京都 四条高倉の占庭から

中学生の黒歴史?

今年もあと10日ですか。

占庭の営業日も、わずかになってきました。

残り、23(土)24(日)26(火)の三日ですが、23日はご予約満了となりました。

ありがとうございます。

27日以降もご希望には、できる限り対応いたしますので、ご連絡くださいませ。

 

先日、路線バスに乗っていましたら、後ろに女子中学生が3人、座っててね。

その子たちの会話がおもしろくて。

黒歴史やん」

「そうや。あれってどう言うんやったっけ。そういうの、えっと・・・・」

「トラウマ?」

「それ! トラウマになるわー」

黒歴史はつらい」

「ヤバいわ。黒歴史

「恥ずかしすぎる」

と、声をひそめながら盛り上がっていました。

 

おそらくは中学1年か2年かなあという年の頃なのですが、

13、4歳で、抱える黒歴史・・・・

ちょっと笑ってしまいそうになったのですが、ダメですよね。

小学生には小学生の、中学生には中学生の世界があり、世間があり、悩みがある。

幼いからとバカにしてはいけません。

大人から見れば、取るに足りない事件や悩みであっても、

本人にとっては世界を揺るがす一大事かもしれないんですから。

 

わたしのように中年の坂も転げ落ち、老年の坂に差し掛かる年齢の悩みでも、

うんと年上の方から見れば、鼻で嗤われる程度のことかもしれません。

もっと言えば、神さま、お釈迦さまから見れば、人間のどんな苦しみも悲しみも、

「無常」のひと言でしかないのかも。

と考えていくと、いくつになっても人間はそう変わらないのかもなあ、

とも思えます。悟れないというか。

悟れないのが人間ならば、もうそれでいいんじゃないですかねー

ジタバタ、すったもんだしながら、寿命がくるまで生きていくしかないんだし。

 

お、それって悟ってる感じ?

なーんて思ったりもしますが、そんなはずもなく。

そんな命と、人としての悩みについて考えさせられた本を紹介しますね。

昨日、読み終えたばかりです。

 

『父の生きる』 伊藤比呂美著 

熊本で一人で暮らす父と、カリフォルニア在住のひとり娘。 

遠距離介護3年半の記録です。 

アメリカに家族があり、仕事をしながら、月に一度お父さんの様子を見に行く。 

電話は毎日。 

それだけで、経済的にも体力的にも、どれだけ大変であるかと思う。 

けれども、同居して、四六時中お世話をされている方にしてみれば、

優雅な介護と映るのかもしれない。 

老いた親をどう看ていくのか? 

それは親子・兄弟姉妹の関係、経済的基盤、距離、時間など、さまざまな状況が、

個人によってまったく違うということと、

親の老い方にも大きな個人差があるということで、

子ども側の対応も千差万別となっていきます。 

そして、どのような形になっても、見送った後は悔いが残るものなのでしょう。 

妻に先立たれ、娘はアメリカにいる。 

信頼できるヘルパーさんに助けられながら、犬と暮らすお父さん。 

退屈、孤独、不安の中で、弱り、老いて、

ゆっくり死んでいくのを見ているような日々。 

娘に迷惑をかけないようにしたい親心と、娘しか頼れないじゃないかという本音。 

娘は必死で仕事をしながら、気難しい伴侶、三人の娘たちとのあれこれもある。 

熊本で共に暮らして父を看る、という選択はまったくの不可能ではなかったけれど、

選ばなかった。 

それを間違っていなかったと思いながらも、自らを責める気持ちにもなるのは、

すごくよくわかります。 

親子であっても、また、そこに愛があろうがなかろうが、

できる「範囲」は限られてくるものだと思うんですよ。 

その範囲をどこまでどう設定するか、というところに葛藤が生まれるのだと思う。 

本書は、熊本とカリフォルニアという極端な遠距離介護の記録だけれども、

そこにある見送るまでの子どもの気持ち、見送られる親の思い、は、

どんな人にもどこか共通するところを感じられるんじゃないかと思います。 

親もつらいが、子もつらい。 

けれども、そうして人は生まれ、死に、生まれ、死に、を繰り返してきたわけで。 

生命の循環とか、輪廻を考えてみれば、ひとつの命なんて

取るに足りぬものなのでしょう。 

その命が有限であり、過ぎてしまえば呆気ないほど短いものだということを

思い知らされるのが、身近な死であり、いずれは老いていく自分自身である

ということですね。 

(2017/12/20)