京都 四条高倉の占庭から

誠実さはまだら

今朝、お店のポストにマスクが届いていました。

自宅には数週間前に届いていたのですが、京都の中心部は遅かったんですね。

もう自粛期間は過ぎ、どのお店も、どんなサービスも再開されていますし、

マスクの入手にも困らなくなったいまごろに届くって。

これに多額の税金が使われ、たくさんの人の手間を通して届いたのかと思うと、

なんともやりきれない気持ちになってしまいます。

 

先日、錦市場でレンタル着物姿のお嬢さんたちを数組、見かけました。

海外からの観光客は、ほとんど見ませんが、

国内の人はそろそろと戻りつつあるのかな。

高速道路の休日割引も、来週末からは復活するのでしょうかね。

 

ここ数日、ずっと「誠実」ってことについて考えていました。

ちょっとリクツっぽい話になってしまうので、そういうのはええわ、

という方は、ここで回れ右してください(笑)

 

よく「誠実な人」とか「誠実さに欠ける」とか言いますよね。

その誠実ってなんだろう、と考えていたんです。

言葉として調べてみたら、

まじめで真心があること。

私利利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。

というふうに書かれていました。

誠実って言葉は、案外、ふわっとしているんですよね。

まじめとか、真心とかって、基準や形のないものばかり。

要は、人が人の中に「誠実さを見出すかどうか」なのかもなあと、考えます。

するとですね、それぞれが考える「誠実さ」が相手の中に見えるかどうかで、

その人を誠実な人だと認識するかどうかが決まってくるわけですよね。

その誠実さのポイントも、関係性によって変わってきたりもします。

同じ人であっても、その人を、

・社会人として見た場合

・隣人として見た場合

・恋人として見た場合

・家族として見た場合

などでは、誠実さを測るポイントが微妙に違うだろうと思うのです。

どこからどう見ても不誠実な人、ってのも稀に存在するかもしれませんが、

そういう人は、まあ論外っちゅうことで、ふつうに考えたらですね、

たいがいの人が、どこかは誠実で、どこかは誠実じゃないんじゃないか、

って気がしてきたのです。

 

どこか一部分だけを取り上げて、誠実な人だと安心できないし、

不誠実な人! となじるのも違うのかもなあ、と。

人の中には、誠実さがまだらに存在していて、それらは厚い部分と薄い部分があり、

こういうところでは信用できるけれど、こんなところは信用できない、

っていうことがあって当たり前なんだろう、と考えるようになりました。

 

自分は誠実でありたい、と多くの人が思っているはずですが、

どういう部分の誠実さに重きをおいているかというところは、まちまちで、

誰もがまだらなんだということも、自覚していたほうがいいように思います。

自分が重きをおき、誠実であれと心掛けている部分が薄い人に対しては、

誠実ではない人だと決めつけたり、責めたりしてしまいがちだけれど、

その感覚はすごく個人的な感性によるもの、と考えてみることも大事なのかも。

人によって、厚くあってほしい部分と、薄くてもかまわないだろうと思う部分は、

ほんとうにいろいろだと思うので。

 

けれども、人の誠実さをどこで感じるかは、人間関係においては重要なので、

そこがズレている人とは、なかなかうまくいかないだろうとも思います。

相手を全体的に誠実かどうかを見極めようとするよりは、

相手が誠意を尽くそうとしてくれているところが、

自分にとって大切であり、うれしいポイントであるかどうか? 

そこのところがマッチしているかどうか、のチェックのほうが有効なのかも。

どこに誠実さを見るかということは、人としての在り方に対する価値観

みたいなものが似ているかどうかを測る、

ひとつのものさしになるんじゃないでしょうか。

長くつき合っていく人であれば、これは結構、大事なところだと思います。