京都 四条高倉の占庭から

他人の評価は気になるけれど、評価だけする他人は何もしてくれない

昨日は6月9日で、ロックの日

この日はわたしが関西へと引っ越してきた日でありまして、

毎年、もう〇年経ったのか~ と振り返ります。

そして、14年目に入りまして、また一年、つつがなく暮らしていけたらなあ、

と思っています。

ちょうどこの時季、いつも松の木がすごいことになっているんですよ。

松は常緑樹なので、年中同じ姿をしているように思われるかもしれませんが、

この時季、びゅうびゅう、ぐんぐんと雌花が天に向かって伸びていてですね、

その力強さたるや、獰猛なほどの生命力を感じます。

いやもう、そらすごい勢いがありますので、一度見てみてください。

びゅうびゅう伸びている部分が、雌花なのか雄花なのか知りたくて、

ネット検索したら、松ぼっくりでジャムが作れる、

というサイトを発見しまして、うっそ~! と見てみましたら、ウソじゃなかった。

松ぼっくりでジャム! 

そんな発想すらなかったです。

作り方も詳しく載っていました。

 zazamushi.net

 

www.nekochawan.com

うーーん。

作ってみたい! とまでは思えないかなあ・・・・。

松ヤニと格闘するのがイヤかも。 (そこ?)

作ったことあるよ、という方がおられましたら、感想をぜひお聞きしたいです。

 

さて、本題に入りますね。(ここまでが長いわ)

先日、こんなツイートを見かけました。

 終わってしまった世界 @benzo_z


引きこもりに足りないのは一歩踏み出す覚悟とかみんな言ってるけど、本当は「惨めに生きる覚悟」なんだよな。自分のプライドと現実の評価が乖離した状態から逃避してるのが本質なんだから、どうあったって惨めなんだよ。それを分かった上でみんな軽々しく言ってるのかな、ぼくは残酷だと思うけど

 

この「自分のプライドと現実の評価が乖離した状態」というのは、

引きこもっている人に限らず、苦しんでいる人は多いです。

自分がこうありたいと思っている自分と、世間や他人の評価との差異、

とも言い換えられると思います。

その呪縛に絡め捕られてしまうと、価値観がヘンな形で固まってしまいます。

 

 「呪縛」という言葉の意味は、

まじないをかけて動けないようにすること。また、心理的に人の自由を奪うこと。

です。

そう。「自由を奪う」んですよ。

みんな、気軽に自分のなかの「常識」や、自分の経験則で話をするものです。

他人によかれと思ってアドバイスすることや、何気なく言ったことで、

無自覚に誰かを苦しめていたり、貶めていたりすることがあるかもしれません。

中には、マウンティングしたいだけ、お説教したいだけ、

という人がいたりするので困ります。

けれども、だれもが知らず知らずにしているかもしれないことでもあります。

もしかしたら、わたしもしているのかもしれない、

という恐れは常に持っていなければ、と思っています。

 

逆に、誰かの呪縛にかけられないように、

「自分は自分」であることを忘れないように、とも思っています。

 

世間や他人はいろいろ言ったり、圧力をかけてきたりはしますが、

じゃあ、何かしてくれるのか、というと、そこは「自分でやれ」なんですよね。

ものすごく無責任です。

そんな無責任な発言者の影響なんて受けたくないですよねぇ。

 

人の評価を気にし過ぎていると、この「自分は自分」の「自分」の部分が

わからなくなってきます。

わからなくなると、つい他人からのジャッジや、

一般的な常識で自分の位置を測ろうとしてしまうんですね。

そうすると、どんどんブレてきます。

だって、測るものさしがバラバラなんですから。

望ましいのは、自分のものさしを持ち、そこを基準にして、

他人のものさしとも照合しながら、納得のいく軌道修正をしていく、ですね。

どちらかだけにならないことと、基本はあくまで自分のものさし、

というところが大事。

 

自分がしたことは自分に返ってくるのだし、やっぱり自分で考えて選んで、

落とし前もつけていかないと、ですよね。

自分で引き受けられる範囲のことは、自分の自由な判断でよいはずです。

その範囲がだんだんと広くなれば、器も大きくなっていくだろうし、

寛容にもなれるのでしょう。

 

最初は小さくていいんです。

小さな範囲を責任を持つ覚悟で引き受けて、そこは自由に決めて行動していく。

その繰り返しが自信につながったり、自分なりの価値観がつくられていったり、

ということになっていくのだと思います。

 

「周りがどう思っているのか気になります」と話される方はとても多いです。

周りにどう思われるか心配されるよりも

自分はどうありたいか、をお考えになるといいかな、と思います。

「こんな人でありたい」と思うのは、それこそ自分の勝手。

他人のジャッジはいれなくていい。

まずはそこから自由になっていきしょう。

他人からよい評価を得るためだけにがんばり続ける人生なんて、

つらすぎるし、つまらなすぎますもんね。