京都 四条高倉の占庭から

クラウドファンディングだらけ

また、最高気温37℃とか38℃なんてのが戻ってきました。

昨日はゲリラ雷雨があったのですが、その打ち水効果なんて、ほんのいっとき。

立秋を過ぎてなお、暑さ厳しい京都です。

今朝は出勤前に知恩院さんにお参りしてきました。

いつも三門前からシャトルバスに乗せてもらうのですが、

今日はお盆ということもあり、大きめのシャトルバスになっていました。

乗り込む人も家族連れが多かったです。

納骨堂前のお線香も、お花もいっぱいでした。

お池には蓮の花が。

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明後日はもう送り火なんですねぇ。

日中はまだまだ真夏ですが、夜は虫の音が聞こえるようになりました。

いつの間にか夏も終盤へと向かっているようです。

 

今日はクラウドファンディングについて、ちょっと気になっていることを。

ここでいうクラウドファンディングは寄付型についてです。

金銭リターンのある投資型のものは除きます。

 

いままで、いくつかのクラウドファンディングを支援してきました。

ほんの少額なので、支援というよりかは、協力とか応援って感じですね。

それらは、ぜひ応援したい! と思えるものであるということと、

そういう資金調達の方法がベストだろうなと納得できるものだったからです。

リターンが魅力的だから、という理由ではなく、

むしろリターンは別にいいんだけど、っていうくらいの気持ちでやってきました。

というか、そういう気持ちにならないと、たとえ少額であっても、

いや、少額だからこそ、お金を出す、という行為には至らない、

ってことなのだと思います。

たとえ知人がクラウドファンディングで出資を募っていても、

おつき合いで出資しとこか、とはならない。

その内容や方向性にそれだけの説得力がないとダメなんですよねぇ。

 

事業の資金を集めるための場合、金融機関等で借り入れするのではなく、

クラウドファンディングのほうが適切である、という説得力が欲しいです。

なぜ投資型でなく、寄付型にしたのかという納得できる説明も。

なんかさー それ、安易に他人の好意に期待してないかい? 

と感じてしまうものは、やっぱりムリですもん。

 

個人の夢や計画を実現させるための場合は、

それがその人だけのヨロコビで終わってしまうものなら意味がないですよね。

社会へ向けて応援を呼びかけるなら、社会へ還元できるものでないとなあ、

と思ってしまいます。

 

昔の貴族や豪商、サロンの女王のようなパトロンと、

クラウドファンディングの出資者はスタンスがまったく違います。

余りかえっている資金をお気に入りに与えるというのじゃないですもんね。

いやいや、なかにはそういう豪気な出資者もあるのかもしれませんけれども、

そういう人はちがうステージにいるのではないかと思ってしまいます。

ま、わたしの勝手なイメージですけど。

 

クラウドファンディングの仕組み自体はとてもいいものだと思っているんですよ。

すごくいいセンスやアイデアはあるのにどうしても資金調達の道がないとか、

志のある人などが、夢を形にしていけるわけですしね。

ただ、だれでもが参加できるということは、玉石混交ってことでもあるので、

そこを見極める目が必要になると思うんですよ。

そのあたりがうまく淘汰されて、いいものが残っていけばいいですね。

そういういい状態にしていくには、出資を募る側の人格や能力よりも、

出資する側の人の、見抜き、選ぶ力量にかかっているのかもしれません。

出資する側のほうが、うんと多数でもあるので。