京都 四条高倉の占庭から

文学賞と『こちらあみ子』

このブログを書くようになって丸2年が過ぎました。

1年目はマメに更新していたのですが、だんだんと間遠になって、

最近はポツンポツンとしか更新できていません。

今年は昨年よりは更新の努力をしたいなと思っています。

どうぞおつき合いください。

 

今日は久し振りにカテゴリ読書で。

昔は頭がおかしいんちゃうかってくらい、本を読まずにいられなかったのですが、

それもだんだんとフツウの本好きくらいになって、いまやごくフツウの読書量。

子どもの頃は小説家にも憧れていましたが、いつごろからか、

自分で物語を書くなんてことは、まったくしなくなりました。

それだけ自分で何かを生み出す欲求が薄くなったということでしょうかね。

 

それは年齢のせいだと思っていたのですが、わたしよりも年上の友人が、

先日、文学賞を受けられ、やっぱ年のせいじゃなかったな、と改めて感じました。

創り出す情熱があるかどうか、ってことなんですね。

 

ずっと小説を書いてらっしゃるのを知っていたので、受賞はものすごくうれしくて。

ご自身は案外、それほど喜ばれてなかったんですけど、わたしを含め、

周囲の人間たちの尋常ならざる喜び方といったら、もう大騒ぎでした。

長年の努力が実った喜びというよりは、こうして続けてこられたことが、

いちばんよい形で報われはったと思えて、うれしかったような気がします。

世の中捨てたもんじゃないな、と思えるようなうれしさというか。

 

わかりにくいですかね?

うーんと、がんばりに対する成果、というような「達成感」「成功感」とは違って、

真っ当な、人の想いに対し祝福がもたらされた、

って感じの温かさがあったんですね。

それはそれは予想をはるか超えるうれしさに包まれたのでした。

自分でも、何がそんなにうれしいのか謎なくらいで。

その幸福感は、どうもご自身よりも周囲の人たちの方がより強く感じられたようで、

不思議なものですね。

受賞されたその方のこと、みんな大好き、ってことも大きかったのですけれどね。

自分にはとてもできないことを成し遂げてくれはって、ありがとう!

みたいな気持ちもどこかにあったかもしれません。

自分は何もしていないのに、とにかくとても誇らしい。

思えば自分勝手な感情ですね。

 

今日、ご紹介する『こちらあみ子』は太宰治賞を受賞した作品です。

占庭のお客さまで、小説を書いてらっしゃる方がおられるんですけれど、

この作品を読んで、その才能に衝撃を受けて、もう書くのをやめようと思った、

と話されていました。

そう。

新人賞ですが、すごく力のある作品です。

 

『こちらあみ子』今村夏子 著

あみ子は知的障害があり、母親は継母。 

兄は中学からグレて暴走族に。 

父親の影は薄く、責任感も希薄。 

外側からみた家族の形は、実にステレオタイプな不幸であり、

薄っぺらいのだけれど、物語は実にリアルで、切なくてたまらない。 

みんなやさしくて、いい人間だということがわかるから。 

この、やさしくていい人間という陳腐きわまりない言い回しが、

ぴたりと嵌りながら、ぎゅうっと胸締めつけられる静かな物語というのは、

大したものだと思います。 

社会に適応できずに排除される人間は、ただの異物なのか? 

傷つくこと。 

傷つけられること。 

赦そう、受け容れようとすればするほど乖離していく思いというのもあるのだなあ。 

がんばったってどうしようもないこともある。 

がんばりすぎて罪悪感でがんじがらめになる人だってあるでしょう。 

やさしいってどういうことなんだろ。 

人が誰かと関わりながら生きる、その関係性に正解なんてあるんだろうか。 

もう一篇の「ピクニック」にも同じような問いかけがされているような気がします。 

(2013/1/6)