京都 四条高倉の占庭から

ムリしないでネ

いま時分よく咲いているアオイ科のお花の見分けが難しい。

タチアオイはかろうじてわかるけど、フヨウとムクゲの見分けがつきません。

ふたつ並べて説明してもらったら覚えられるかしら。

どれも強い日差しに負けずに咲き誇り、その姿にいつも感心してしまいます。

暑さにくじけず美しい、というところに、

はあああ、えらいわねぇ、、、、と感心してしまうわけです。

それは、自分が頑張り屋ではないという、後ろめたさがそうさせるんですかねー

なにしろ、一番苦手なことは「粘る」ということで、あきらめるのは超早いです。

匙を投げるということに関しては、その早さにおいても、遠さにおいても、

相当なものがあります。

ちっとも自慢になりません。

あ、ひとつ、いいことがありました。

粘着度が極低ということは、切り替えが早いということ。

恨みを持たない(いつまでも覚えていられない)

クヨクヨしない(同じ感情に長く留まっていられない)

というメリットもあるにはあります。ははは。

 

けれど、粘りはあった方がいいに決まっています。

なんでもすぐに投げ出していては、どれもこれも尻切れトンボで

終わってしまいますもんね。

では、なにがなんでも、ムリをしてでも粘った方がよいのか?

となると、それはケースバイケースで。

良い場合もあり、悪い場合もありましょう。当然ながら。

粘り過ぎて、引くに引けなくなり、引き際を見失ってしまう、

というのが、粘りがあり過ぎる人の失敗点になりやすい。

 

さて、その「ムリ」が曲者なんですねぇ。

「ムリしないでね」と、あちこちで、いろんな人に、いろんな場合に、

つい言ってしまいませんか?

すでに挨拶や慣用句みたいになってたりしますよね。

うん。それだけ、ムリし過ぎる人が多いってことなんでしょう。

ムリって、ある程度までするのは当然と思われてるところもあって、

粘りと同じで、どのあたりまでのムリが適当なのかがわかりにくいです。

かなりムリしてるけれど、ムリしてると見せたくないという矜持の持ち主も多くて、

そういう人に「ムリしないで」なんて言ったら、

ますます頑張らねば、と思わせることになってしまったり。

頑張らないというのは、よくないことだというのが世の共通認識なので、

とにかく頑張っておけば、後ろ指さされないし、という頑張り方もあるようで、

それはちょっとどうなのかなあ、と思ってしまいます。

それと、困ってしまうのが限度がよくわからないもんだから、

限界まで、倒れるところまでやってみる、なんて人。

これ、かなりカッコ悪いので、やめておいた方がいいです。

せっかくの頑張りが、結局はまったく評価されないことになってしまいます。

非常にもったいない。

 

そこそこのところでムリをやめる、というのはとても難しいことで、

それができる人というのが、実は本当の意味でデキる人なのかもしれません。

途中でムリをやめるのは、見栄もプライドも邪魔しまくりますし、

大変勇気の要ること。

自分の能力を正確に測り、立場を客観的に把握していなければできないこと

なんですよね。

ここでも、自己を過大評価する、過小評価する、っていうことがモンダイに

なってくるようです。

等身大の自分を知るって難しいですね。

ひとりで自分自身を知るというのは、たぶんできないのだと思います。

いくら思索を深めても。

できれば多種多様な人と関わって、その中で自分を知っていく、

というのが理想なんじゃないかと思いますね。

その過程で、ムリしている人、してない人、しすぎてる人、しなさすぎの人を

たくさん見て、だんだんとわかってくるんじゃないでしょうか。

 

ムリもずうっとしてたら、それがふつうになってしまいます。

「やるときはやる人」くらいが、一番評価され、カッコイイのかもしれませんね。