京都 四条高倉の占庭から

同じだけれどこんなに違う

先日から「どっか行きたい病」にかかっています。

しかも、どっかに行って「好きな人に会いたい病」でもあるので、

思いついてすぐにGO! というわけにはいかず、

先方の都合も併せて予定を立て始めては、なかなかうまく進まず、

ひとまず延期!

を繰り返しています。

直前に決めるっちゅうのが間違ってるんですよねぇ。

こんな調子で、果たしてわたしは「どっか」へ行けるのか?

自分でもわかりません。

 

さて、今日は、日頃感じていて、よく考えるのだけれど、

もやもや堂々巡りを繰り返してることを。

文章にしてみたならば、答えらしきものに到達できるかなあ、

という期待もこめまして書いてみます。

 

同じようなことを言っていても、人によって受ける印象が違うことはよくあります。

例えば、何かが足りない場合。

それは、お金・愛・友人・評価・時間など、あらゆるものの、何かが不足している、

と考えてみてください。

「足りない」と感じているのだから、不満なわけです。

そして「欲しい」と思っている。

そこは同じ状況なのですが、それを他人に話す時、

『足りないから不満』を訴える人と、

『足りないから欲しい』を訴える人がおられるんですよね。

 

「不満」ベースの人は、いかに自分が窮状に追いやられているか理解を得ようと、

現状を否定する形で訴えることになります。

当然ながら、表情もとても不満そうになる。

 

「欲しい」ベースの人は、こうなったらいいのに~ という目線なので、

現状は否定していたとしても、ここから上げていきたい願望が強く出るので、

表情は、やや明るいです。

 

「不満」ベースの人は、まじめで謙虚な人が多く、強い自制心があって、

なぜか「望んではいけない」というブレーキを装着されているようです。

それは、

 自分なんかが望んではいけない

 望むには努力が足りない

と、不満を持つ自分を戒めようという気持ちと、

 それにしても不足がある

という気持ちがないまぜになっているのかなあと思います。

 

不足を言うということと、希望を持つということが、

訴えていることは実は同じことで、言葉にするとこんなに違う。

となるのが、なぜなんだろー とずっと考えていたんです。

こういうのって、やっぱり「性分」によるものが大きくて、

こう考えましょうよ とか、こんな風に思ってもいいんですよ とか言われても、

「ああそうですね。じゃ、そうします」

と切り替えられるものではないんですよね。

 

このことに限らず、謙虚である、ってことが、こじれていることは他にもあって、

これはまた別に書きたいと思っているんですが、

「自慢してはいけない」ブレーキとかね。

 

 傲慢な人になっていはいけない

 安易に夢を見てはいけない

 

いろんなブレーキを踏みまくって、

自分は不遇だけれど、真っ当であるために自制している、

という立ち位置でひとまずの安心を得る、という人もあるようです。

うーん、これは自覚しにくながら、かなりのストレスだと思われます。

 

それは道を外さないことではあるけれど、幸福からは遠のく気がしてなりません。

道を踏み外してでも、自分のしあわせは掴むべき、ってことじゃないんですよ。

そうではなく、もっと単純な話でね、不満や不足を訴えるよりは、

こうなったらいいのになあ、これが手に入ったらすんごいうれしいなあ、

と望みを口にしていった方がいいんじゃない? 

ということなんです。

どっちにしても、口にしたからといって、現状は変わりません。

同じならば、希望や願望を口にしていた方が、表情は断然明るいんですよ。

そこが大きく違ってきます。

 

望みを持つことは悪いことじゃありません。

後ろめたく感じる必要はまったくない。

叶えるための努力をするとかしないとかは、この段階ではどっちでもよくて。

あ、わたしは「念ずれば叶う 言葉にすれば叶う」なんてことは信じていません。

 

「どうせあたしなんてダメだよねー」と言うよりは、

「あたしは〇〇を手に入れたいんだもんねー」と言った方が明るい。

明るいところに自分をおく、ということは、結構大事なことだと思います。

遠慮せず、明るいところで、まぶしーっ! と言いながら立ってみましょうよ。