京都 四条高倉の占庭から

あたたかな成人式

今日の成人の日は、風もほとんどない、穏やかな暖かい一日でした。

だいたい、成人式とか、センター試験とか、大雪になったり、寒波が来たりで、

ああ、かわいそうに、たいへんそう、、、、みたいなことが多いので、

今年の成人のみなさんは、ものすごくラッキーでしたね。よかったよかった。

 

毎年、成人の日に開催されるマラソン大会がありまして、

本日定休日のワタクシ、それに出場する夫の応援に行きました。

例年、広々した川面を渡り、河川敷を吹きすさぶびゅうびゅうの風に背を向け、

うーーー 寒い、寒いと足踏みしながらの応援なのですが、今日は、

手を叩きながら「がんばれーーー!」と見ず知らずのランナーを応援していると、

暑くなってきて、上着を脱いでもなおポカポカでした。

こんなことは、ほんと初めて。

ギャラリーとしてはありがたいことでした。

 

我が家の近所の成人式は中学校で行われます。

わたしのころは市民会館だったんですけれどね。

まあ、時代だけでなく、自治体が全然違うというのもありますが。

その成人式に、わたしは行きませんでした。

両親が離婚したばかりで、母と妹と3人で暮らしていた頃で、

親に晴れ着を用意してもらう、なんて境遇ではなかったし、

なによりわたし自身が、成人式に参加する気が全然なかったんですよねー

 

 みんな同じような振袖を着て、白いフワフワを首に巻いて、衣装比べか。

 はっ、アホらしっ! 

 

みたいなかわいくない女子だったわけです。

その裏には、

 

 自分みたいな美しくない者が、着飾っても滑稽であろう。

 

という心理もありました。

ほら、若い時って自意識過剰だし。

 

そんなわたしに母は、貸衣装を借りてあげるから、式に行けば?

と言ってくれたのですが、

 いやいや、晴れ着がないから行かない、って言うてるんちゃうし、

 どうしても行けというなら、ジーパンで行く。

という、ますますかわいくない女子でありました。

そして、母は、ジーパンで行くなら行かないで、と言う人でした。

 

でも、晴れ着のない自分はみじめだ、なんて気はまったくなくて、

行かない選択をする自分自身を支持している心持ちでした。

わたしは高卒で働いていたので、成人式の晴れ着を揃えるくらいの貯金は、

あったんですよ。

けれども、家に生活費も入れ、始末して貯めたそれを

成人式という、なんかよくわからない式典のために使う気にはなれなかったし、

その時もし、晴れ着を買ってあげよう、という裕福な親族がいたとしても、

欲しくないのだから辞退しただろうなと思います。

 

同期入社の友だちに、成人式には行かなかったと話したら、

「わたしも別に行きたくはなかったけど、晴れ着で成人式に行くのも

 親孝行やと思うし~ だって、喜んでくれるから」

と、そんなの当たり前でしょ、という顔で言うわけです。

わたしにしたら、行かないほうが負担を掛けない分、親孝行、

くらいに思っていたので、心底愕然としました。

そうかあ、あるべきものが当たり前にあるところに育った人には、

「親孝行」の感覚は逆転するんだなあ、と。

これはなかなかの衝撃だったので、37年経ったいまも忘れません。

そして、自分が子育てをしていた時に、何度も思い出しました。

たまたま自分の子どもは男の子だったので、この成人式の晴れ着問題は、

わたしのなかで棚上げしたままになっています。

もしも、ウチの子どもがムスメであったら、わたしはどうしていたかしら。

昔の自分の話もし、いまのわたしの気持ちも正直に話して、

ムスメの意志のままに成人式を過ごせたらいい、と考えたかな。

 

と、そういうあれこれを胸の奥に持ちながら、道すがら眺めるお嬢さんたちは、

いつもとても美しく、親御さんの愛に育まれたのだろうと感じられ、

なんだか胸のあたりがきゅうっとします。

 

オギャアと生まれて20年間、育てたほうも、育ったほうも、

どちらもほんとうにおつかれさまでした。

こうして20年を迎えられ、おめでとうございます!

 

と、素直に心からの祝福を送りたい気持ちで満たされます。

わたしもオトナになった、ってことでしょかね。