京都 四条高倉の占庭から

「絶対」の多い人

今日、おいでになったお客さまは、明石から。

占い目的で来られたのではなく、京都でお寿司を食べるためにいらしたんですって。

お寿司なら明石の方がおいしいんちゃうかと思ってしまうのですが、

京都のあるお店に一度行って以来、他では満足できなくなったのだそうです。

所在を聞きましたら、占庭からもほど近い場所にあるお店なのですけれど、

お値段を聞いて目が飛び出そうになりました。

いやあ、久し振りですよ。目が飛び出そうになった、というのを体感したの。

こういう古典的な言い回しは、ほんと的確ですね。

 

さて、今日は「絶対」のお話を。

会話の中に「絶対こうなるやん」「絶対あかんに決まってるし」というように、

絶対の多い人っておられませんか?

誰でも何気なく使っている言葉で、

絶対! ということで、主張がより強められます。

「正しい」と自信を持って訴えたいときに用いられるものですね。

それはよいのですが、そこに「これ以外はありえない」「他は受け容れない」

というような排他的なニオイがすると困ったことになってきます。

 

そもそも「絶対」ということは、あんまりないものなんですよね。

いままでもう数えきれないほど「絶対」に裏切られてきました。

自分が使った「絶対」が予想外の展開で裏切ってくれたこともありました。

「絶対」と訴えておきながら、それがまったく「絶対」ではなかった時、

とても恥ずかしい。

絶対ではないことに絶対だと言って譲らなかったことが恥ずかしい。

想定が甘かったこと、視野が狭かったことが恥ずかしい。

深く反省します。

その度重なる「絶対」の不正使用によって、ものごとやひとの気持ちに

「絶対」というものはめったにないものなんだなあ、と学んできたわけです。

どんだけ自分では確かな「正義」だと信じたとしても、

他人の「正義」はまた別の確信を持って構築されているのだな、と。

 

ですので、わたしは「絶対」をなるべく使いたくない。

絶対は絶対でないこともある。というか、ないことが多いとわかっているし、

恥ずかしい思いはなるべくしたくないからです。

けれども、そんなことはおかまいなしに口ぐせのようにお使いになる方もあります。

それを聞いていると、だんだんわたしの方が恥ずかしくなってしまうのは、

ほんまに大きなお世話やなあと思うわけですけれど、止められない。

 

「絶対」が口ぐせの人は、正しいことが好きな、まじめな人が多いです。

責任感も強いし、他人に迷惑をかけないようにと準備も怠らない。

そこで築いたご自身の「絶対」は絶対守りたいのですね。

ですので、周りの人に対しても、疑いなく、良いこととして伝えたい、

善意による「絶対」もたくさんあります。

時には誰かの正義を否定するために使われてしまうこともある。

その良し悪しの判断が難しいところ。

 

一番最悪な「絶対」は、何らかの失敗の後で、

「絶対そうなると思ってたわ」と吐き棄てるパターン。

前もって言うならともかく、起こってから、勝ち誇ったように言われる絶対は、

後出しジャンケンのようなものでしょう。

失敗したところへそう言われて反感を持たずにいられますでしょうか?

それこそ絶対、素直に聞けませんよねぇ。

でもこれ、誰でもついやってしまいがち。

特に、上の立場から、たとえば親、兄、姉、上司、先輩などにそう言われて、

「ああ、そうだった」と反省したり、「そう言ってくれてありがとう」と感謝したり

できるはずがないです。

でもね、これ、おそらくほとんどの人が、親から言われたことあると思うんやなあ。

イヤでしたよね? 

その時、なんともいえず悲しかったですよね?

だから、せめてそれを自分のお子さんには言わないでほしいんです。

いや、つい言うてしまうんです、誰だって。

それはしょうがないことなんやけど、

もし、言ってしまった時には反省してほしいし、できるなら謝ってあげてください。

 

まあ、ちょっとわたし自身が「絶対」に対して過敏なのかもしれないんですけど、

この少し支配のニオイもする言葉は軽々に使わないほうがいいなと、

日頃思っているので、書いてしまいました。