京都 四条高倉の占庭から

少年少女合唱団

占いで、お子さんの学校や習い事の相談をよく受けます。

塾だけではなく、いろんな習い事をされてるお子さんも多いですね。

ウチの息子は学習塾やお稽古事というのではなく、

小学校のときは地元の少年少女合唱団に入っていました。 


そもそもが小学一年生の終わりころ、

「ボク、これに入りたいんよ」と、合唱団の入団申込書を持って帰ってきました。 

「は? がっしょうだん~?」

エエとこの坊ちゃんじゃあるまいし、なんでまた合唱団なんよ・・・・

と思いましたね。

わたしは勉強に関してはまったくもって鷹揚な母でしたが、

バリバリの体育会系ですから、何かスポーツをしたいというのなら、

よしよしと頭を撫でて「うん?  どこ、どこ?」と身を乗り出したに違いありません。

が、合唱団ってー

 

ところが、彼の決意はなんだかとっても固かったんですねぇ。

で、説明会があるというので、とりあえずそれに行ってみました。

すると団長先生が、以前校長だった、とっても尊敬している先生やったんです。

(毎日楽しく学校へ来てください、がモットーの先生でした)

100人くらいの団体で、小学2年生から大学生までの幅広い年齢層で、

あちこちの学校の子が集まっていました。

これはいいかも、と思いました。

なんせ、ウチの子は母子家庭の上にひとりっ子で、

ぽぇ~っとしていて(それは今でも)、仲のいい友達もいなかったんですね。

わたしが死んだらこの子はひとりぼっちになるというのに、

友達もおらんでどうすんねやろ、と常々心のどこかで気にしていました。

こういう団体に入るのは、この子にはいいかもしれない。

同級生だけじゃない、いろんな人間関係を体験するわけやし、と思ったのです。

入団してからは、毎週土曜日、それはそれは楽しそうに通っていました。

リズム感がイマイチな息子は振りがつくと、いっつもズレまくるんですが、

本人はそんなこと気にしちゃいませんから、ひたすらご機嫌に歌っていました。

大きな声で歌うというのは、ストレス解消になっていたのだと、

大きくなってから言ってました。

コドモにはコドモの世界のストレスがあるんですねぇ。

在団中に、ちょうど結成25周年だかで、親善大使として、

オーストリアポーランド姉妹都市を訪問して、

あちらの合唱団と合同で舞台に立つ、という僥倖もありました。 

もうぎょっとするくらい費用はかかったんですが、

ショパンコンクールが開催される伝統のホールで歌うなんて、

彼の一生にもう二度と訪れないチャンスに違いありません。

演奏旅行なんて楽しいにきまっています。

ここはやるときはやる、ワタクシ。清水の舞台から月面宙返りです。

小学4年生の彼は参加した中で最年少でした。

男の子はふたりだけでしたし、お姉ちゃん団員や先生に、

多大なご面倒をおかけしながらも、12日間の旅行を全身で満喫して帰ってきました。

(旅行中に抜けた乳歯をホテルのテーブルに置き忘れてきたりもしました)

途中、アウシュビッツの見学もありました。

シンドラーのリスト」のビデオで予習して行ったんですけれど、

幼いながらも衝撃やったみたいです。

年に一度全国大会があるので、それも旅行がてらに行くし、合宿もあり、

地元のホールでの発表会には厳しい練習もし、

OB・OGの方たちもたくさん集まって素晴らしい舞台をつくります。

学校でも、家でもないところに彼を温かく迎えてくれる”場所”があったことは、

ほんとうによかった。

わたしは常にフルタイムで働いていたし、学童保育がなかったので、

息子は小学一年生から鍵をランドセルにくくりつけて通学していました。 

遊ぶときは首から提げてもカッコ悪くないように、

ヒモの素材やマスコットを選んで作りました。

家の中でも外でも、ひとりで工夫しながらよく遊んでいましたね。

あまり淋しいと訴えることはなかったのですが、夏休みに、

「お昼ごはんをひとりで食べるのはイヤなんよ」

と言ったことはありました。(それでもひとりで食べなければなりません)

かわいそうでしたが、いつ何時、わたしが倒れるとも限りません。

とにかく自分のことは自分でできるようにと、幼い頃から家事分担していたことも、

今となってはよかったです。 

合唱団で得たものも、きっとこれから先の彼の人生のあちこちで、

忘れたころに顔を出すんじゃないでしょうか。


白い半ズボンに青いフェルトのベレー帽を被って大きく口を開けて歌う姿は、

実にしあわせそうで、見ているわたしもしあわせな気分にさせてくれました。

うん、コドモから得るものはほんとに多かったですね。