京都 四条高倉の占庭から

貧乏の基準は親ゆずり

四条通の地下道で、こんな写真展が開催されています。

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こんな感じで、西側の柳馬場あたりから藤井大丸の手前くらいまで続いています。

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けっこう、長距離にわたって、たくさんの写真が展示されていて、

とても興味深いです。

京都で生まれ育った方であれば、より楽しめるのではないかと思います。

 

大丸京都店の東隣の新しいビルの1階に、こちらがオープンするらしいです。

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四条高倉の角っこです。

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なんかココだけね、えらいスタイリッシュなんですよ。

いかにもアップルらしい感じ。

 

そのプロモーションなんだと思うんですけど、地下道までこんな風に。

(もしかしたら、ずっとこのままなのかも)

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と、最近、通勤路が変化に富んでいるのでした。

 

さて、お盆休みも今日くらいまででしょうか。

お子さんの夏休みもあと2週間くらいですね。

わたしが母子家庭で子育てしていたころ、小学校に学童保育がなかったので、

ウチの子は、夏休みはもう退屈で退屈でしょうがない様子で、

早く夏休みが終わってほしいと訴えていました。

ひとりで朝から夕方まで過ごすのが40日ともなると、そりゃ飽きてもきますよね。

あまり友だちと遊ばず、ほぼひとりで遊んでいたので余計です。

小学生がひとりで留守番している家に遊びにいかせるのは、ちょっとなあ、

と思われる親御さんもおられますしね。

 

そんな子どもでしたが、たまには友だちが遊びに来ることもありました。

小学2,3年生のころだったでしょうか。

ある日、仕事を終えて家に帰り、夕飯を食べているときに、

「なあ、母さん、ビンボウって何?」と訊いてきたのです。実に屈託なく。

よく話を聞いてみると、友だちが遊びに来たときに、

ウチの窓がガラリと開けてあったのを見て、

「お前ん家は貧乏じゃけぇ窓にカギをかけとかんでも、

 ドロボウも入らんのじゃろ」(これ、岡山弁です)

と言ったらしいのです。

その子の家は川を挟んだ向かいにある大企業の社宅で、

我が家はボロボロの市営住宅でした。

ボロボロではありましたが、3棟並んで建っているので人目はあります。

その上、住まいは3階だったので、窓を開けててもなかなか侵入はできません。

 

いや、そういうことではなくて「貧乏」ですよ。

まだ、7つ、8つの子どもの、

「窓にカギをしておかないとドロボウが入る」

「〇〇くんの家は貧乏」

という考えは、大人から聞いた考えに違いありません。

すぐに、その子のお母さんの顔が頭に浮かび、

 ああ、そういうこと言いそう~~~~

とちょっと、笑いそうになりました。

他人にどう思われようと、言われようと、別にどうってことありません。

住んでいる場所で、住んでいる人までを蔑むなんてのは、

その人の品格が知れようというものですしね。

そういう考えの人もいる、ということを子どもに教えるよい機会でもあります。

 

さて、それにしても貧乏です。

貧乏ってなんだろう? と改めて考えてみると、なかなか定義しにくい。

まずは、経済的に苦しい、貧しい、ということであろう、とはわかります。

じゃあ、どの程度苦しいのが「貧乏」クラスなのか?

これ、難しいです。

その時、息子にはこう説明しました。

「貧乏ってな、お米が買えなくてゴハンが食べられないとか、

 学校で必要なものが買えないとか、住むところがないとか、

 生きていくのがとても苦しいことをいうんよ」と。

いま思うと、わたしの貧乏の定義は、かなり底辺ですね。

それを聞いた息子は、

「じゃあ、ボクとこは貧乏じゃないな」

と、ケロリとしていました。

わたしは心のなかで「いや、ふつうよりはだいぶ貧乏やけどな」

とは思ったんですけど、言わずにおきました。

 

その件で、親の価値観がどれほど子どもにストレートに影響するのかを

まざまざと知ることとなったので、自分はどうなのか? と省みました。

親の価値観を絶対として子どもに押しつけてしまってはいないかな、って。

ある程度は親がヨシとする価値観を植えつけることになるのはしょうがないです。

育てるってそういうことでもあるし、環境にも左右されます。

けれど、子ども自身が感じたり、考えたり、選んだり、疑ったりする余白を

残しておくことは大事なことなんですよね。

 

この「貧乏」というワードですが、それから約10年後、

息子の愛読書となった山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』のなかでの

貧乏という試練は甘んじて受けるが、貧乏臭いのはお断りなのだ。

という一節で再会することになります。

「貧乏はいいが、貧乏くさいのはいかん」っていう意味なんですね。

わたしもこの小説が大好きで、親子共々、強いシンパシーを感じました。

この一文が、わたしたちを10年越しの「貧乏」という言葉から、

サッパリと解き放ってくれたように思います。

ですので、この小説にはとても感謝しているのです。