞお立ち寄りください。

 

「あの世」つながりで、ヨーガの先生から聞いた話を。

沖縄には、ユタと呼ばれるシャーマン的存在がありますが、

奄美の方では、ノロと呼ばれる巫(かんなぎ)がおられるそうです。

わたしが通っているヨーガ教室の先生が、あるひとりのノロの方と

懇意にしてらして。

その方が高齢で具合がよくなく、ご自身で、もうあまり長くない、と

おっしゃってるのだそうです。

それを聞いて、つらく、淋しくなり曇ってしまった先生の表情を見て、

ノロの方はニッコリ笑って、

「どうしてそんな顔をすることがあるの? これからいいところに行くのに」

とおっしゃったそう。

現世は修行の場で、やっとそれを終え、やれやれ、というところなのですって。

先生はその話を聞いて、死ぬことが怖くなくなったと話してらっしゃいました。

 

そうですよね。

死んだあと「いいところ」へ行くのならば、悪くないですよ。

 

でもそれって、現世でのふるまいや、徳を積んだとか積まないとかってのと

関係があるのではないかしら?

と、ふと不安になってしまうのが一般人というもので。

 

タロットカードには「審判」というカードがありましてね。

キリスト教でいうところの「最後の審判」がモチーフになっています。

終戦争が終結し、千年王国へ迎え入れられるか否かの審判の始まりを知らせる

ラッパが吹き鳴らされるシーンが描かれています。

善き人は千年王国へと迎え入れられ、邪な人は奈落へと落ちていく。

これは、日本でいうならば、お寺にある地獄絵図ですね。

正直、真っ当に生きていれば神様が見ていてくださる。

ウソをつけば閻魔さんに舌を抜かれるし、悪事はすべてお見通しで、

それらは各種地獄へとつながっている。

だから、心正しく、善く生きなければなりません。

という戒めです。

どちらも、信仰へと誘い、勧善懲悪の理を説くもの。

死後への不安や恐れは、万国共通ってことですねぇ。

「バチが当たる」的な抑圧って、意外に根強いんだなあとも感じます。

 

それに引き替え、そのノロさんがおっしゃる「いいところに行く」

っていう言い方は、とてもいいなあと思います。

生まれたからには、必ずや全員がいつか行くべきところですものね。

いいところなら安心だ。

と、単純なわたしはそう思うことにしました。

 

漫画家の水木しげるさんは、

「この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要はないよ」

と描いてらしたしなあ。

そういう考えも、ちょっと気楽にさせてくれますよね。

 

どうせ死ぬまでは生きなければならなくて、その間、

わからない不安や、得体のしれない恐れで心を痛めるというのは、

ナンセンスだなあと思えてきます。

だからね、できるだけ笑っていましょうね。

どんな顔をして生きても、同じ一生ならば、笑っていたほうがきっといいですよ。

 

命が終わるときに、

ああ、よく笑った。 みんな、ありがとうね!

って思えたらいいなー

それがわたしの最終的な目標かも、と思っています。

「もう」ではなく「まだ」

自分の年齢を言うときに「まだ」って言いますか? 「もう」って言いますか?

「もう〇〇歳なんです」って言う人が大半だと思うんですよ。

若くても、そうでなくても。

わたしもつい「もう50も半ばなんでー」とか言いがち。

だけど「もう」っていうよりか「まだ」って言ったほうが、

なんとなく元気出てくるなー 

と思ったので、これからは意識的に「まだ」と言うことにしようと決めました。

ま、わざわざ言わなくても、こころの中で思っておけばいいかな、ということで。

 

「おいくつですか?」

「(まだ)55歳です」ってふうに。

 

「もう」って言うと、なんかムダに歳だけとってしまいました、、、、

みたいな「不本意なこれまで」を感じさせませんか? 先細り感というかね。

 

「まだ」って言うと、それだけで「前向きなこれから」が広がるような

気配が感じられませんか?

ま、それはただの錯覚かもしれませんけれども。

でも、そこはかとなく励まされるようなこの感じ。

なかなかいい錯覚のように思います。

 

 

さて、今日は久し振りにカテゴリ「読書」で。

 

宮部みゆきさんといえば、ミステリ作家で、SF作家で、時代小説作家でもあり、

ゲーム小説も多いという、多才で多作な作家さんです。

そのどれもがクオリティが高く、エンターテイメント性も備わっていて、

内容に温かみがあり、すばらしい。

わたしは『龍は眠る』で大ファンになって、それ以来、ずっと読み続けています。

今日、ご紹介する作品は、講談社創業100周年記念出版の書下ろし。

とてもいい小説です。

 

『小暮写眞館』宮部みゆき

 

なんといっても”小暮写眞館”という字面がいい。

それだけで、少し遡った時代にワープできそうな気がします。

(といっても、現代の物語なんですけどね) 

いかにもミステリというようなミステリではないし、

人情話、って言ってしまうのもなんだか・・・・ 
家族、親戚、学校、友だち、恋愛、袖摺りあう他生の縁まで、

生きていくうえでイヤでも関わらなければならない面倒やしがらみ、

不幸、不運などが描かれます。 
それでも救いはある。 
逃げるよりは、やるだけやってぶつかって、砕けたってそれから立ち直ったらいい、 
って思えます。 


それから、誰かを愛するということは、やはり人として生を受けたなかでの

最高の祝福であるな、と。 
ま、ベタですが、そこへ落ち着きます。 

たいへん出来のいい小学二年生の弟、ピカちゃんが、不登校についてこう語ります。 

「ボクは思うけど、不登校の子って、学校が嫌なんじゃなくて、学校が怖いんだよ」 
と。 
そんなこと、子どもはみんなわかっている。他人事じゃないから。 
大人はみんな、ひとくくりに<いじめ>って言うけれど、それは大雑把である、と。 
それは立派な差別と迫害だ、ってね。 

学校が嫌で行かない子も少数ながら存在するとは思うけれど、

それでも「行きたくても行けない」子が圧倒的多数なのだろうな、とは思います。 
他人事じゃない、っていうのも、今の社会を映しています。 
”差別と迫害”これは、昔から変わらない。 


自分の子どもが大きくなってから、こういうこと、

真剣に考えることから遠のいていたのかもしれない。 
今も、今日もつらい思いをして、苦しんでいる子が、

たくさんたくさんいるだろうに。

物語のエピソードひとつひとつがそんなふうに、 
忘れた気になっていたよね? 
というように、チクリとした痛みを連れてきます。 
けれども宮部みゆきさんだから、温情があるし、人情が沁みる。

 
こうして庶民は生きていくもんだ。

けれどそこには、身の丈なりの矜持も持っていなければ。

という気持ちになれるのです。

(2011/6/24)

for better or worse @豊田市美術館

まだ夏休み序盤なのに、この暑さ。

おかしいんじゃないでしょうか?

と思うほどの今日この頃。

みなさま、体調を崩されたりしていませんか?

体のなかにこもった熱を取るには、スイカがいいそうですよ。

けれども食べ過ぎると内臓を冷やしてしまってよくないので、

ほどほどをこころがけて、ということです。

あんまりスイカ好きではないわたくしですが、

今年は食養生と思って、少しずつ食べています。

 

そんな猛暑のなか、昨日は思い切って名古屋へ行ってきました。

と申しますのも、長年、作品を追いかけ続けている奈良美智さんの展覧会が、

15日から、豊田市美術館で開かれているのです。

もう20年来の大ファンで、占庭の店内にもフライヤーやポストカード、

グッズ類をあれこれ貼ったり、置いたりしていまして、

わたしのこころの癒しとなっています。

国内では、5年前に青森であった2つの展覧会以来の大きな展覧会で、

個人所蔵の作品や、海外の美術館所蔵の作品も集められた、

奈良さんの数十年をたどるような展示となっている、

ということで、とにかく早く見に行きたくて。

 

世界中に散らばった作品をひとつひとつ集めて借り受けるのは、

予想以上に大変な作業だったらしく、この機会を逃すと、

もう二度と見られないものもたくさんあるようなのです。

だから、見ておかなくちゃ。

という気持ちももちろんありますが、それ以上に、

以前に、日本のあちこちの会場で見たあの作品に再会したい!

という思いの方が強くて。

再会したときに、わたしはどう感じるのだろうか。

どんな思いが湧いてくるのだろうか。

という興味もありました。

 

豊田市美術館は、さすがトヨタのお膝元らしく、車での来客用に造られている、

と聞いてはいたのですが、ひとりで訪れるのにはやっぱバスかなー

という結論に達しまして(経済的理由で)。

京都 ⇔ 名古屋は、高速バスで約2時間半。

往復切符ならば4,000円ほどと、お安いんですよ。

が、名古屋から豊田市までが約1時間と、予想外に遠かったんですけれどね。

でもま、初めて名鉄にも乗って、楽しかったです。

窓にカーテンがかかっていて、おっと思いました。

普通列車でカーテンって珍しいですよね?

 

豊田市駅からはタクシーに乗ります。

というのも、美術館まで乗れば、200円の入館割引券をもらえると知っていたので。

徒歩15分くらいの距離ですが、この割引制度もあり、往きは上り坂でもあるし、

タクシーがオススメです。(690円でした)

 

タクシーは裏口につけてくれるので、すぐに建物の中には入れますが、

建物自体の美しさは、表玄関から見てこそです。

そう。自家用車の駐車場があるのは表玄関側なのですね。

ここでもクルマ社会の地域性を感じます。

 

表玄関側は、スカっと開けた気持ちのよい空間で、実にさわやかです。

 

f:id:uraniwamiyuki:20170727151621j:plain

 

 

近づくとこんな感じ。

f:id:uraniwamiyuki:20170727151625j:plain

 

展示室は2フロアにわたっていて、贅沢なほど広々としています。

天井も高く、圧迫感や閉塞感がなく、伸び伸びとしながらも、

まったくスカスカはしていなくて。

しかもそれが、実は綿密に計算されていたのです、

みたいな感じもなくて、とにかくナチュラルで心地いいのです。

 

ずっと前に見た作品、見たい見たいと思いながら見られなかった作品、

そして新作と、どの展示室でも、なんか胸いっぱいになってしまって。

小屋のなかでは、じーーーっと動けなくなってしまって、係の人に、

「あのー、そろそろよろしいでしょうか?」と退出を促されてしまいました。

スミマセン。

 

今回、奈良さんの作品の変遷をたどるような展示を見て、

改めて、奈良さんが「表現する」「制作を続ける」ということと、

どれだけ真摯に向き合い、闘ってこられたのか、が胸に迫りました。

きっと、作品の意味や、創り出すことの難しさ、技術的なことなどは、

わたしは全然わかってはいないのだろうけれど、

それでも感じるものはたくさんあって。

 

以前に触れた作品と再会することで、自分の過去とも再会するような、

そんな気持ちにもなりました。

 

同じ作家の作品を作者と同じだけの時間を経て見ていける、というのは、

同時代に生きている者の特権です。

よくぞ奈良美智さんと同世代に生まれけり、と思うほど。

それくらい長年好きでいられるって、しあわせなことだなと思います。

 

帰り道は駅まで歩いたのですが、熱風が足元から吹き上がってくるようで、

ほんとにもう、なんちゅう暑さだろうかとクラクラしました。

こんな暑さのなかを陸上競技とか、ましてやマラソンとか、

選手も観客も命がけやん、と3年後のオリンピックが心配にもなります。

 

そして、汗だくでたどり着いた駅前で遅い昼食を。

せっかくなので、名古屋っぽいものをと考え、迷って結局、きしめんにしました。

おいしかったです。

 

豊田市美術館では、奈良さんの展覧会の後にジャコメッティ展があるそうで、

そちらも見てみたいなあ。

その頃ならば、駅から歩いてもいいかな。

もう道も覚えたことですし。

くふうしよう

今朝は久し振りに ”京都でモーニング” の日曜日。

先日、デヴィッド・ボウイの写真展が開かれていたホテルアンテルーム京都さん。

モーニングがとてもいいらしいよ、という話を聞いていたので、

一度行ってみたいねと話していたのでした。

 

こちら 

f:id:uraniwamiyuki:20170723130536j:plain

(左下部が謎に切れてる・・・・どうしたらこんなことに??

 やろうと思っても二度とできないんですけどーーー)

 

そう、オシャレな雰囲気があふれていますでしょ?

アヴァンギャルドでございましょ?

 

まず、入ってすぐのロビーでひとり千円のモーニングチケットを買い求めまして、

レストランへと。

モーニングはこんな感じ。 

 

hotel-anteroom.com

 

ピタサンドやクロワッサンサンド、スムージー、シリアルなどのメニューから、

ひとつ「主食」にあたるものを選びまして、

ドリンク、サラダ、スープ、ヨーグルトはセルフバイキング。

このバイキングがシンプルながらも充実していて、

そのフレッシュさと清潔感がすばらしい。

もちろん、お味も言うことなし。

 

ホテルらしいゆったり落ち着いた雰囲気、過不足ないホスピタリティと、

実に居心地のいい空間でした。

いや~、よかったわー

リピ決定。

お近くの方、おすすめですよ。

 

では、占いの話をしましょうか。

ここのところ、似た星回りのお客さまが重なっていたので、その星について。

 

生年月日から命式という、星の配置表というか、運勢表を作成するのですが、

ココにこの星が入っている人は、ムリせずなんとかなる人生を歩めるだろう、

という、うらやましいような安全パイな星の配置があるのです。

この「ムリせずなんとか」の意味は、本人が、ってことなので、

本人がムリせずにいることで、伴侶や家族など周囲の方が必死でなんとかしている、

という場合も含まれます。

なので、周囲の人にしてみれば、

もうちょっとムリしようよ、頼むから。

と思わされる人という可能性もあるわけですね。

これは、まずいパターン。

 

で、ですね。

この「ムリせずなんとかなる」星を周囲に迷惑をかけずに活かすポイント、

というものがあるのです。

そこをこの星の持ち主の方には、ぜひ知っておいてもらいたい、

と占い師は、周りの方々のためにも願わずにいられません。

 

そのポイントはですね「日々、工夫する」ということなのです。

うん。よくわかりませんよね。

ご説明します。

 

日々の生活や、お仕事をするなかで、ちょっとしたアイデアやアレンジで、

ぐっとラクになったり、楽しいものに変わっていくことがあります。

その場の空気が張りつめていたり、ギスギスしていたりするときに、

視点を変えたり、アプローチの仕方を少し工夫をしてみる、

ということで、すうっと風が通ることって、ありますよね。

そんな感じです。

雰囲気にのまれてしまうのではなく、そこでちょっとした「工夫」を凝らしてみる。

工夫を楽しむ心の余裕をもつ、ということ。

そうすると、その余裕が潤滑油となり、人間関係をスムーズにしてくれます。

それによって、自然にムリせずなんとかなる人生へとつながる流れが作られていく、

ということらしいのです。

 

ですので、まずは「工夫」を凝らす。「工夫」を楽しむ。

というのがポイントになってくる、というわけなのです。

工夫なんていう、どうってことないことで、

ムリせずなんとかなる人生を手に入れられるって、

なんともラッキーな星回りですよねぇ。

うらやましいです。

わたしも工夫するのは大好きなので、こんな星がついていたなら、

今ごろ、つるんつるんにスムーズな人生を歩んでいたんじゃないかと思います。

残念。

 

けれども、そういう星がついていない人も、日々の生活を楽しむ工夫ってのは、

したほうがいいですよね。

大半の人が、毎日ごはんを食べ、排泄もし、勉強したり、働いたりして、

お風呂に入って、寝る。

みたいな、大きなルーティンの毎日です。

そのなかで、工夫する余裕、たのしみを見つけようとする心がけが

ある人とない人とでは、やっぱり潤いっちゅうもんが違う気もします。

つまんないー つまんないー と思って生きてたら、

おもしろいものもUターンしていってしまうんじゃないですかねぇ。

ちょっとした工夫をして自己満足にひたる、というのは実はイイことなんですよね。

ですので、よくいるダジャレ好きな人とかね、ゆるしてあげましょう。

あれはあれで意味があることなんですよ。

しつこいようですが何度でもいいますよ

最近はそれほど見かけなくなった、トイレットペーパーの三角折り。

「掃除しました」印でもあるらしいのですが、

ひと昔前は、そうしておくのが次の人への心遣いである、

みたいなマナー的圧力がありました。

わたしはめんどくさがりだし、劇場などのトイレなどでは、

「こんなん折ってるヒマがあるなら、さっと出てきてー!」と思うタイプ。

先日、

「三角折りは不衛生なのでやめて!!」というネット記事を読んで、

ほーーー、なるほどーーー、と思いました。

用を足した後、洗っていない手でトイレットペーパーを触るということで、

もしかしたら何らかの「菌」が付着する可能性がある、ということらしいです。

たしかに、ノロとか、まったくないとは言えないですよね。

なので、気にする人は、折ってある部分をちぎり捨てて使うのだそうで、

二度手間になるし、ムダだからやめて欲しい、書いてはりました。

な、なるほどね、、、、と思うものの、そこまで気にしてたら、

不特定多数の人が使用するトイレで用を足すのは、大変だなあ、

と思ってしまうのは、わたしがテキトーな性格だからですかね。そうですね。

 

さて、このブログにも何度も書いてきたことを再度書きます。

と申しますのも、多過ぎるからです。

自分への点数が辛すぎる人が。

 

恋人がほしい、結婚相手と出会いたい、と思ってらっしゃる人に、

「いま、自分で自分に点数をつけたら百点満点で何点ですか?」

とよく訊ねます。

「誰にも発表しないんだから、いい点つけてね」と言うてもなお、

「50点くらいかな・・・・」とおっしゃる方がとても多いです。

そういう方は「自信がもてない」と思ってらっしゃるのと同時に、

控えめで謙虚な人、ということに間違いありません。

感じのいい方なのに、なんで50点?と不思議でしょうがない人ばかり。

ちょっとキビシイことを言わせていただきますとね、

「50点」と評価することで、安心しようとなさっているところも

あるんじゃないかと思うんです。

「どうせわたしは50点くらいの人間だから、こんな毎日なんだ」って。

 

 がんばってない自分が悪い。

 もっと欲をもてない自分が悪い。

 

とうまくいかない原因をすべて「自分」にすることで、

気が済んでしまってはるんです。

全部悪いのは「自分」って。

 

それはね、ほんとーに、ご自身に対して失礼だなと思うんですよ。

ちゃんと働いて毎日を生きていく、それだけでも大仕事です。

そこをまずはちゃんと評価すべきなんじゃないかと思いますよ。

 

「自分は50点と思っていたら、50点くらいの人と出会って、

 50点くらいの恋愛をして、50点くらいの結婚をして、

 50点くらいの人生になる、って言われてるのよ。それでもいい?」

とお訊きすると、みなさん、それはイヤとおっしゃいます。

イヤ、というお顔をされると、ホッとします。

「それでもしょうがないですね」とか言われると困ってしまいますから。

 

それに、自分は50点と思ってらっしゃる方でも、

「それじゃあ、あなたは50点の男の人を好きになる? 結婚したいと思う?」

とお訊ねすると、それもイヤ、とおっしゃいます。

ここでも、よかった、と思いますね。

50点の人ではイヤだ! という気持ちは正しいし、よいことです。

そのためには、自分も50点くらいだし、という評価ではいられない、

ということにつながるので。

 

自己評価というのは、誰かにしてもらうものではないので、

自分対自分の個別懇談のようなものです。

外向きの自分、内向きの自分双方が向き合うような。

そこに他人の目線を入れる必要はないんです。

誰だって、自分好きなところもあるし、ここはほんまにイヤな奴、

って思うところだってあるはずなんですよ。

そこを一旦、全部ぶちまけてみて、好きなところは好き、と思ってみる。

客観的にイヤと思えるところは、少しずつ克服する努力をしようと

ちゃんと決意する。

その上で、がんばってる部分をよりクローズアップして褒めてあげてください。

 

 よくやってるよ、ワタシ。

 

って。

スタートはそこからです。

80点、90点のパートナーとめぐりあうためにも、

自分自身にちゃんとよい点をつけてあげてください。

これはもう、お願いですから、と言いたい。

しあわせをつかむのに、遠慮なんかいらないんです。

ガツガツしてほしいというのじゃないんですよ。

自分に遠慮をするのは、無意味であるし、

自分自身をないがしろにしていることにも通じてしまうのよ、

ってお伝えしたいだけなのです。

みんな、しあわせになってほしいの!