京都 四条高倉の占庭から

ねねさんでは恋を勝ち取れない

先日、リピーターさんのお客さまとお話していて、思い出してしまいました。

高校生くらいの頃から二十代にかけて、

わたしは海のように広い女の人になることに憧れていた、ってことを。

度量大きく、情緒は凪のごとく安定し、動ずることなく、ちまちま嫉妬もせず、

慈愛に満ち、すべてを受け容れ、いつもふんわり微笑んでいる。

サウイフ オンナニ ワタシハ ナリタイ

と思っていたわけです。

 

将来結婚したならば、ダンナさまのことだけ見つめて、

かしずいて、尽くして、生涯を捧げたい。

とも思っていました。

 

若かりし頃の自分。

大バカやったなあ。

そんな女になりたいと思っていたなんて。

それがしあわせだと思っていたなんて。

 

海のように広い人間、ならまだよいのです。

海のように広い女は、実は全然魅力的ではなく、飽きられやすい、

ということが今ならわかります。

 

パートナーに対して、いつもやさしく、あたたかく見守り、

自由を制限せず、甘えさせる。

それって、あの秀吉の正室・ねねさんみたいだなと気づいたのは、

もう中年の坂も転げ落ちようという頃になってでした。

遅いわ。

 

ねねさんは、それは素敵な方だけれど、あの生き方が女性として幸福だったか、

というと、とてもそうは思えないんですよねー

絶対、嫉妬もあっただろうし、すごく傷ついてもいたと思うんです。

もちろん、そういう生き方を否定するつもりは全然ないんですよ。

大きな素敵な女性だなあと尊敬しています。

ただ、女としてしあわせになりたいのならば、

恋の相手としてパートナーと渡り合うならば、

ねねさん方式では貧乏くじを引くことになりはしないか、と思うのです。

 

だってね、どんなに人間的魅力がたっぷりあったところで、

パートナーをすっかり安心させてしまったらどうなります?

相手にはストッパーがないのと同じです。

ドキドキする人が現れたならば、躊躇せずに恋に落ちてしまうでしょう。

怒らないで、しょうがないわねぇ、って許してくれる人には、

甘えてしまうんですよ、男は。

もっと言えば、女として甘く見られてる、ってことですよ。口惜しいね。

 

「彼の足かせになりたくないの」

「いいのよ。最終的にアタシのところに帰ってきてくれたら」

なんて、本気でそう思っていたとしても、愛する人がよそに心を移したならば、

つらくないはずがありません。

「迷子になっても元気で帰ってきたらヨシ」

なんて思うのは、お母ちゃんだけです。

 

こういう方、人が好くて、やさしい、思いやりあふれる気立てのいい女性に

多いんですよね。

ねねさんは、素敵だけれど、うっかりするとこれ以上ない都合の良い相手、

とも言えます。

そうなってはつらすぎる。

 

心当たりのある方、

「もしかして、わたしはねねさんになろうとしてる?」って、

胸に手を当てて思いをめぐらせてみてくださいね。

恋の最中ならば、まだ間に合うから。