京都 四条高倉の占庭から

ヨーガのすすめ

昨日に続いて、ヨーガの話。

 

ヨーガを習うようになって気づいたことは、たくさんあります。

まず、習い事全般から久しく遠ざかっていたので、

それ自体が、すごく新鮮でした。

倉敷のヨーガのお教室は、先生のご自宅の和室であり、

20畳くらいの空間に、十数名の生徒というところ。

たっぷり2時間のレッスンの間、自分に向き合います。

2時間、仕事でもなく、家事でも育児でもなく、レジャーでもなく、

ただ自分のこころとからだのことだけ考えて、感じて過ごすって、

なんて贅沢なんやろ~~~

というのが、一番の感動でした。

ああ、わたしもそういう贅沢ができるようになったんや、、、、

というヨロコビもありました。

 

ヨーガは他人と較べることはしません。

あくまで自分との対話です。

体の柔軟性ひとつとっても、甚だしい個人差があります。

それによって、できるアーサナ(ポーズ)も限られてきます。

完全な形でできなくても、少しずつそれに近づいていく過程を

自分で感じていく愉しみや喜びがいいんですねぇ。

ちゃんとできなければ意味がないということは、まったくなく、

その日その日の自分のこころとからだに問いかけ、確かめ、

整えていくわけです。

 

自分のこころとからだのことなんて、日常では置き去りです。

見て見ぬふりをしながら、後回しにしてることがたくさんあります。

自分で自分をきちんと労わることって、なかなかできません。

それをわざわざレッスンに通い、時間もお金も遣うことで、

それができるんだなあと、そのとき感じました。

この、わざわざ、が、必要なんですね。

自宅でゆっくり2時間、集中してなんて、なかなかできませんもの。

 

だんだん体が柔軟になり、あちこちに手が届くようになり、

不可能と思えたアーサナができるようになる喜びももちろんあります。

それは目に見える変化で、達成感も得られます。

けれど、こころの変化は、自分の感覚を研ぎ澄ませないとわからない。

こころの声を聴いて、ちゃんとこころをゆるめて、ほどく。

自分というマシーンのオーバーホールみたいなもんです。

ちょっとした不具合、傷、痛み、不安、不満、落ち着かなさ、など、

ひとつひとつ分解して、洗浄・点検して元に戻す作業を

こころのなかでやるようなイメージ。

呼吸法や瞑想と合わせることで、バラついていた自分が、

ホームポジションに戻ってくるような気持ちになります。

そのスッキリ感が、ヨーガの一番好きなところ。

わたしはからだのためというよりは、こころのために、

ヨーガをお勧めしたいです。

 

目を閉じて、一個の自分になったとき、何が見えてくるでしょう?

草原や、波打ち際、森、せせらぎ、いろんなイメージが浮かんでくるんです。

なぜか薄暗い世界は現れず、白く柔らかい光がサンサンと輝く、

穏やかなひとりの世界が、ふわ~っと現れます。

しあわせな気持ちになります。