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京都 四条高倉の占庭から

物語へ逃げる

読書

数日間、ずうっと占いについて書いてきたので、

今日はちょっとおやすみして読書について。

 

わたしは字が読めない頃から、すでに本好きでした。

というか、そうだったらしい。

「赤ずきん」を暗唱しながらひとり遊びしていたらしいです。

幼稚園に入れば「キンダーブック」が大好きで。

小学校に入ると、図書館というワタクシ的パラダイスが登場します。

まさに夢の国でした。

わたしは、あまりハートフルとは言い難い家庭に育ったもんで、

家の中が、まあまあつらいわけです。子ども心に。

4歳下の妹がいるお姉ちゃんで、

つらくても誰にも相談もせず、泣きもせず、という子どもでした。

けれども幸いなことに、わたしは学校には適応できたので、

つらいのは家庭内だけでありました。

 

で、そういう画に描いたような長女気質の子どもの頃のわたしはというと、

物語の中に逃げていたんですねぇ。

読書は最高の現実逃避手段でした。

ま、それしかなかったんですよ。その時代。

いまなら間違いなくゲーマーになってたと思います。

 

貧乏くさい日本の昔話なんかはお呼びではなく、

魔法使いや、旅人や、人でなしのまま母が出てくるような、

主人公の名前がカタカナの、翻訳ものが大好きでした。

非日常であればあるほどウレシイ、という。

 

「クリスマスは何が欲しい?」と訊かれれば、

本!

「誕生日は何が欲しい?」と訊かれても、

本!

出張に出る父に、

「お土産は何がいい?」と訊かれると、

甘栗!

そのへんは臨機応変な子どもでした。

 

重度の活字中毒で、三十代は病的なくらい読んでいましたが、

四十代半ばで生活が変わり、ガクッと読書量が減りました。

それでちょうど人並です。

いまは現実逃避ではない読書ができていて、ありがたいことです。

 

で、ですね、SNSに書き溜めていた昔の読書日記から、

おすすめの本のご紹介をときどきしていこうと思っています。

今日は大好きな川上弘美さんの作品です。


「真鶴」川上弘美  

ひとり娘が3歳のとき、失踪したままの夫。
失踪の理由も、生死も定かではない。
そのまま、13年が経ち、

母、自分、娘の三世代・三人の女がひとつ家に暮らしている。

わたしには息子しかいないから、娘という「いきもの」がわからない。
こんなにも、母親を痛めつける(精神的に)”者”なのか。
こんなにも生々しい存在感を振りまくものなのか。

ウチの息子は単純にして、打たれ強く、

柔らかな感性をもっているわりには、撓う強さも持っていたので、

乱暴に取り扱っても、ヘンな傷つき方を表すことはありませんでした。
もちろん、取り扱い注意の時期はそれなりにあったにせよ、

わたしの精神を攻撃するようなとがり方はしなかった。

「真鶴」は、しんとした、小説です。
淡々と、現実も幻想もそのあわいも、

信じようが信じまいが、こう書くしかないのだ。
とでもいうような、決意のようなものを感じます。
読者に媚びた部分のない、選びぬかれた、シンプルで衒いのない、

裸んぼうの言葉が血を流しているようです。
作者が、まさに意を決して書いた小説なのでしょう。

いつもの川上弘美さんらしい、

ふわふわとした毒気の薄い心地いい騙され感を期待して読んでは、

あまりの違いに驚くことでしょう。
でも、伏線はありました。

最近の作品は、これに向っていたのだな、と思うといろいろ納得できます。

作家というのは、しんどい生業だな。
と思います。
昔は憧れたもんですけどね。

(2007/7/29)