京都 四条高倉の占庭から

ピンチはチャンスではなく チャンスにもなり得るということ

我が家の近辺の木々の紅葉は見頃を過ぎ、落葉し始めています。

今朝は強めの北風で、色とりどりの落ち葉が路肩に吹き寄せられていました。

晩秋ですねぇ。

 

この晩秋にひと際目立つ花と言えば、皇帝ダリア。

見た目は真夏の花のようなのに、日照時間が短くならないと花芽がつかない

品種だそうで、冷たさを増してきた風にも負けず咲いています。

ぎょっとするほど背の高い花なので、皇帝ダリアという名前は知らなくても、

見れば、ああ、あのお花かあ~とわかっていただけると思います。

こちら ↓

www.shuminoengei.jp

 

いま、あちこちのお庭で見られますよ。 

 

 

さて、今日は人間関係のお話を少し。

人が寄ってくる人、っておられますよね。

というか、人というのは、集めようと思って集められるものではなくて、

魅力のある人のところへ自然と集まってくるものなのでしょう。

けれども、魅力のある人のところへ必ずしも人がたくさん集まっている

というわけでもなく、たくさんの人に囲まれている人が、必ずしも魅力的である

とは言えないこともありますね。

それは、どういう意図で集まっているのか? によるのです。

 

人間的な魅力があって、この人と関わっていたい、この人のことをもっと知りたい、

という、純粋な人間性に惹かれて、集まる人ばかりではないということです。

 

追い風を受けて、ぐんぐん伸びている人の周りには、

この人のそばにいれば、自分にもいいことがあるかもしれない、

この人の周りに集まる人と縁をつなげば、得するかも、

という、おこぼれ頂戴的な人も集まってきやすい。

いわゆるコバンザメですね。

人が絶好調の時には寄ってきて、ピンチになるや、スーーーっと消える。

それは危機管理と主張されれば、なるほどそれもそうだと思う側面もあるので、

そういう人がみんな、人でなしだとは申しません。

そうして生きていく人も、世の中には一定数存在するのも本当のことですしね。

 

ま、そういう人は、どうだっていいんです。

自分がピンチになり、人が離れていったときにこそ、

自らを冷静に省みることに大きな価値があるよ、ということが言いたいの。

好調なときにはいい顔をして、利用していたくせに、用済みと判断すると、

手のひらを返して知らんぷり。

そんな人を恨んだり、嘆いたりするのは愚の骨頂ですよ。

そんな人は、ホント、ど~だっていいんです。

大事なのはピンチに直面している自分について考えること。

 

そんな態度を取られてしまった自分が、その程度の人間であったかと、

まずそこを認めるところから出発です。

ここを認めず、相手を非難したところで時間の無駄にしかなりません。

 

ピンチに直面した時、人は真価を問われるのでしょう。

本当によい友人、知人を自分はどれだけ得ていたのか、が明るみに出ます。

励ましたり、手助けしてくれる人は天使のような存在ですが、

真にありがたいのは、目の前の難局を乗り越えるために知恵を絞り、

叱ったり、敢えて厳しい言葉を投げてくれる人です。

一文の得にもならないのに、嫌われるかもしれないことを言ったり、

してくれたりするなんて、それこそ神か仏か、って存在ですよね。

 

ピンチの時には、心は弱るし、誰かにすがりたくもなる。

見せかけの優しさにホロリときてしまうこともあるけれど、

そんな時こそ、ひとりで立たないとダメですよ。

ヨロヨロしながらでも、前を見て立っている人を

ホントの友が見捨てることはないはずです。

 

昔から、ピンチはチャンスと言いますけれど、そんなイージーなもんじゃない。

ピンチは明らかにピンチです。

けれども、ただのピンチで終わらせなければ、己を知り、周りも知る機会となり、

ひとつ格上の自分になるチャンスと捉えれば、大きなチャンスなのかもしれません。

 

そして、ピンチの時こそ力になれる友でありたいなあと思うのですよ。