京都 四条高倉の占庭から

私的前世占い考

先日、大正から昭和初期にかけての、小説家、詩人、歌人たち13人の

純愛とスキャンダルについて書かれた本を読んでいたのですが、

時代の違いをいろんな面で感じました。

「死」がすぐそばにあるということ(病気や戦争、貧困で)や、

法や思想的なものを含めた社会が完成されていないことで、

悲劇も起こったし、ドラマティックにもなったのだなあと。

 

いや、しかし、昔の文人というのは、エキセントリックな人が多いですね。

まあ、そういう突出した個性の人の話が残りやすいってのもあるでしょうけれど、

思い込みが激しくて、刹那的で、いろいろとトゥーマッチ。

そのメイワクさ加減たるや甚だしいものがあります。

いまの時代であれば、社会的な規制もあり、犯罪者になったり、訴えられたりと、

ここまでの悲劇(ときには滑稽さも含んだ)には至らなかったろうなあ、

と思えることがたくさん書かれていました。

どの時代に生まれ落ちるか、っていうのは、一生を大きく左右するものなのだと、

なんだか、しみじみ考えてしまいましたよ。

 

そう、そのいつの時代に生まれるか? ということで思い出したのが前世占い。

ひと月ほど前に、前世を視てもらったと、このブログでも書きました。

その時に、前世はたくさんあるんですよ、ということをお聞きしました。

で、その内の近い前世や、いまに影響が大きそうな前世について、

話してくださったんですね。

以前に、しいたけさんに前世を視てもらった時もそうだったのですが、

そこでの生活が語られるんですよ。

物語の背景のような感じでしょうか。

 

 こういう職業で、家族構成はこう。

 そしてあなたはこんな風に生きていたのですよ。

 

というふうに。

 

わたしにはそういう能力も霊感もないので、それがその占い師さんに、

どのように感じられ、視えてらっしゃるのか、まったくわかりません。

いくつもの前世が、どんなふうに視えてくるのか。

 

 重なるように? 切り替わるように? 順を追って?

 

と疑問はいろいろと湧いてくるのですが、たぶんそういう疑問は、

能力のない者が、自分の理解できる枠内で抱く疑問なので、

視える人にとっては、ナンセンスなものなのかもしれませんね。

ですので、そういうことを根掘り葉掘り詰問するのは意味がないのでしょう。

そのお話をそのまま鵜呑みにするのでもなく、否定するのでもなく、

 へぇ~~~ そうでしたか。

と受け止めて聞く、というのが、実は誠実な姿勢なのではないかな、

と思えます。

 

これで2回、前世を違う占い師さんに視ていただいたわけですが、

イメージとしては大きなズレはなく、それぞれ、

なるほどー と思える観点が一致していました。

二度目で、なんとなく、わたしが想像する「前世を視るということ」が、

腑に落ちた気がします。

それは、人それぞれのイメージや、その人がかもしだしているなんらかに

視る側の人が惹起され、映像のような、そうでないようなものが、

浮かび上ってくるような感じなのかな、と。

そのなんらかを人によっては、魂と呼んだり、オーラと呼んだりするのかも。

きっとそれは、明確な言葉で表現しにくいものだろうし、

もしかしたら、その感じ方も人によって違うのかもしれません。

(なにしろまったくわからないので)

 

ともかく、その人を前にして感じられるものを脳内で視覚変換していくような、

特殊なイマジネーション能力。

というふうに理解することにしたのです。

 

自分にはわからない領域について語られる、伝えようとしてもらえる、

ということは、とてもたのしいことでね。

なんかね、わくわくしたんですよ。

そういう時間を提供してもらえることに見料を支払う価値があるのですね。

その対価が、納得のできるものであれば双方が満足感を得られるってことで。

 

久し振りに占われる立場になってみて、

 ああ、これこれ。この感じ。

と思い出す、さまざまな感触がありました。

 

鏡リュウジさんが、占いをエンターテイメントととらえてみてほしい、と

話してらっしゃいましたが、前世占いはまさにそれでした。

わたしはいつも、占いを利用、活用してほしい、と言ってきたのですが、

たのしむことも、ちゃんと伝えたいなと思いました。

そもそも、わたし自身が、占いが好きで好きで、

ただ、たのしくてやってきた先に、いまの自分があるわけですし。

前世占いは、そんなこんなを考える、よいきっかけになりました。