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京都 四条高倉の占庭から

賢い子ども

かなり前のお話なんですが、京都への電車の中、

混み合っておりましてわたしは立っておりました。

前の座席の、小学校高学年と思しき男の子が、

一心不乱に国語の問題集をしていたんですね。 

お受験なんかなー、大変やな、と思って見ていたら、

この子ようくわかってるんですね。ほとんど間違ってない。

それに解くスピードも、書くスピードも速い。

その問題の中に、熟語のヘンやかんむりやらつくりを組み合わせて、

違う熟語を作る問題がありました。

すいすいと余白に適当に組み合わせた漢字をメモし、組み合わせていきます。

ひとつだけ間違ってました。

答えは『祝辞』なのですが、この子は『辞祝』と間違えていました。

作る漢字は合っているのですが、上下が逆になってるんですね。

「ジシュク」という言葉もありますもんね。


この子、祝辞がどういうことか知らかったんでしょう。

大人なら、小学校のとき国語の成績が1だった人だって、

祝辞がどんなもんで、どんな字か知ってます。

自然と知り、身についているわけです。

小学生に「祝辞」は縁のない言葉。

せいぜい、卒業式でどこかの偉そうなオジサンが喋るコトくらいなもんでしょう。

機械的に字をバラバラにして、組み合わせ、それをまたくっつけて熟語にする。

それを意味がよくわからなくても、暗号のように丸覚えしていく、なんてこと、

よい勉強だとは思えないですよねぇ。


なんだか切なかったですね。

その内、自然に覚えるだろう言葉を無機質に詰め込むようで。

入試というものがある限り、何かで選抜しなければならないのでしょうが、

薄っぺらな教育だなぁと思えてしょうがなかったです。

で、その数日後、花園でラグビーを見てたのですが、

後ろで観戦してた親子連れが、お父さんと小学校中学年くらいのお嬢ちゃんと、

低学年くらいのボク。

お父さんとお嬢ちゃんがよく喋るんですね。

気の合う親子なのでしょう。(親子にだって相性はありますもん)

ラグビーにも、ものすごく詳しいんです。ルールも選手も。

審判まで「あ、お父さんの嫌いな審判の人や」なんて。

でも、優等生臭いわけではなく、子供らしい喋り方で、

わからないことは素直に訊いてるんですよ。 

けれども、聞いたことは自分なりに考えて、理解しているんだなぁと感じられて、

なんて利発な子なんやろなぁと、舌を巻きました。

お父さんが「トヨタは日本でいちばん大きい会社やで」というと、

「自動車をつくってるところで、ってこと?」と訊く。

しつこいようですが、小学校中学年くらいです。

普通は「ふーん」で終わりですよ。

「いや、いろんな会社全部でや」とおとうさんが答えると、

「電機とかも入れて?」と訊くのですよ。

もうびっくり。

ここで「鉄鋼」なんて言葉が出てくると、それはそれで興醒めなわけですが、

「デンキ」なら、コドモらしい。

きっと、お父さんが大好きで、お父さんの言ったことはちゃんと聞いておいて、

覚えておいて、その話がしたい。

”よう覚えてるな””おお、すごいな”と褒められたい、もしくは喜ばせたい、

っていう子供心なんやろなぁ。

と、わたしは感心しながら聞いておりました。

もうなんべん振り返って「お姉ちゃん、ほんま賢いなぁ」と言いたかったことか。

このお父さんも、勉強させようと話してるわけじゃないんですね。

子供の質問に、できるだけ、誠実に答えようとされているのがよくわかりました。

まあ、こんなにスポンジのようにどんどん吸収して、ちゃんと咀嚼して、

身につくさまを見ているのは、親としてもウレシイだろうな、とは思います。

丸暗記した知識と、自分の中で自分にわかるように変化させて身につけた知識とは、

答案用紙に書く答えは一緒でも、中身が違うように思うのは、

情緒的に過ぎるでしょうか。

カタチにならないもの、感情や感性を育てるのはむずかしい。

親自身がそれを大切にしていなかったら、子供にもそれは一種の価値観として、

植えつけられるかもしれません。

もちろん、持って生まれたその子その子の素晴らしい感性は、

どこで芽吹き、開花するかはわかりません。

そのためにも、いろんな人や、場所や、時間や、

もろもろ五感に訴えるものに出会い、触れる機会は大切だと思うのです。

自分の子育てがどうだったのか、それはもう敢えて自問しません。

わたしは、わたしなりに考えて、よいと思う道を選んで、

楽しんで子供と暮らしてきました。

よい親になろうと無理なことはせず、過剰な努力もできないので、

等身大でいるしかなかった。

わたしに足りないところは、家の外で得てくれるよう、促し、願っていました。

完璧な親も子も存在しないと思います。

みな、欠けた部分をもち、それが個性でもあり、

誰かにとっては魅力に映る場合もあるのです。

欠けた部分を許し、おもしろがり、それでよいのだと思えたら、

随分ラクに生きられるはずです。

なんて、努力しなかった言い訳なんですけれどもね。