京都 四条高倉の占庭から

ガマンし続けない決意

連休明けの今日はとってもいいお天気。

でも、

学校や職場に行きたくないー 

と思ってた人も多かったんじゃないでしょうか。

四条通も、心なしか歩いている人が少ない気がしました。

 

今日は「我慢」について。

ガマンって、できる人のところに集まるんですよね。

だから、ガマンする人は、ずーっとガマンし続けることになりがちです。

なにしろガマンできない人はしないわけですから、

そういう人の周りのガマンできる人はそれを強いられることになります。

また、ガマンできる人は、ついしちゃうんですよ。

もう習慣みたいになってらっしゃる方も多いです。

 

でも、ガマンって、

ほんとはイヤだけど、黙って辛抱する。

ってことでしょ。

だから、どちらか一方だけのガマンは続きません。

お互いがそこそこガマンする、というのなら成り立ちもしますが、

特定の人だけ、どちらか一方だけのガマンはいずれ破綻してしまいます。

 

だいたい、どんな我慢強い人であっても、ただひたすら耐え忍ぶのはムリ。

それにね、意識はしていなくても、どこかで、そのガマンの代償を

期待してしまうんですよね。

そりゃそうですよ、人間やもん。

代償というのは、感謝の言葉だったり、気遣いや思いやりなど、

自分へ向けてくれる愛情、ってことです。

それを得るためにガマンしてるわけではないけれど、

 このしんどさに見合う何かがあってもいいよね? 

って、心のどこかで求めるのは、当たり前のことだとも思えます。

 

けれども、それらを得られることはめったにないんですよね。

そうすると、ガマンと不満はセットになって膨れ上がっていきます。

やっぱりどこかでパーン! と弾けてしまう。

そうなれば、周りも驚くし、自分自身の気持ちも落ち込みます。

 

ですのでね、なるべくガマンをしないようになさってほしいんです。

もちろん、なんでもワガママ放題になれ、というんではなくてですね、

ガマンに何らかの見返りを期待してしまうのであれば、

そのガマンはしないほうがよいものなのだろう。

と思ってみられたらどうでしょうか。

負担に思わないガマンをさて、ガマンと呼んでよいものかどうかわかりませんが、

「こんなにガマンしてるのに!」という気持ちを抱かずに済むような、

ガスの抜き方を考えられたらいいなと思うのです。

ガマンのなすり合いほど空しいものもありません。

できるだけ「ガマンによる解決」は採らないようにして、

ガマンにまで発展しないように折り合いをつけられないものか、

を考えてみてください。

折り合いのつけられない、お先真っ暗なガマンであれば、

それをうまく放棄する手段を考えてみましょう。

とにかく、誰かのガマンの上に成り立っている平穏は平穏ではない、

ってことを認識していただきたいのです。

 

と言いますのも、あまりにもガマンを重ねてしまっている人が多すぎると

感じているので。

社会人として、夫として、妻として、母として、父として、子どもとして、

いろんな役割を全うするために「ガマンばっかり!」

と思ってらっしゃるのだけれど、それを誰にも言えなかったり、

こんなことで文句を言っていてはダメ、と自分で押し殺したり。

出口がないんです。

 

ですから、まずですね、

 ガマンをし続けない方法はないのか? ほかの選択肢はないのか?

から考え始めてみてください。

すぐに答えは見つからないかもしれませんが、

このままを続けない、

という視点に立つことで、新たな切り口が見つかったり、

何に執着しているのかが明らかになったりもします。

 

わかりやすい例で言いましたら、

「なんで『ありがとう』のひと言もないんだろう?」

というような思いの下には、ガマンがあるし、代償への期待もあるということです。

そう思って消耗するくらいなら、しない方がマシかもしれません。

してあげたいことは、どんどんしてあげて、ガマンしながらしていることは、

なるべく手放していく。

 

いいですか。

ガマンは「いい人」と言われる、ガマンできる人のところに集まってきます。

くれぐれも、引き受けるのはほどほどに。

じゃないと、だれのための人生かわからなくなってしまいますものね。