京都 四条高倉の占庭から

『絶叫委員会ー表現とコミュニケーション』を拝借します

なんと明日から師走だそうで。

四条通は先週あたりからクリスマスソングが流れてはいますが、

ここ数日、いっときの寒さがちょっとゆるんでいるので、

全然そんな感じがしないんですよねー

気を引き締めて過ごしていかないと、あっちゅう間に新年が来てしまいそう。

 

さて、久し振りに拝借シリーズを。

今日は、穂村弘さん『絶叫委員会ー表現とコミュニケーション』を拝借します。

『絶叫委員会』は筑摩書房のPR誌「ちくま」の連載ものです。

毎月、穂村さんと、岸本佐知子さんのエッセイがとってもたのしみで。

 

今回、なるほどな~~~ と思ったのはですね、言葉についてのお話。

 穂村さんは歌人で、言葉を使う仕事をしているのだけれど、

 

どんな場合にも自在にそれをくりだせるわけじゃない。

適切な言葉が見つからなくて絶句することもある。

 

と。 

 それは何かというと、年賀状に一筆添える、というのが苦手なのだそう。

 

相手の心に触れるような、自然な温かさをもった挨拶ができない。

どうしてなのか。

考えれば考えるほど変に屈折して気持ち悪くなってしまう。

 

読者としましては、年賀状で屈折して気持ち悪くなってしまうあたりが、

すごく穂村さんらしいなと思ってしまうわけです。

で、ご両親や奥さんはそのハードルを軽々と越え、むしろ楽しそうである、と。

 

この違いはなんなんだ。仮にも私はもの書きなのに。

と不思議に思っていた。

 

私が普段仕事で使っている言葉は表現用のツール。

それに対して年賀状に書き添える言葉はコミュニケーション用のツール。

両者はまったく別のものなのだ。

 

そ、そうだったのか~~~

「表現」のための言葉と、「コミュニケーション」のための言葉がは別モノである、

という観点は非常に納得できます。

 

読みながら、

わたしは年賀状に一筆添えるのは、そんなに苦痛じゃないな、

と思っていたのですが、それはコミュニケーション用の言葉を

日頃使い慣れているだけのことでして。

だって、占うってことは、まさにコミュニケーションですから、

それ、仕事やん、ってことですよ。

逆に、自らを「表現」するための言葉を繰り出すシーンはないわけで。

 

ふつうに生活しているところでは、コミュニケーション用の言葉が大半です。

 そうすると日常に表現の言葉はないのか? というとそうでもなくて。

何気ないコミュニケーションの中でも、

ハッとするような「表現」をされる人もおられて、

おおっ! 

と思ったりすること、ありますよね。

 

それはキラリと光る機知であったり、知性や教養なのでしょう。

カッコイイ。憧れるわー

 

あ、なんか話がちょっとズレてしまいました。すみません。

 

自分が飲み会でのフリートークにうまく参加できないのも、

それがコミュニケーションとしての言葉のやりとりだからじゃないか。

一人だけ異質な言葉で、自然な輪の中に入れず浮き上がってしまうのだ。

 

以前に一度、穂村さんのトークライブに参加したことがあります。

集まったお客さんは、みな彼のファンであった、

ということもあるのかもしれませんが、まったく浮き上がってはおらず、

ほどよい温度のいい空気感が漂っていました。

そうか。

あのライブでの彼のトークは、コミュニケーションよりかは、

表現用であったということなのですね。

ま、それだからこそ、ただの会話にはならず、おもしろかったんですけれど。

 

そして、エッセイは続きます。

 

年賀状よりも、さらに難度の高いコミュニケーションがある。

それは男性用のトイレにおける会話だ。

知り合いが先にいて、後から入っていった自分がその横に立つ場合。

 

この後、そういう際の葛藤が描かれていき、ぷぷぷ、と思わず笑ってしまいます。

男の人は大変だなあ、って。

というか、穂村さん、色々と大変だなあ、と。