京都 四条高倉の占庭から

りんご・バナナ・みかん そして羊羹 時々おはじき

先日、スーパーで買い物をしていましたら、カゴの中に、

りんご・バナナ・みかんが入っていて、思わずクスっと笑ってしまいました。

この顔ぶれ、算数問題の定番やん、って。

子どもが小さいころ、算数の説明をするのによく使いました。

 

りんごが2個、みかんが3個、合わせて何個ある?

ってやつですね。

足し算、引き算に大活躍でした。

 

子どもがまだ九九を習う前のこと、なぜかお風呂のなかで割り算の話になりました。

塾に通っている友だちから、掛け算や割り算の話を聞いたようで。

わたしは割り算の説明には羊羹を使いたい。

羊羹を二等分、三等分で説明したいわけですよ。

ところが、お風呂のなかでは絵に描いて説明ができません。

うーーーん、、、、と不本意ながら、みかんで説明することになりました。

 

「みかんが4つあるとするがぁ。それをふたりで分けたら何個ずつになる?」

と、子どもに訊ねました。(そう、当時は岡山弁です)

「2個ずつ!」と、うれしそうに子どもは元気よく答えます。

「正解。それが4(個)÷2(人)=2(個)ってことなんよ」

と言いながら、もうちょっと大きい数だと、おはじきで説明もいいなあ、

なんて思っていましたら、しばし考えた子どもが、

「そしたら、みかんが5個あったらな、2個ずつして、

 あと1個はジャンケンじゃなっ!」

と得意満面で発表するのでした。

鼻の穴をふくらませ、それはそれは楽しそうな顔を見やりながら、

「いや、残り1個は半分んこにするんよ」

と脱力気味に説明する母・ワタクシ。

割り算は瞬時に崩壊してしまったわけですが、

いやいや、ジャンケンの方が楽しいよなあ、とも思ったのです。

 

割り算ならば、5÷2=2.5でしかないのですが、子どもの世界では、

小数点はなく、半分んこでもなく、ジャンケンが公平な手段なのでした。

 

将来のため遅れを取ってはならじと、授業を先回りした学習を追うていたなら、

あと1個はジャンケン、という発想は、より早く除外されてしまうことになります。

もちろん、そういう学び方を否定するわけではないのですよ。

先へ先へ、もっと早く、もっと深く学びたいという意思のあるお子さんも

いらっしゃると思います。

そういうお子さんは、学べば学ぶほど伸びてもいかれると思うので、

才を伸ばせる学習環境下においていただきたいですね。

要は、その子その子の学び方の適性があるということなのです。

当たり前のことですが、誰かの成功譚がどの子にも当てはまるものではないわけで。

 

先日、著書を何冊も上梓されている女性とお話ししていたのですが、

その方は、高校を出る頃まで、勉強も運動も苦手。

何かに対する意欲というものもほとんどなく、

ひたすらぼーーーーーっとした子どもさんだったそうです。

ふつうの人が歩むような、ちゃんと進学し、就職してOLさんになる、みたいな、

標準的なことは自分には無理だろうということはわかっていたんです。

ふつうのことはできないから、ふつうでないことするしかなくて。

と笑ってらっしゃいました。

けれども、そこから自分なりに道を見つけ、投げ出さずにやってらした。

それがあっていまがあるので、子どもの頃や若い頃に戻りたいなんて

全然思いません。いまが一番ラクで、生きやすい状態ですから、

とおっしゃっていました。

ああ、ご自分の道をマイペースで、けれども決してサボらずに一歩一歩、

歩んでこられたのだなあ、としみじみ感じ入りました。

 

子どものころにいろんな才を開花させ、それを維持していくのは大変ですが、

遅くに開く花というのは、急拵えであることはめったになく、

自らの分から大きくはみ出してもいないので、空中分解しにくい良さがあります。

 

親御さんは皆、我が子には早く自分の道を見つけ、

これでなんとか生きていけるだろう、という安心感を得たいので、

つい焦りがちになってしまうもの。

その気持ち、とてもよくわかります。

けれども、早咲きの子があれば、遅咲きの人もあるのです。

親の安心のために、子どもを急かしてしまうのは、ちょっとかわいそうだなあ、

と感じることはよくあります。

子育ては本当に「待つこと」の連続ですよね。

きっとそれは何歳になってもそうなのでしょう。

上手に「待つ」のは、いくつになっても難しいなと痛感すること多々です。

親も一生修業なんだなあ。