京都 四条高倉の占庭から

募金 義援金 寄付

熊本の知人の話では、まだ小さな余震が続いていて、

地震酔いがしんどいということです。

たまに大きな余震がくると、みんな、気持ちが折れてしまってね、

とも話してはりました。

「でも元気よ」とおっしゃるので、そんなにがんばらなくていいのに、と思いもし、

でもきっとわたしが同じ立場なら、やっぱりそう言うかな、とも思います。

 

大きな災害が起きると、義援金を、ということが定着したのは、

案外、そう昔のことではないと思います。

たくさんの人たちが一斉にそう思うようになったのは、

阪神淡路大震災以降くらいじゃないでしょうか。

あまりに大きな災害に誰もが慄き、

いまある自分の安寧さを申し訳なく感じたりもして、

何かできることは?と思わずにいられなかったということだと思います。

 

募金もそうですね。

わたしが子どものころは、緑の羽根募金とか、赤い羽根募金くらいしか、

身近にはなかった気がします。

赤い羽根募金は学校や町内会で集金があって、何も考えずにお金を出していました。

 

ところが、20年くらい前、子どもが小学生のときのこと。

学期末の個人懇談の話が終わった帰り際、担任の先生から茶封筒を手渡されました。

「赤い羽根募金のお金です」

と言われたとき、一瞬何かわかりませんでした。

そう。現金が入っていたのです。

ずうっと支払う側で、その後のお金の行方なんて知らなかったわけですが、

いただく側に初めてなったわけです。

母子家庭で、収入も少なかったからなんですけれど、

「あ、わたしって『恵まれない家庭』の人なん?そやったんやー」

と、ちょっとびっくりしてしまいました。

金額は二千円だったかなあ。

もちろん、ありがたく頂戴したんですけれど、

実際問題、年に一度二千円もらって、大いに助かるっていうもんでもないですよね。

それよりか、ボランティアで集金したり、それをまた集めて、計算して分配して、

っていう手間を考えたら、これ意味あるのかなあ、と思いました。

ええ、頂戴しておきながら、そんなことを考えるのは不遜なんですけれどね。

形骸化されてしまっていない?

せっかくの善意なら、もっと有効に使える道があるんじゃないの?って。

 

それ以来「募金」というものをちゃんと考えるようになりました。

ほんとうに支援が必要な人のところに、いい形でちゃんと届かなければ意味がない。

どういう団体を応援したいのか、吟味して募金はしなくっちゃ、って。

で、一番長く続けているのが盲導犬関係への募金です。

わたしは本を読むのが好きだったので、目が見えなくなるのがとても怖くて。

その不自由さも想像を絶します。

点訳のボランティアをしていたこともあって、

そこで学んだことも大きかったですし。

 

そして、去年から始めたのは、こちら。

子どもの村東北ウェブサイト

東北の震災で親を亡くしてしまった子どもさんの支援団体です。

 

以前、年に一度開催していた、友だちの演劇イベントで知り合った方が、

こちらの育親となって、東北へ移住されています。

そのお話を聞いたときは、ほんとうに驚きました。

関西に暮らし、家庭も仕事もおありだったのに、ですから。

わたしには、とてもそんな勇気はありません。

けれども、応援したい気持ちはある。

その気持ちだけで、少額で恥ずかしいけれども、

自分の身の丈に合った寄付を続けていきたいと思っています。

興味を持たれた方がおられましたら、ぜひご支援ください。

「いまこの時に、必要な取り組み」をなさっている団体だと思います。