京都 四条高倉の占庭から

恋愛の先にしか結婚がない人 と 結婚の手前に恋愛を据える人

先日の真夜中、リビングで、夫がパソコンを開いて見ていてですね、ビックリして、

「な、、、何事?? どうしたん?」

と尋ねますと、静かに振り返って、

「もうすぐ、はやぶさが還ってくるんだよ。あと5分くらい」と答えるので、

「あ、そう」と、わたしその5分につき合うことはせず、

用を足して、ちゃっちゃと寝てしまいました。

そういえば前日から、

「いまもぐんぐん、はやぶさが地球に近づいているんだよ。あと〇〇万キロくらい」

と、パソコンの前でワクワクにこにこしながら話してくれてはいました。たしかに。

うん、そうか。それがいまなんやね。とは思うものの、

 朝になれば、いくらでもその瞬間の映像は流れてるだろう、

それより寝とこうよ、

と考えるリアリストです。

宇宙に関することなどは、夢がある話でいいなとは思うのですが、

はやぶさから分離されたカプセルが地球に還って来る瞬間の映像を

真夜中にリアルタイムで見たいと思うほどの熱意は持てないワタクシ。

夫婦だから、同じことに興味を持たねば、ということもないですしね。

お互いの趣味趣向に関しては、尊重し、のびのび愉しめたらそれでOKでしょう。

ま、ほんとは、一緒にワクワクできたらベストではありますけれど。

ムリしてまで合わせるなんてことは、続きませんから。

 

今年は新型コロナの流行で、いままでの生活が一変してしまったわけですが、

恋愛や結婚をめぐる出会いについても、大きく様変わりしました。

婚活もリモートで、とかいう話も聞きますし、遠距離恋愛はいままでに増して、

直接会うことが難しくなってしまってもいるようです。

けれども、そういう中で、よいパートナーを見つけた方、

入籍しました、というお話も、案外多く聞いているので、

マイナス方向にばかり偏っているという感触はあまりないんですよ。

 

そんな恋愛、結婚の話をお聞きしていて、感じたことなんですけれどね。

「恋愛の先にしか結婚がない人」と「結婚の手前に恋愛を据える人」があるなあと。

そこがズレていると、なかなか難しいんだなあと、いうことについて

今日は書いてみたいのです。

ちょっと説明しますね。

 

① 「恋愛の先にしか結婚がない人」

この人とおつき合いしたら、いずれ結婚することになるかも、

という前提なしに恋愛に入っていく人、ということです。

「結婚」については考えず、お相手を好きになったり、興味を持ったりして、

「もっと仲良くなりたい。知りたい。つき合いたい」というところから始まります。

おつき合いが続き、進展したのちに、

「あ、この人と結婚したいかも」と考え始め、結婚に至るわけです。

なので、最初から「真剣なの?」「結婚とかも考えてくれてるの?」

というようなことを訊かれると戸惑ったり、困ったりしてしまい、

「そんなに急いでいるなら、ほかの人を探してもらったほうがいいかもしれない」

という気持ちになることもあるようです。

 

② 「結婚の手前に恋愛を据える人」は、お相手に好意を持った時点で、

というか、もっと前の段階で「この人と『結婚』はあるか?」を

ジャッジしようとされます。

「ありそう」な気配を感じたなら、ヨシ! と恋愛に入っていく心構えが

できるわけです。

魅力はあるけど、結婚はないわ、と思ったならば恋愛には至らない。

 

まあ、ちょっと乱暴な説明になってしまいましたが、ざっくり言うとこんな感じ。

① の場合、おつき合いの先に結婚を据えていないからといって、

遊びというわけではなく、真剣にお相手を想っていることも多いのですが、

② の考えの人にしてみると、そもそも「結婚」を考えていない、

ということにひどく落胆されてしまったりするんですね。

お互い相手に好意を抱いているのに、恋愛に対するスタンスがズレているだけで、

スタートして間もなくギクシャクしてしまうということは、

ままあるようなのです。

 

ものごとのとらえ方や、価値観というのは、個々違うものですし、

パートナーを選ぶとき、それらはまあまあ近い者同士のほうがまとまりやすい、

ということはあると思います。

確かに、①の考えの人と、②の考えの人が、お互いを理解し合うのは、

ちょっと難しいかもしれません。

けれども、価値観が違うからといって、必ずしも「合わない」

ということはないんじゃないか、とも思うんですよ。

まずは考え方の違いがあるということを理解できたなら、

合わないところがありつつも、そこで学んだり、おもしろがったりすることだって、

できたりもするんじゃないかなあ。

 

もっとも大事なのは、お相手に魅力を感じ、一緒にいたい、

支え合って生きていけたらいいなあ、と思えてるのかどうか、

という、そもそもの基本がまずちゃんとあるのか? ですよね。

 

その上で、お互いの考えやペース、価値観をすり合わせ、

お二人らしい世界を作っていけたなら、その関係性はかなり強いです。

そして、とても素敵なことだとも思います。

卯野たまごさんと占いっこしました

今年の秋は晴れの日が多く、穏やかな日和が続いていたせいもあるのか、

12月に入ってしまっただなんて、一月後はお正月だなんて信じられない!

というキモチです。

しかしまあ、世の中がお正月を手放しで楽しめるような状況でもなく、

12月だというだけで「ああ忙しい! 慌ただしい!」とバタバタしてた

いつもの年末とは過ごし方を変えてもいいんちゃうかな、と思いまして、

師走を突っ走るのではなく、ぼちぼち歩いていくことにしました。

 

占庭を始めてから、毎年ささやかなクリスマス会を開いてきたのですが、

第10回である今年は見送ることにしました。

お招きする方は、ほぼ中高年ですし、ライブあり、会食ありの催しです。

どれをとっても、ハイリスクでしかないんですよねぇ。

来年は心置きなく、パーッと第10回を開けるよう願っています。

そのためには、元気でいないと、ですね。

 

そんな中ですね、先日、とてもうれしいことがありました。

京都へおいでになった卯野たまごさんが、占庭へお寄りくださったんです。

卯野さんとは、新型コロナによる緊急事態宣言の最中、ツイッターで、

「Zoomで雑談しませんか?」と呼びかけたときに、参加してくだったのが

「はじめまして」だったという、なんと申しますか、

まさに今年らしい出会いをしたのでした。

ほんとうにご縁というのは、不思議なものですよねぇ。

以来、何度かZoomでおしゃべりしたりして、いつかお会いしましょうね!

そして、占いっこしましょうね! と固く約束していたのですが、

それはいったいいつになるやら、、、、と思っていました。ら、

その日は案外早くやってきてくれました。

 

リモート対面はしていたので、お顔も雰囲気もわかっていますし、

気心も知れています。

けれどもね、やっぱり実際にお会いしないと伝わらないものってあるんですよね。

実際にお会いした卯野さんは、華奢で、ふわふわ~っとした存在の方でした。

なんか儚くて、妖精みたいな人ならぬ雰囲気もあって。

 

上梓されたばかりの新刊 ↓(コチラ)

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を拝読しまして、質問したかったこともいろいろあったので、

まことにナイスタイミングでした。

もちろん、楽しみに楽しみにしていた占いっこも、早速に。

 

わたしは手相も観ますが手相メインの占いではないので、

手相家の卯野たまごさんに手相を観ていただくのはいいとしても、

わたしが観てもいいもんだろか、とも思うわけですが、

どうしたって観たくてたまらないので、そこは図々しく観せていただきました(笑)

 

自分の手相はもちろん自分でも観ることができるわけですが、

卯野さんの占い方というか観方というかは、ちょっと変わってらして、

手相の声を汲みとってくださるような感じ。

わたしの手のひらが、どう訴えているか、を通訳してもらっているような気持ちで、

お話を聴きながら「ああ、そうだったのね~」と感じ入ることが多々ありました。

 

卯野さんの手のひらは、とてもいたいけな風情で、

ぎゅっと握りしめてあたため、ハグしたい、とにもかくにもねぎらいたい、

みたいな気持ちが、ぐぐ~~~っとせり上がってきたのですが、

この時期それはあかん、と、こらえて。

手相って、線とか丘とか、厚みとか色とか、解説するとなると、

ひとつひとつになりますが、それ以前に、手のひらがかもし出すものがあって、

それがすべて、と言ってもいいくらいだな、と改めて感じました。

占い師同士だからこそわかり合えるところもあったかもしれません。

 

以来、お話いただいたことを何度も思い出し、考えています。

わたしの占いに対するスタンスも、ちょっと変わってきているとも思います。

お会いしてお話できて、ほんとうによかったです。

 

占い師同士での占いっこはよくあることなのですが、

わたしは師匠も仲間もいない占い師なので、あまり機会がなく、

数年前にしいたけ.さんと占いっこして以来のことで、ずいぶんと久し振りでした。

いやいや、楽しかったです~~~

今後、世の中が落ち着きましたら、今度はわたしが東京へお邪魔したいと思います。

またお会いしましょう!

ありがとうございました!

洗濯とは

今年の紅葉は美しいですね。

こんなにきれいに色づくのは、ここ数年なかったのではないかと思います。

外国からの旅行者もいなくて、例年よりは人出も少ないようですが、

今日からの三連休は、ちょうど見頃でもあり、どうなりますでしょうか。

と、気になって、いま、ジャティックで高速道路の混雑状況を見ましたら、

三連休初日にしては少ないかな、という感じでした。

さすがに新型コロナの第三の大きな波がきているところなので、

どっと繰り出す、というわけにはいきませんわね。

 

今日は占いとは全然関係ないことを書きます。(だいたいいつもそうだけど)

先日、洗濯のプロの人の話で、めちゃくちゃ納得できたことがあったのです。

それは、

「洗濯というのは、水に汚れや臭いを移して、キレイにすることです」

ということでした。

え、何? そんなん当たり前やろ、って?

そうそう、そうなんです。

だけど、だからこそ、洗濯はこうやるべし、というやり方に説得力があったのです。

 

まず「少ない水ですすいでもキレイにならない」。

洗剤で汚れを繊維から浮き上がらせて、すすぐわけですが、

その浮き上がった汚れを水に移していかないといけないので、

たくさんの水であるほうが、当然よいわけです。

なので「すすぎ1回でOK!」という高機能洗剤であっても、

やっぱり1回よりは2回のほうがキレイになるのだそうです。

 

これを知ってから、水量をケチらずに洗おう、という気持ちになりました。

水の量が増えれば、当然、洗剤や柔軟剤の量も増やさなければならないし、

時間もかかります。

つい「節約」というキモチで、ちゃんと回ってるし、これくらいでいっか、

と少なめの水量に設定しがちだったんですけど、

どっちか迷ったら多めの方のラインにすることにしました。

 

子どものころ、雑巾をジャーッと水道の流水で洗っていると、

母が目を三角にして「バケツで洗い!」といつも怒っていたのは正しかった。

そして、バケツに入れる水が少なくても叱られ、

すすぐ回数が少なくても叱られていたのも正しかったのだ、、、、

ということを還暦手前で痛感いたしましたことよ。

ゴシゴシ洗って汚れを落とす、という考えではあかんということですね。

 

久し振りにブログを更新したというのに、こんなどうでもいいようなお話でねぇ。

占い師なら洗濯よりは運命の選択について書けよと思われるかもしれませんが、

本日は悪しからず、ご容赦を。

自信はないが気位は高い問題

立冬です。

本格的な紅葉はまだこれからですが、冬が近づいてきているということですね。

ベランダには、毎年恒例の夫の手による干し柿が吊るされ、

ああもうそういう季節かあ、と感じます。

なかなかいい風景です。

先日、ちょっと遠出をしましたら、寒冷前線が南下するタイミングにぶつかり、

小雪が舞う、路肩に雪の積もる山道を運転することになってしまいました。

外気温は2℃。

交通量の多い道で凍結の心配はなかったのですが、さすがにハラハラしました。

無事に帰れてよかったです。

そして、昨日は、インフルエンザの予防接種も完了しまして、

少しずつ冬支度が進んできています。

 

占庭は、11月に入り、忙しさが一段落しまして、こうしてブログを書こう、

という気持ちにもなれました。

書けない間、ずっと考えていたのが「自信はないが、気位は高い問題」です。

どういうことかといいますと、

・自分には何の才能も取り柄もない。

・何かをやれそうな自信が持てない。

という自己肯定感のなさと、自己評価の低さを切々と訴えられつつ、

・自分はひどくないがしろにされている。

・もっと大切に扱ってもらいたい。

ということも並行して訴えられる方がとても多いなあと感じていて、

そう考えることでご自分を苦しめてらっしゃるようにも思えたのです。

 

自信は持てないが、人として尊重はしてほしい。

それは当たり前のことですね。人は誰もが尊重されるべき。

そして、気位が高いというのは悪いことではありません。

プライドがその人の背骨になり、まっすぐ立たせている場合も少なくないです。

自負心、自尊心はとても大事。

しかし、その気位が周りを否定したり、攻撃してしまうのならば、問題です。

いろんなお話を聴いていて、ちょっとした違和感、引っ掛かりを感じる場合は、

その、否定や攻撃がチラリと覗くときだなとわかってきました。

 

 自分は何もできない=何もしない=だから誰も傷つけない

 誰も傷つけない自分を傷つける人がいるのはおかしい=もっとやさしくされるべき

 

という感じでしょうか。

ちょっといじわるな言い方に感じられたらごめんなさい。

この「自分に自信を持てない」ということと、「もっと大事にされたい」を

セットにしてしまうのがまずいんじゃないかなあ、と思うのです。

 

生まれついての才能で成功している人は、ごくごく少数、というか、

どんな才能の持ち主でも努力なくして成功はないだろうと思えます。

才能や取り柄がないから自信が持てない、というのは別のお話ですよね。

自信は、練習や失敗など実践することで経験値を上げていくことでしか、

身についていかないものです。

才がないから何もできない、しない、というところで止まっていたら、

自信は永遠に持てないだろうと思います。

誰だって失敗はしたくないものですが、失敗を恐れて何もしなければ、

前進も望めないということになってしまいます。

 

できそうなことから始める、失敗したらがんばって修正する、

周りの人に助けてもらい、いつかは助けてあげられるようになろうと思う。

助けてもらったり、助けることを「迷惑をかける、かけられる」

と思ってはダメですね。

もしかしたら、その一線を踏み越える勇気と覚悟が、

一番のポイントなのかもしれません。

そこは誰でも怖いし、助けてもらうのは恥ずかしいとも感じてしまうわけですが、

なんとか突破したいところ。

 

自分なんて何をやってもダメだから、と傷つかない安全地帯に退避せず、

等身大でできることから始めていき、周りの人を大事に扱い、貶めないこと。

それは、ご自身の品位を高めることになると思うんですよね。

不思議と品位というのは伝わりやすい。

マウンティングを取るのは、気位を満足させることでしかありません。

自分と周りの人を大切にすることは品位を上げる元だと思います。

どうぞご自身も含めて、ないがしろにせず、品格を上げていきましょう。

 

あ、それともうひとつ。清潔感。

すっきり、小ざっぱりしている人は、それだけで品よく感じられます。

印象も大事ですもんね。

筒いっぱい

ありがたいことにお客さまの多い日が続いていまして、

忙しく過ごしていました。

やっぱり「TVで占いしてるのを見て行ってみたくなって」とおっしゃる方が多く、

「対面占いは初めて」という方が大半です。

そういった方がなぜ「占いの館」的なところではなく、占庭を選ばれたのかは、

ホームページをご覧になって、あやしくなさそうと判断されたのか、

見料が安いので、試しに行ってみるにはお手軽だったのか、

ネットのクチコミサイトなどを参考にされたのか、

だいたい、そのあたりだと思います。

楽しんでお帰りになる方もあれば、抱いていた「占い」のイメージとはズレている、

とお感じになる方もおられると思うのですが、それもご縁のものといいますか、

そこも含めて当たりハズレがあるのが占いというものなのかもですね。

 

 

「筒いっぱい」という表現をお聞きになったことがありますでしょうか?

わたしが聞いた際には、

「あの人はすぐに筒いっぱいになりはるから」という表現ででした。

キャパが小さく、すぐにいっぱいいっぱいになり、余裕がなくなってしまう、

という意味合いで使われていました。

 

けれど、「筒いっぱい」で検索してみると、

<兵庫の方言>

精一杯。

  • つついっぱい頑張れよ
  • (精一杯頑張れよ)

というほか、「ギリギリ」「目一杯」という意味もあるようでした。

 

なるほど、意味としては似通っているけれど、微妙に違う、って感じですね。

今日、ここで書きたいのは、わたしが聞いたときの意味合いでのことなので、

どうか、そのようにお含みおきください。

 

この「筒」について、いろいろと考えてみました。

ひとの精神的なキャパ、もっと言うなら、許容量ってことでしょうか、

それを「筒」と言い表しているとしますね。

その「筒」は、もちろん人によって大小があるとは思うのですが、

大きさ自体は、そんなに差はないんじゃないかと思ったりもするのです。

そりゃあ、たまにものすごく器量の大きな、度量の大きい人っていうのは

実際、おられます。

けれども、めったにお目にかからないですよね。

そういう規格外の人を除外したならば、ひとの筒の大きさなんてのは、

もしかしたら誤差の範囲なのかもしれません。

むしろ、大きさよりも、その「筒」自体の弾力の差が大きいんじゃないかなあ、

と思います。

 

通常のときは、一般的な大きさなのだけれど、

どんどんモノが入ってきたときには、筒がぐぅんと広がって持ちこたえられる、

みたいな。

何事にも共通していることですが、同じ形を保つ固さやマジメさも大切だけど、

柔らかくしなやかであることも大事。

そして、そのほうが強いです。

「筒」はタケカンムリだし、青竹のイメージがしますよね。

竹の筒は、ふくらんだりしぼんだりはしないもの。

でも、それがシリコンだったら、ゴムだったら、と考えてみたらどうでしょう。

 

精神的に追い詰められて、もうパツパツ、筒一杯だ~

と感じたときに、

実は、この筒はシリコンでできてるのよ、ふっふっふ、

と心の中で唱えてみると、一時的に伸びて変形はするけれど、

中身をあふれ出させてしまう事態を阻止できるかもしれません。

その後、また元の形に戻るためにも、弾力としなやかさが重要で。

ゴム風船のように、どこまでも薄く伸びてキリなく膨らんでしまったら、

いつか破裂してしまいますしね。

そうなると取返しがつきません。

際限なく受け容れることは誰でもムリ。

自分で扱えるキャパを把握して、柔らかくありたいわけですが、

この塩梅がとても難しい。

まずは変形を恐れず、少しずつ伸びる練習をしていけたらなあ、と思います。

「占ってもいいですか?」

昨夜の十五夜もきれいでしたが、今夜の十六夜の月も美しいです。

今年はお天気に恵まれましたねー

こんなにクッキリ、スッキリと堂々たる中秋の名月を愛でられるって珍しいです。

 

ここのところ、忙しくて、なかなかブログも更新できずにいました。

新規のお客さまが多く、しかも「占い、初めてなんです!」という方が

どうしてこんなに多いんだろう? と不思議に思っていたのですが、わかりました。

テレビでした。

占い師が芸能人などを占っているところを公開している番組があるんですよね。

そういう番組があるというのは知っていて、友人やタロットの生徒さんからも、

「おもしろいよ~ 見て、見て!」と勧められてもいたのです。

それ見たら、占いに行きたくなったりするの? と訊くと、

なるなる~~~! とのこと。

それは一度、見てみないといけないなあ、と思ったのですが、

ふだん、あんまりテレビを見ないので、そうは言われても、ついうっかり忘れて、

を繰り返していました。

先日、夫が「占いの番組やってるよー」と教えてくれて、初めて見られました。

 

人の占いって興味深いし、勉強になりますね。

占ってらっしゃるのを聞きながら、ふんふん、こういう星の人なのかな?

ああ、たぶんこんな運勢の年回りだったんだろうな、とか頭に浮かびます。

わたしだったら、もうちょっと違う伝え方をするかもなあ、

とシミュレーションしたりして、おもしろかったです。

心配していた過剰な演出などはされてなかったし、

対面の占いって、だいたいこんな感じよなあ、という印象で、

占い番組にありがちな胡散臭さや、やらせ感もなく、ちょっとほっとしました。

 

けれども、やっぱり占いって公開でするものではないなあ、とも感じました。

対面の占いのいいところは、誰にも言えなかったことや、本音や弱音を吐ける、

というところも大きいのでね。

あんな全国に放映されるようなところで、それはムリですもん。

 

それともうひとつ気になったのが「言い当てる」に注目されていたことです。

これもしょうがないとは思うんです。

バラエティ番組なんだから、キャッチーなところも必要なのはわかりますし。

対面の占いの経験のない人や、ふだんあまり占いに興味のない方などは、

占いって、過去の出来事を言い当てたり、未来を予言したりするもの、

と思ってらっしゃるんだと思います。

もちろん、占って運勢を読むことで、結果的に言い当てたり、予言したりしたように

感じられることが起こる場合もあります。

若い頃の運勢と中年期、老年期の運勢は変わっていくものなので、

過去はこんな感じで、いまはこう、そしてこういう運勢になっていきますよ、

というお話は占い師ならふつうにします。

けれど、それを「当てる」ことが占いの目的ではないんですよ。

運勢や持って生まれた才、性分を知ることで、今後の人生にプラスになるよう、

困難をできるだけ回避して、運気を活かしていってくださいますように、

というのが、占いの目的なので。

 

そう言えば、最近来られる初めてのお客さまは、

「悩みについて聞きたいのではなく、自分について教えてほしい。

 わたしってどんな人なんですか?」

とおっしゃる方が幾人もおられたなあ、と思い当たりました。

それは、言い当ててほしい、というお気持ちだったのかもしれないし、

テレビ番組のように、占い師が知らないはずのことを

サクサクと開示されて、驚かれたかったのかもしれません。

だとしたら、期待にはお応えできなかったかなあ。

おそらく、ネット検索して、怖くなさそうで、一番安い占いの店ということで、

占庭を選んでくださったのだと思うのですが、霊感系ではないもので。

 

占い番組で、占いに興味を持ってお店まで足を運んでくださるのは、

とてもありがたく、うれしいことです。

できれば、そこで、テレビには映らない対面占いの良さを味わっていただけたら、

もっとうれしいなあと思います。

 

しかし、テレビの影響ってすごいですねぇ。

占庭のような、こんな小さな占い店にまで及んでいるなんて。

きっといま、全国の占い店が活性化しているんでしょうね。

ほんとうにこの相手でいいのかしら?

朝晩、急に気温が下がるので、ちょっと、、、待って、待って、、、、

という気持ちになりませんか?

昼間はエアコンが要るくらいですのにね。

うっかり風邪をひいてしまわないよう、お気をつけください。

 

先週末、

「あ、この光景、ひさしぶり~」

と思ったのが、これから結婚式にお呼ばれなの、

という出で立ちの若い人を見かけたときのことでした。

そろそろ結婚披露宴も再開されてるということなんですね。

行きつけの美容院でも、今年は結婚式を始め、パーティは軒並み中止、

卒業式、入学式も簡素化、もちろん謝恩会もなしで、

着付けやセットがまったくなかった、と嘆いておられました。

来年の成人式はどうなるのか、それがいまから心配、とも。

占いのお客さまからも、新型コロナの影響についてはいろいろお聞きしていますが、

ほんとうにさまざまなところで、打撃を受けてらっしゃいます。

今後、世の中がどう変わっていくのか、未だに見えませんね。

 

さて、その結婚式ではなくて、「結婚」についてのお話です。

出会って、お互いに好意を持ち、交際が進んで、結婚が見えてくる。

ここまでは、みなさん、だいたいとても前向きなのですが、

いよいよ結婚へ向けて現実的に話を進める段階になると、失速しがちです。

そこで出てくる不安が、

「ほんとうにこの人でいいんだろうか?」

「もしかしたら、もっと自分に合った人がいるんじゃないかしら?」です。

それは、自分だけじゃなく、相手に対してもお考えになることがあって、

「ほんとにわたしでいいの?」という気持ちが湧いてくることもあるんですね。

 

この不安、結婚前だけではなくて、結婚後だって、

「ほんとうにこの人でよかったんだろうか?」

「わたしでよかったと思っているのだろうか?」

に変わってついて回ることもあります。

 

これねー 答えなんて出ないですよね。

そりゃ地球上には77億だかの人がいるわけで、その中でベストな人と添う、

と考えると、それは不可能だな、としか思えません。

一生の内に知り合える人の中で、と考えたって、膨大な数。

迷う気持ちも、後悔に似た気持ちになるのもわかるけれど、

それを考え始めたら、そこから抜けられなくなるんじゃないでしょうか。

 

結婚に何を求めるかも、人によって違うので、

何を「決め手」とするか? については具体的に表せないのですが、

わたしのなかに、ふんわりした答えはあります。

「ひとりで生きていくより、この人と一緒のほうがよさそう」

と思えるかどうか、かなと。

 

もちろん、長い間には、ひとりのほうがマシだったよ、

とガックリくることも出てくるかもしれません。

けれども、振り返ったときにトータルで、

 わたしひとりの人生よりも、この人が一緒でよかったんちゃう?

と思えたら、じゅうぶんだと思うんですよねー

 

たぶんね、誰と結婚したって100%満足ってわけにはいかないですよ。

それはお互いさまで、不平不満もありながら、それでも愛やら情があり、

助け合って生きていけたら、いい夫婦になれるんじゃないでしょうか。

 

あ、それから、結婚後についてですが、結婚してしまうと、

相手に対してどんどん減点が始まってしまうので、

加点することを意識しておかれたらいいと思います。

相手に加点していくことで、実は自分もハッピーになれるんですよね。

お互いがそうできたら、そのカップルは無敵だと思います!