京都 四条高倉の占庭から

できれば どちらにも寛容に

京都の街中で、謎の行列が時々発生するのですけれど、

数日前からの行列の正体はコレ、というのがわかりました。

どうも『ワンピース』のスタンプラリーが始まっているらしい。

sp.shonenjump.com

 

なるほどね。

えっ、なんで八ッ橋のお店にこんな行列が?

という謎が解けました。

ふむ。スポンサーなんですね。

 

一昨日まで、占庭はエアコンをかけるほど暑かったのですが、

今日はひんやりの雨模様です。

みなさまも、体調管理にご注意なさってくださいね。

 

しばらくカテゴリ「読書」をUPしていなかったので、久し振りに。

と申しましても、またしても絲山秋子さんです。

偏ってしまってすみません。好きなもので。

けれども、人間関係について考えさせられる作品でもあり、

一読をお勧めしたいのです。

 

最近、デリケートな人は生き難い世の中だよなあ、と感じることがよくあります。

鈍感な人の方が、よっぽどラク。

けれども、敏感な人は、鈍感に生きることをヨシとしないところもあったりね。

やっぱりそのあたりの感覚っていうのは、持って生まれたものの影響が、

非常に大きいのだろうなあと思います。

敏感であることも、鈍感であることも、なかなか意図してできないもので、

どっちがいいのでも悪いのでもないんですよね。

なんとか、敏感な人も、鈍感な人も、お互いを許容し合って生きられたらなあ~

と思うわけですが、あらゆる「不寛容」が跋扈するご時世でしてね。

そうあること、そうあろうとすることから、意識していかないとダメなようです。

 

 

ニート絲山秋子著 

痛いなあ。 
やっぱり絲山秋子さんの小説は、リアルな痛みを連れてくる。 

不器用な純粋さから、なあなあの人間関係を作れないひとばかりが登場します。 

なあなあの人間関係なんて、作る必要がないだろ、という向きもありましょうが、

これは社会生活を営む上で必要です。 

命を懸けても守りたい人間関係もあり、このひとには絶対にウソや、まやかしや、

ごまかしはしたくない、と強く思う人間関係もあっての、

なあなあの人間関係もあり、ということです。 

他人と関わって生きていくからには、キライな人間とも関わらなくてはなりません。 

その場合は、このなあなあ流しソーメン作戦でいくしかないと思っています。 

ずるい? そういうのってずるいかい? 

ええ、ええ、そうして生きていかなくては、しんどくってたまりませんもの。 

しかしまあ、そういう”ずるさ”なり”方便”なりを自分なりにコントロールしながら、

己の最後の砦は守るぜ、というのが、

その人のひととなりを形成するのかもしれません。 

この絲山秋子さんというひとは、なあなあ部分をギリギリまで切り詰めて

生きてはるんやろなあ、と感じるのです。 

だから痛い。 

自分のズルさや、醜さや、だらしのない曖昧さを突きつけられたような

気分になるんです。 

でも、だからイイです。 

巻末の短編『愛なんかいらねー』は、まさかのスカトロ小説でした。 

もうここまでくると露悪に近くなるけれど、ここまでやったるわ、

と思ったんでしょうなあ。 

初出は『新潮』だったようですが、これを載せるのは賛否両論あった

だろうなあ、、、、と察せられます。 

『新潮』の読者には、この小説に嫌悪感しか抱けない人が多そうだもん。 

世の中にはいろんなヘンタイさんがいるってことを許容できない人は

たくさんいますしでしょうし。 

(2010/5/16)