京都 四条高倉の占庭から

人生の底

京都の紅葉もそろそろ終わり。

今日明日で人出も落ち着くのではないか、とラジオも言っていました。

いよいよ冬の到来です。

 

レンタル着物で京都観光、という人も多いのですが、

冬場は見てるこっちまで寒くなりそうな感じ。

外国の方などは、和服の上にダウンコートを着てたりして、

そらそやわなあ、と同情してしまいます。

和服用の防寒グッズも併せてレンタルしてあげればいいのに~

と思うわけですが、熾烈な価格競争の中、そうもいかないのでしょうか。

 

 

占い師というのは、人様の悩みや迷いを聴く仕事なので、人の胸の内には、

つらい話、悲しかったこと、ゆるせない思いがあることを

他の職業の方よりは、たくさん知ることになります。

それらは、多くの人が、誰にも言わずに胸にしまっているものなのですが、

こんなに多種多様であり、厳重に秘められているものなのか、

と驚かずにいられません。

誰のこころの中にも、傷があり、その傷を他人のこころの傷と比べることは

できないんですよね。

要するに、自分の傷がどれくらい大きく深いものなのか、

相対的に把握することは不可能である、ということで。

 

ですので、ものすごくつらい思いをされていても、

「自分なんか大したことない。もっとつらい人はいっぱいいるもの」

と思う人があれば、たったひとつの思いに囚われてしまって、

自暴自棄になってしまう人もおられます。

もちろんメンタルの強さにも個人差がありますから、

なおさらこころの傷み具合というのは、測れるものではありません。

 

ツイッターで流れてくる中にも、思わず声をかけたくなるような、

つらさがにじみ出ているつぶやきがたくさんあります。

仕事で、家庭問題で、人間関係で、といろいろな場にあって。

 

 そんなに自分を責めないで

 あなたのしてきた努力を貶めないで

 他人の評価に振り回されないで

 

と願わずにいられません。

 

きっとだれにも「人生の底だな」と感じる時があるのだと思います。

わたしはたかだか56年しか生きていませんが、

振り返って、いつが一番つらかったかなー と考えるに、

それは24歳だった、と明言できます。

その一番つらかった24歳当時、それがその後30数年を加えても底であるとは、

まったくわからなかったわけですよ。

まさかそんな若い時に、半生のどん底に沈んでいるとは思いもしません。

そんな人生の序の口で底を打ってるてねぇ。

 

いまから思えば、まだ世間も、しがらみも知らない若さだったので、

却ってよかったのかな、と思いもします。

体力もあったし、絶望するには残り時間が長すぎました。

客観的に見て、ひどくシビアな状況である、しかし、自分にはそれほど非はない、

ということさえ自覚がなかったので、我が身を責めこそすれ、

恨む気持ちは湧いてきませんでした。

ただ、死にそうなくらい悲しかっただけで。

 

何が言いたいのかといいますと、若くても、実はどん底っていうことだってある、

ってことなんです。

「まだ若いくせに何言うてんねん」なんて、よく知りもせず言う人もいます。

コトの原因を「若さゆえの未熟さ」と決めつける人もいます。

もちろん、それが正しい指摘の場合もあるけれど、そうでないことも多い。

 

ですのでね、そんな風にお説教されたり、見下されたりしても、

それを全身で受け止めなくてもいいですからね。

くれぐれも反省は、ほどほどに。

 

だいたい、そんな風にあれこれ言いたがる人ほど、口だけで何も助けてくれません。

耳に痛いことを言ってくれる人はありがたいのですが、

それが、ただ叱りつけ、スポイルしているだけの言葉であれば別です。

 

聞きいれる言葉か、捨ててよい言葉か、選別が難しいですよね。

難しいけれど、難しいと投げ出さず、そこはちょっとがんばって考えてみましょう。

自分をちゃんと守るために、その思考力は必要です。