京都 四条高倉の占庭から

好きの種類

土曜日が祝日だと、ついうっかりしてしまいます。

土曜の祝日は、バスは祝日ダイヤになるし、夕刊もお休みになりますしね。

なんかこう、ちょっとした勘違いが起きやすい。

昨日は連休初日で、快晴&暖かい&翌日の天気予報は微妙、ということで、

電車の混雑ぶりが激しかったです。

京都市営地下鉄の京都駅で、どんだけ乗ってくるの??

と、積み残しが出るほどのぎゅうぎゅう詰め。

それでも、この時期は、バスで動くよりはずっとマシなんですよねー

日曜の今朝、混み方は昨日の半分以下といったところでした。

意外と今日もいいお天気になったんですけれどね。

 

占いといえば、恋愛についてが多いんでしょう?

といつも言われるくらい、占いといえば、恋の悩み、と思われているみたい。

もちろん、多いのはたしかですが、それよりも、お仕事に関するお話の方が、

より多いんですよ、実は。

 

ですが、今日は仕事ではなく、恋愛についてのお話で。

よく「相手が自分をほんとうに好きなのかどうかがつかめない」という

お話をお聴きします。

だいたい、ひとの気持ちというのは、推し量るしかないわけで、

これくらいの熱、これくらいの大きさ、これくらいの重さ、と、

数値で表すことはできません。

それはわかっていても、つい比較対照してしまうのが人情ってもので。

特に、自分の想いと相手の想いに大きな差があると感じられると、

とても不安になってしまいます。

そこはもう考えても「わからない」ものである、

と自分の中で片づけてしまうのが、一番よいのですが、なかなかそうはいきません。

 

で、そもそもの「好き」に、種類のある人と、ない人があるということを

知っておいていただきたいのです。

「人間として」好き

「異性として」好き

「友だちとして」好き

「仲間として」好き

「家族として」好き

「伴侶として」好き

など、同じ「好き」でも細分化されている人と、あまり分けていない人がいます。

極端な人だと、全部同じ「好きは好き」でしかない人もありますしね。

細分化されている人ほど、相手の「好き」について、

自分の価値基準で推定しようとするので、悩みが増すようです。

 

相手に「好意」があるかどうかくらいは、なんとなくわかるものですよね。

好意はうれしい。

けれども、その「好意」の質について考え始めると、悩ましくなるのだと思います。

占っていて、

「この人の『好き』はみんな同じなので、自分をどういう存在として好きなのか?

 って考えるのは、あんまり意味がないと思いますよ」

と話すこともよくあります。

けれども、どれも同じように「好き」という人っていうのは、

嫌いな人とはなるべく関わらないようにする人が多いので、

積極的に関わっている=かなり好き ということでもあるんですね。

なので、どういう意味で好きなのか? にあまりこだわらず、

「好意があるんだな」とそのまま受け取っておけばいいのです。

そこを深掘りしたところで、お互いの気持ちを比較することはできないので。

 

また、熱についての差異も、よく話題に上がります。

熱烈に相手に恋焦がれるのがほんとうの恋愛で、

「いい人だなあ」「一緒にいると楽しいなあ」「また会いたいなあ」

くらいの気持ちは、ほんとに好きとは言えない。

なんて友だちの恋心をジャッジする人がいたりしますが、

人を好きになる熱量というのは、すごく個人差があるものなんですよ。

熱烈に愛するタイプの人の恋の熱が100とするなら、

ふんわりと愛するタイプの人の恋の熱は、MAXでも50にしかならない、

という場合だってあるはずです。

ふんわりの人にとっては、50だって大恋愛なわけですよ。

それを「その程度は恋とは言えない」というように、

「もっとちゃんと人を好きにならなきゃ」とか、

「そんなの本気じゃない」なんて意見するのは、

ちょっとズレてるなあと思います。

恋愛も結婚もそうですけど、人の数だけいろいろなケースがある、

と思っておいたほうがいい。

それくらい多種多様です。

人にはそれぞれの恋の適温ってのがあるし、

愛し方の種類もいろいろある人と、そうでもない人がいる、

ということを理解できたら、いたずらに悩みを増やしたり育てたりすることが、

少しは減っていくんじゃないかな、と思います。

 

いやまあ、恋の悩みというのは、そう簡単にはいかないですかね。

そうして悩むこと自体が、恋の醍醐味の一端でもあったりしますもんね。