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京都 四条高倉の占庭から

社会はどうせやるなら派が支えている?

錦市場や、デパ地下の八百屋さんに立派な聖護院大根が並ぶようになりました。

ああ、冬やなあ、って思いますね。

聖護院大根と聖護院かぶらは、白い身の部分だけ見ると、どちらも丸くて、

大根の方が若干長いかな、くらいで見分けがつきにくいんですが、

葉っぱを見ればすぐにわかります。

大根は大根らしくギザギザした葉で、かぶらの葉っぱはギザギザしておらず、

葉先が丸い形状をしています。

大根と蕪では、肉質が違うので、食感はまったく違うんですよね。

 

ま、我が家で料理に使うのは、小蕪がほとんどで。

これがおいしい。

サラダでも、お漬物にしても、煮ても。

葉っぱも大根の葉より柔らかくて、使いやすいですしね。

今日は直売所で買ってきた小蕪と里芋、それに人参、玉ねぎ、椎茸、豚肉で、

クリームシチューに。

あったまりそうです。

 

 

筑摩書房のPR誌「ちくま」に斎藤美奈子さんの書評が連載されているのですが、

その10月号は東京オリンピック関連の書籍3冊についてでした。

いずれも、東京五輪反対の理由、という内容で。

その中で、なるほどなあ、と唸ってしまったところを引用しますね。

『反東京オリンピック宣言』小笠原毅・山本教久編 航思社の「あとがき」に、

 

結果的に、東京五輪を「成功」に導くのは、手放しの礼賛派ではなく「どうせやるなら」派だろうと言うのだ。

この人たちは <初期設定においては批判的であり、できるならやるべきではないと思っている。しかし、招致活動が終わり、税金が捨てられ、インフラ整備を含む準備が始められ、開催権の返上や中止が逆に莫大なコストを必要としてしまうということを理由に、事実上後戻りできないと結論づけて、むしろそれまでかかった投資をどのようにすれば「資本貴族」たちの手から奪うことができるのかを提案する。>

 

とあるのだそうです。

手放し礼賛派ではなく、どうせやるなら派が不本意ながらも知恵を絞り、

ベストを尽くそうとする、

というところに、社会の縮図を見るような気さえします。

こういうこと、どんな組織にでもありそうですよね。

決定権のある人が実務も担当するならば、こういう齟齬は起きないのでしょうが、

大きな組織になるほど、企画立案 ⇒ 検討 ⇒ 決定 ⇒ 実践 ⇒ 運用 など、

それぞれが、またそれぞれの組織で行われることになるわけで。

 

 これに意味があるのか?

 社会的意義があるのか?

 

という社会的葛藤がある場合もあるだろうし、

 

 良心に反していないか?

 

というレベルの悩みが生まれることだってあるかもしれません。

 

この「どうせやるなら」とベストを尽くすことは、勤勉で立派でもあるのですが、

厳しいようだけれど、保身からの逃避である場合もあります。

けれども、こういう人たちが、組織や国を支えているのが現実でしょう。

これは日本人的なことなのか、よその国でもそうなのか、どうなんでしょうね。

 

斎藤美奈子さんは、

 

たくさんいそうでしょ、こういう人。

私がここから想起するのは、端的に「戦争」である。戦争には反対だったけど、どうせやるなら勝たなくちゃ。そのためには・・・・とアイディアを出す人が一番役に立つのよ、戦争には。

 

と書いてらして。

 

現在、50代より下の人たちは、おそらく生まれてからずっと、

日本が戦争を始めることはもうないだろう、

なんて思っていましたよ。本気で。

今のように「もし戦争にでもなったらイヤだ」と、恐れる気持ちになるのは、

初めての体験です。

イヤだ!と目や耳をふさぐのではなくて、ちゃんと見たり考えたりしないとなあ、

と思ってはいるのですが、どうも想像力が届かないのです。

 

東京オリンピックが開催される2020年に、日本は、世界はどうなってるのでしょう。

日本にも世界にも、解決できない、処理しきれない問題が山積なのに、

その上に、また新たなことも起こっていくだろうし、なんて考えると、

どうしてもよい想像ができませんよね。

けれども、ジョン・レノンがイマジンをうたったように、

絶望よりも希望を抱いていたいなとは思うのですよ。