京都 四条高倉の占庭から

誇りを失わないよう 心は気高く

通勤電車のなかからの風景は、京都へ近づくにつれて雪の白さが目立ったのですが、

四条大橋にも、河川敷にも、もう雪は残っていませんでした。

うっすら雪化粧を期待していたので、ちょっと肩すかし。

けれども、風はとても冷たいです。

歩いていると、衣類に包まれていない皮膚の毛穴が、

いま、ものすごく、ぎゅうっと締まっていることをお伝えします、

って言うてるような感触を覚えるほどで。

「寒い」よりも「冷たい」が勝ると、これはこれで冬らしくていい、

なんて思ったりもしますが、それは外にいる時間が短いからで。

外でお仕事をなさってる方は、そんな悠長なことを言うてられへんですよね。

 

昨日、何度もおいでいただいているお客さまと話していたのですが、

「自己肯定感を持て」とか「自己評価を高く」とかよく言われるけれど、

それがイマイチよくわからないんです、とおっしゃるんですね。

自己肯定感とかいうと、なんか特別な心構えみたいに思えますが、

要するに「自分は自分でいい」と思うことが基本です。

はじめの一歩は、単純にそこから始めればよいわけです。

 

「自己評価を高く」は、なかなか曲者。

「自己」で評価するわけなのですが、その際、自分の心のなかで、

 他者と比較して自分はどうなのか?

と考えてしまいがちで、そうするともう自己評価ではないのでは?

ええっと、それではいったいどうすれば??? となるんですよね。

評価って、基準値があって較べるものだと認識しているものですし、

自己の「評価」は、まさしくそれぞれの「自己」の思う基準値があるので。

ああ、ややこしい。

これは、考えれば考えるほど説明しにくくなるヤツです。

 

で、ああ、そういえば、と思い出したのが、子育てしているとき、よく子どもに、

「誇りを失わないように」「心は気高く」

なんてことを言っていたなあ、と。

そういうお話をしたら、

「そっちのほうがわかります!」とおっしゃるので、

ええ~~~、そうなの?? という話でして。

誇りとか、気高くとかのほうが、ずっと抽象的で、

それこそ何をもって誇りとするのか、

気高いというのは、ツンとしてることとどう違うのかとか、

わかりにくいんじゃないかと思っていたんですよ。

けれども、自己肯定感よりも、スッと腑に落ちた、とおっしゃるのです。

これはもう、ことばの感触がピタリとはまったということなのでしょう。

それは、ほんとに個人個人バラバラで、

万人に共通するってものではないものですが、こうしてたまたま掘り当てると、

うれしくなったりもします。

 

で、そのお客さまに、

「そう言われて育ったお子さんは、誇りを持った大人になりました?」

と訊かれてですね、うーーーむ、と思いました。

 

誇り。

どうでしょうかー 誇りというか、非常にマイペースで、自分は自分、

という大人にはなっていますかね。

 

だいたい「自分は自分でヨシ」が確立していれば、むやみに他者を攻撃したり、

貶めたりということは、あまりしないと思うんですよねー

いまのご時世、そういう困った人が目立つのは、

自分は自分、他人はまた違う考えがある、

っていうことをわかってない人が多いから、ってことのような気がしていて、

それは「誇り」を見失っているということなのかも、と思ったりします。

 

誇りって、こういうもの、と説明する類の言葉ではないんですよね。

それこそ、子どもに誇りを持てと言うても、さっぱりわからないでしょう。

けれども「誇りを失わないように」、意味はその内わかる日がくるから、

くらいでもいいと思っていました。

その言葉を胸に持っているだけでも、心気高くいられるのだと思っていて。

また、そうであれば、ヘンに他人におもねることもないだろうし、

ムダに卑屈になることもないんじゃないか、と考えていたわけです。

 

そのあたりのことが、果たしてうまく子どもに伝わったのかどうかはわかりません。

けれども、進学先を選ぶときも、就職先を選ぶときも、

見栄や格好、損得ではなく、自分のモノサシで選択していたように感じています。

親としましては、それでもうじゅうぶんでした。

 

誇りを失わないということは、自分自身を見失わないということに通じるところが

あるのかもしれません。

気まぐれな他人や世間の評価に一喜一憂していると、

自分のありかが危うくなります。

そこを守るために胸に誇りを。

貧しくとも心は気高く、でありたいです。

ええ、言うだけはタダですしね。心意気です、心意気。