京都 四条高倉の占庭から

しあわせを感じておこう

雨です。

しっかり降っています。

それでもまだ肌寒くはならず、じっとり蒸し暑いという季節。

気温は高くても9月というだけで、もう、つま先の開いたサンダルはいいかな、

って思ってしまいます。

そう言えば、最近、モコモコのファーがついたサンダルってありますよね?

あれ、すごいミスマッチ感があるんですけど、そこがファッションってこと?

いやあ、季節感が出てるような、出てないような・・・・よくわかりません。

 

 

占庭に座っていると、いろんな方の、多彩な半生のお話をお聴きします。

以前、このブログにも、絶句してしまうような壮絶な半生を送ってこられた方は、

なぜかみなさん、ご苦労なさったお顔をされてない、って書いたことがありました。

いろいろありすぎて、少々のことでは蚊に刺された程度の感覚になってらっしゃる

みたいなね。

なにもかもを諦めたような、鷹揚で、穏やかな表情をなさっています。

そこに至るまでのお気持ちを考えると、もう尊敬しかないのですけれど。

 

反対にですね、すごく悩んで、困ってらっしゃるお顔の方はどうなのか、

ってことなのですけれど、そういう方は、苦労慣れしてらっしゃらない、

ということなのかもしれません。

いや、そういう言い方は不遜ですね。すみません。

が、今日は、その失礼を承知で申し上げたいことがありまして。

 

お話をお聴きしていて、とても悩んでらっしゃるようだけれど、

この方、おしあわせなのになあ・・・・

と思うことがあるのです。

「しあわせ」というのは、たぶんに相対的なもので、

恵まれていた人が、恵まれなくなってふつうになれば、

それは、幸せが目減りしたのは確かなんですよね。

けれども客観的に見れば、それくらいでふつうだよね、ということもあるわけです。

「こんなに困ったことになってしまって・・・・」

「親として(妻として・子として、など)、どうしてよいのかわからない・・・・」

と途方に暮れてらっしゃる方に、

「あなたね、それくらいで悩んでたら贅沢ですよ」

というのはおかしい。

その方にとっては、悩むに値する事態が出来しているわけなんです。

それを自分の尺度で判断するのは間違いだし、やってはいけないこと。

 

ですので、それはたとえ、わたしのこころに浮かんだとしても、申しませんよ。

けれどもですね、思わず、

「あの、こんなこと言うとあれかもしれませんが、おしあわせやと思いますよ~」

と言ってしまうことはあります。

それは、もちろん、

「それっぽっちのことで悩んでどーするんですか!」とか、

「もっとつらい人は世の中にいっぱいいるんですよ!」という意味では決してなく、

ご自身が恵まれてらっしゃるってことに気づいていただきたいなあと思って、

ポロっとこぼれてしまうからなんです。

 

だってね、しあわせなこと、恵まれることって、当たり前じゃないですもん。

特別なことです。

それに気づかないってのは、オーバーに言えば、罪にも等しいと思うわけで。

そのときに、気づいて、味わって、

 

 ああ、しあわせやなあ~ アタシ。

 なんて恵まれてるんやろ。ほんとにありがたいこと。

 

って、噛み締めてもらいたい。

そんなのいつまでも続くって、保証はないんですから。

そこで気づかずに、ずうっと後になって、それらを喪ってから、

「ああ、あの頃はしあわせやったなあ・・・・」

と悔やむのでは、あまりにももったいない。

なんだってそうですが、いま、てのひらの上に載っているものが、

いつまでもずっと載っているはずがないですよね。

それらは変容し、より良いものにもなれば、善くないものになっていくこともあり、

消えてしまうことだってある。

 

そう思うので、おそるおそる、

傷つかないでくださいね、気を悪くなさらないでね、

と思いながら、伝えずにいられないこともあるのです。

ほんまに、わたし、いらんこと言うてるなあと思いながら。

幸いなことに、いままでわたしが発してしまった、いらんこと発言は、

みなさん、そのまま受け取ってくださっています。

 

しあわせは気まぐれですからねー

手の中にある間に、ちゃんと実感しておかないと。

そうしておいた方が、てのひらからこぼれていった後も、

それが力になってくれ、弱った自分を支えてくれたりもすると思うんですよ。

自分のメンタルを立て直せるのは、結局のところ自分自身しかないですものね。