京都 四条高倉の占庭から

楽観力

最寄バス停付近のエコ除草ですが、今朝はヤギが4頭に増えており、

且つ、ヒツジも4頭追加投入されていました。

ヤギはひどく痩せていて、この任務のために絶食させられていたのでは?

と心配になるほどに、必死で草を食んでいます。

ヒツジはえらくドロドロに汚れていて、元の毛色は白でないのかも、と疑われます。

モコモコの毛が、気の毒なくらい暑そうで、臭そうです。

ちなみに除草の進捗状況は芳しくありません。

これはかなり気長に見守るミッションになるかと。

よしよし。バスを待つ間、まったく退屈しません。

 

今日は楽観力について。

そんな言葉は、たぶんないとは思うのですが、楽観的になる、というのも、

才能の要ることではないかと思ったもので。

 

実は頭痛持ちのワタクシ。

今朝、頭痛に苛まれながら、なぜか自分の才能について考えていました。

「自分にはこの”才能”がある!」と思えるものがあるだろうか、と。

なんでそんなことをただでさえ頭が痛い時に考えるんでしょうね。

我ながら謎です。

 

で、この「楽観力」を思いついたんです。

わたしにはこれがあるじゃないか!と。

 

ものごとは万事「なるようになる」わけですが、

その「なるようになるさ」の先を明るく思うのか、暗く思うのかで、

同じ「なるようになる」の気の持ちようが違いますよね。

 

わたしは、これでもまず「最悪」を考えるタイプで。

最悪の最悪を考えていると、

「いくらなんでもそこまでの最悪はないやろ~」

と、思える最悪まで行きつきます。

もちろん、その最悪は避けたいに決まっているのですが、

最悪、その「最悪」に遭遇したとしても(ってヘンな日本語だけど)、

まあ、命を取られるほどのことではないしな。

と、うろたえる気持ちが鎮まり、向き合う肚が据わる時がやってきます。

窮鼠猫を噛むを体現するように、どん詰まりまで追い詰められて逃げ場を失い、

くるっと振り返る瞬間が訪れるということですね。

そこまでは苦しいんですが、なにせ粘りのない性格のワタクシ、

いつまでも同じことに悩み続けていられないので、

「まっ、なるようになるわ」と、なぜか根拠はないけれど、

そのへんでもう暗い想像をしなくなるんです。

「悪いこと考えてたら、そうなってしまうしな。やめとこ、やめとこ」

と自分を納得させるのなんか、大得意。

これは楽観力と呼んでよい”才能”ではないか、と思った次第です。

 

心配性な方というのは、まだ起こってもいないことを

先回りして、ああなって、こうなって、こうしたら、ああ、もう最悪やん!

どうしよう・・・・と堂々巡りを繰り返してしまわれます。

そうして、あらかじめ心配して、悩んでおかないと、

コトが起こったときにうろたえて対処できない、と思っておいでです。

けれども、そうして想定しておいたことがその通り起こるというのは、

滅多にありません。というか、ほとんどないのが現実です。

現実はもっとシビアで劇的だったりします。

要するに、ほぼ全部に近いものが、心配し損、悩み損です。

そして、心配性な人ほど、案外、コトが起こったときに、

結構、臨機応変に立ち回り、最悪は回避されているんですよね。

要するに、出たとこ勝負がちゃんとできてらっしゃるんです。

それならば!

あらかじめ思い悩まずに、早めに「出たとこ勝負でもなんとかなるだろう」と

見切りをつけられたらよいかと思うのです。

人の一生は、みんな、失敗と軌道修正の無限ループです。

いちいち悩んで心配して落ち込んでたら、あっと言う間にお別れがやってきそう。

それじゃあもったいないです。

そこそこのところで切り上げるためには、楽観力が威力を発揮しそうな気がします。

 

もちろん、ただ見通しが甘いだけの、考えなしの楽観視は問題がありますが、

行先を闇として思い描くよりかは、光明が差してくるイメージを

持つ方がいいと思いませんか?

 

 トンネルの先の方に見える白い点のような光。

 洞窟の天井の岩の隙間から漏れる、キラキラした陽の筋。

 重く垂れこめた雲間から伸びる天使の梯子

 

どれも素敵です。

そんな風に、ここはひとつ、楽観力も肯定してみてはいかがでしょう。