京都 四条高倉の占庭から

心に空っぽのバケツをひとつ

我が家のベランダのオリーブが、初めて実をつけようとしてる感じなんですよ。

なんだかもうドキドキです。

オリーブは1本だけだと結実しにくいということで、諦めていたのですが、

苦節、えっと何年だったか?

ついに、ついに、実らしきものの気配を見つけました。

この気配がホンモノかどうか。

静かに見守りたいです。

 

 

さて、今日は占いのお話も。

先日来、

「あの人と、どう折り合っていけばよいのか、ヒントがほしい」

というお客さまが続きました。

実の親、義理の親、我が子、上司、恋人、師、とその相手はさまざまです。

上辺だけ合わせてお茶を濁せる相手や、逃げられる相手ならよいのですが、

どうしても向き合わざるを得ない、縁を切るわけにいかない相手もあります。

その場合、相手の方の生年月日を教えていただき、

どういうスタンスでつき合っていくのがいいだろうか、ということを探ります。

 

途方に暮れ、占いにでも頼ってみようか、と思ってらっしゃるくらいなので、

疲労困憊してらしたり、憤慨されていたりで、困難な状況は察して余りあります。

その困難な状態を一発解決し、平和と幸福をもたらす力がわたしにあるのか、

というと、残念ながら霊能者でも祈祷師でもないので、それは無理というもので。

お答えできることは、取り扱い注意である相手の方の、注意点をお伝えすること。

これは人それぞれなので、おひとりおひとりの取り扱い説明となります。

ですので、こういう場合は、相手の方の生年月日をリサーチしてから

いらしてくださいね。

 

もうひとつは、こちら側の心持ちの注意です。

まず「相手の悪いところを矯正してもらえるよう説得しようとしないこと」。

説得しようとすると、相手に反論されないように、

齟齬のない自論を構築せねばなりません。

相手の非を指摘し、自論の正しきを主張し、改善案をのんでもらうために、

反論の余地のない追い詰め方をすることになります。

それは、決して相手を反省させたり、

ましてや矯正を促すことにはつながらないんですよねぇ。残念ながら。

むしろ火に油です。

もしくは、もっと頑なな殻に閉じ込めてしまうことになります。

ですのでね、一旦、「矯正」は諦めてください。

こちらが堅くなると、相手はもっと堅くなってしまい、収拾がつかなくなります。

 

で、次に「相手を否定しない」こと。

もちろん間違っている相手を肯定しなくてもいいんですよ。

それは違うけどなあ、と心で思っておけばいい。

否定しないと同時に、間違っていないところは肯定してあげてください。

おもしろくないですよね。おもしろくないです。

わかります。

「それじゃあ、ますます相手が調子に乗ってしまう!」

と思われるかもしれませんが、ふつうに話してきいてもらえないから困難なわけで、

そういう人を説得するのは、おそらく現状ではムリなところにきていますよね。

なので、その現状を緩めていくことから始めないといけないので、

不本意ながらも、この方式を採らざるを得ない、ということなのです。

 

そして、もうひとつ。

相手のイヤなところ、ダメなところ、要するに尊敬できないところのもろもろを

ガン見しない。

気に入らないから、腹が立つから、

「ほら、こんなにおかしいでしょ!この人」

「間違ってるでしょ!」

「ふつうじゃないわ!」

と心の中で叫んでしまうのは、そこを見過ぎてるから、ってこともあるんですね。

見ても腹が立つだけなら、両目でまじまじ見るのはやめて、

片方の目はつぶっておこう、くらいに思ってみてください。

 

そんなことしても、何も改善されないじゃないの、と思われますよね。

そうです。

現状は何ひとつ変わりません。

けれども、そうすることで、煮詰まっている自分自身を少しだけ緩めることが

できると思うんですよ。

ほんの少しかもしれないけれど、力を抜くこともできるかも。

そこから、違う視点を得るとか、同じ土俵から降りるとか、

なんらかの心の変化は期待できます。

誰も助けてくれない自分自身の自浄作用を促すことは可能かと思います。

こちらが変化すれば、相手の変化も、ほんの少しですが期待できますしね。

このままよりは、若干マシです。

 

そしてですね、これは番外編だと思ってお読みください。

聞きたくない話をどうしても聞かざるを得ない立場にある場合の最後の手段です。

愚痴、不平、不安、不満、悪口、陰口、恨み、つらみ、などなど、

聞きたくないし、聞いたところでどうにもできないことを

聞かねばならないことだってあります。

その場合も「そんなことを言ってはダメ」と諭したくなるものですが、

そうしたところで不毛でしょう。

実はこれはわたしがいつもしていることなんですけれど、

そんな話を聞きに行く際にですね、心の中に空っぽのバケツを用意します。

「さ、行くか」と、心の中でブリキの大きめのバケツを下げたつもりで赴きます。

で、聞く話、聞く話を片っ端から空のバケツにどんどん入れていきます。

相づちは「へぇ~」「ああ、そう」「ふうん」などで、自分の意見は言わない。

自分の意見を言おうとすると、相手の話が正しいかどうかつい吟味してしまいます。

それではいつもと同じことになってしまうので、相づちだけ打ちながら、

「正しい」or「間違っている」は考えず、全部バケツに放り込みます。

そして、帰路、そのバケツの中身をザーーーーーッと道端に捨て、

また空のバケツにして家に帰ります。

ええ、もうすっからかん。

何ひとつ持ち帰らないことです。

 

こういう対応は心がないとか、無責任すぎるとか言われるかもしれませんが、

知ったこっちゃありません。

誰も守ってくれない自分の心を守るための、防衛策です。

 心の中にひとつ空のバケツを。

これで救われることだってあるんですから。