京都 四条高倉の占庭から

どっちの努力も立派だけれど

毎年、5月半ばから、ベランダのオリーブが咲きます。

今年はちょっと刈込み過ぎたと、反省してます。

なんとか実を生らせたいと思って、あれこれ手を尽くすのですが、

いつも途中でしぼんでしまって、なかなか結実しません。

品種の違うオリーブの花と交配させると実がつきやすい、と知って、

息子に、母の日だか、誕生日だかのプレゼントに買ってもらいました。

よしよし。これでできるだけの手は打ったぞ。

と満足していたんですが、なんと、片方の鉢が先に開花してですね、

もうひとつが遅れるという事態に。

 

 ああ、そうか! 同時に咲かないと意味がないんや~~~~

 

という残念な状況に陥り、もう一方が咲くまで、じれじれしてしまいました。

夏場、水枯れしないようにと、大きな鉢に植え替えしたせいか、

今年の花はちょっと大きかった気がします。

さて、今年こそ、実が生るでしょうか。

生ってほしいなあ~

 

この前、ぼーっと電車に揺られているときに、

わたしが魅力を感じる素敵な人たちって、似通ってるところがあるなあ、

と気づきました。

共通点は、なんでもソツなくこなす人ではない、ってところ。

凸凹があるんですね。

 

 そんなことができるってすごい! ってところと、

 えっ、こんなこともできないの? ってところがある人たちばっかりでした。

 

わたしは、子どものときから、まあまあ、な子だったんですね。

勉強もまあまあ、運動もまあまあ。

社会に出たら、仕事もまあまあちゃんとやって、

周りの人たちを極端に困らせることもなく、かと言って切れ者でもなく、みたいな。

目立つことは好きではなかったし、放っておかれるほうが気楽でした。

おまけに負けず嫌いでもないので、まあまあならええやんと、がんばらない(笑)

いままで生きてきて、めちゃくちゃ努力した、ってことが一度もありません。

 

個性や才能を伸ばす努力というのは、

「できないこと、苦手なことを克服する努力」と

「できること、得意なことを伸ばす努力」の2種類があると思うんですね。

どっちも努力できる人って素晴らしいし、心から尊敬します。

 

で、わたしが素敵だなあと憧れる人たちはですね、

みーんな、極端に後者に偏った方ばっかりなのでした。

 

できないことは早々にあきらめ、もしくは、あきらめざるを得ず、

できることをやるしかない、とか、得意なことはこれだけだ、って感じで、

そこを伸ばすことで、克服できない何かを必死にカバーして生きてらっしゃる。

そう聞くと、

 みんなそうじゃん、と思われたり、

 そっちの方がラクじゃね? と思われたりするかもしれませんが、

そんなことはないんですよね。

みんな「できない」ところをあきらめきれず、ジタバタするもんです。

だって、できないところをバッサリ切り捨てるって、勇気が要りますもん。

その部分については、ほぼゼロ評定になるってことですからね、

自分で「ダメな人」印をドン! と押すようなものです。

それは結構つらい。

 

わかりやすい例えをあげるなら、

人と関わるのが苦手な人が接客を必要とする仕事に就く場合、

感じの悪い店員だと思われないように心を砕くのではなく、

当たり障りのない愛想を超える技術や、知識で勝負する。

感じのいい人という評価を得ることは捨て、

脇目もふらず、他の人にはまねできない仕事ができるまでになる。

とかそういう感じかな。

 

端的に言うならば「特化する」っていうことに近いのでしょうけれど、

特化のポイントをうまく切り取るには才能も要りますし、

できないところをできるようにするための労力を

できるところを伸ばすことのみに注ぐ潔さも必要です。

ガツガツしてないのに、一途なんです。

そこがカッコイイ!

と憧れてしまうんですねぇ。

 

まあまあで生きるほうが無難だし、ラクだとも思います。

やっぱり、ラクにテキトーに生きててもカッコよくはなれない、

ってことでしょうか。

 

有名になりたいとか、大金持ちになりたいっていう欲はありませんが、

できれば、自分なりにカッコよくは生きたいんだな、わたしってば。

ってことにも気づき、へえ~ そんな欲があったのねぇ、

となんか自分でも意外でした。

 

しかしながら、今までまあまあで生きてきちゃったし、急には変われません。

でも、どっちでもいいようなことはサッパリと見切りをつけ、

ただの自分勝手にならないよう、自分の良心と相談しながら、

少しずつでも、まあまあから脱却する意識は持っていたいかな、

なんて思っています。