ほんとうに大事な人とは、出会うべくして出会っている。
しかも、絶妙のタイミングで。
と感じています。
中高生のときに出会っていたら、タイプがあまりにも違いすぎて、
お互い敬遠してただろうなあっていう人とも、
中年になって、しかもSNSを通じて親しくなったもんだから、
却って垣根を感じずに、スムースにとてもいい友だちになれた、とか。
若い頃ならば、この人の好さを見抜けなかったろうという人と、
40も過ぎて出会ったので、自然に一緒に暮らせた、とか。
趣味を通じて、子ども会を通じて、仕事を通じて、友だちの友だちと、など、
いろんな出会いの中で、
「このタイミングじゃなかったら成り立たなかったよね」
ということは案外多い。
また、出会ったのはずっと前だけど、何かのキッカケで、
すうーっと距離が縮まるということもありますよね。
そのキッカケが、また絶妙なタイミングで訪れるんやなあ。
縁の深い人というのは、自然と引き合うのかもしれないですね。
昔、徐々に疎遠になっていく人をどうすればいいだろうと考えた時、
「ホントにわたしの人生に必要な人ならば、
きっとまたお互いの人生がクロスする時もくるに違いない」
という、後ろ向きな選択をしたことがありましたが、
これも、ただの意気地なしというだけじゃなく、
そこそこ真理をついてたのかもなあと思います。
ま、
なにがなんでも! 絶対後悔したくない!
というほどの熱意が湧いてこないレベルの思いだった、
っちゅーことでもありますけどね。
あ、ちなみにこの人とは、またいいタイミングで、穏やかな再会ができました。
めでたし、めでたし。
友人知人を自分にとって「役に立つ人」かどうか、
で取捨選択する人がたまにおられますが、そういう視点で出会いを捉えていては、
出会うべくして出会う人とは、出会えないんじゃないかと思ってしまいます。
カンが鈍るんちゃうかなあ、って。
トクになる人と知り合うより、好きになる魅力のある人と出会う方が、
絶対におもしろいし、結局は、自分を豊かにしていくと思うんですよねぇ。
ええ、ベタな言い方ですけれど。
カーナビばかりを頼って運転していては、道も覚えないし、
方角のカンも鈍ってくるように、人に対するカンっていうのも、
損得や、見栄を優先していてはぼやけてくるんじゃないかしら。
心の中は、シンプルにしておいた方がいいんですよ、きっと。
そういう意味で、自然に離れていく人間関係ならば、
またいずれ交わる時がくるかも、と感謝をこめて見送るのもひとつかな、
とも思います。
たぶん、大事な人とは、いつかどこかで出会えるようになってるんでしょう。
見逃してしまわないように、アンテナだけはバッチリめぐらせていたいです。
いくつになっても。