京都 四条高倉の占庭から

良心のありか

秋の交通安全週間に入り、パトカーをよく見かけます。

昨日、わたしの前を走っていたタクシーが、交差点を抜けるとき、

「いまの、もう赤信号になってたなあ~」

と思っていたら、横から白バイがサイレンを鳴らして追いかけて行き、

止められていました。

危険なほどの信号無視ではなかったけど、黄色か赤かというと、

間違いなく赤になってから進入してはったので致し方ないですね。

京都の街は道路が狭いところが多く、渋滞も起きやすいので、

完全アウト! っていうタイミングで赤信号になった交差点に突っ込んでいく車、

結構あるんですよ。

取り締まりが強化されてる時期でもありますし、安全運転でまいりましょう。

 

さて、ここのところ、

恋愛・結婚で、長続きするカップルの共通点って、どういうところだろう?

ということを考えていました。

よく「お似合い」って言いますよね。

そのお似合い、というのは、見た目とか、暮らしぶりとか、学歴とか、年収とか、

いろんなポイントがあって、それらのどれかが釣り合っているようだと、

お似合いだよね、って言われるんだと思うんですよ。褒め言葉として。

けれども、お似合いのカップル、と思っていても、続かない人は続かない。

ということは、お似合いっていうのは、そんなに重要じゃないのかな?

とも思ったんですけど、いやいや、そんなことはないだろう、とも思います。

 

また、関係解消の際の理由として「価値観の相違」というのも、よく聞きますよね。

価値観が近いというのは、暮らしの中で優先したいものが似ていたり、

どこにお金を使いたいのかが同じだったり、ということですね。

住居、食事、服飾、趣味など、どこにちょっとした贅沢をしたいか、

がズレてしまうと、モメ事の元になりやすいです。

ともに生活していく上で、そこは大きなポイントですもんね。

そして、何を優先したいか? の方は、

どこに時間使い、相手をどのようい慮っていくか、

というところでしょうか。

 

この「価値観」と「お似合い」って、似ているな、とも思うんですよ。

価値観の共通点が多いカップルは、たぶんお似合いなんです。

しっくり感があったり、一緒にいてラクに感じられる、というのは、

そこに通じるんじゃないかな、とお客さまの話を聴いていて思います。

しかしながら、価値観もお似合いも、ふわっと広がりのある表現で、

ココ! っていう言葉ではないんですよねー

 

で、考えました。

うまくいくカップルに、多く共通している部分は、どこ? 何? と。

 

最初は、そうだ「魂のレベル」だなとか思っていたんですよ。

でも、魂とか、それこそ「何なん、それ?」な言葉で、

万人が同じイメージで捉えることはできません。

じゃあ、そのわたしが考えている魂というのは、

そもそも、何によってレベルが違ってくるのか、なんて考え始めまして。

魂のレベルを左右するのは、品性とか品格っちゅうもんではないか、と。

それならば、その品性、品格は何によって変わってくるのかなあ、

と、ほんとに、答えのないようなことをぐるぐる考えていたんですね。

そこで、ああ、それは「良心」かな、というところにたどり着きました。

 

誰の心中にも、天使のわたしと悪魔のわたしがいます。

白い部分と黒い部分がある。

白一色、なんて人は存在しないし、それが理想、というわけでもない。

その誰にでもある黒い部分の、許容できる黒さのラインっていうのが、

あると思うんですね。

このくらいの黒さは処世術としてアリ、必要悪の範疇、

と判断するラインっていうことです。

それは、常識とか、道徳心とか、信仰心とか、概念とか、

いろんなものが混じり合って、その人その人の判断基準になっていくのでしょう。

 そこまでの黒さは受け容れがたい。

 いくらなんでもそれはダメ!

と思う線引きが、それぞれの良心のありかなんじゃないでしょうか。

 

セクハラ、モラハラパワハラなど、なんとかハラスメントと呼ばれるものも、

やっぱりこの良心のありかの差異が、表面化させるような気がします。

 また、人間関係にどこまで損得勘定や上下関係を混ぜ込むか、

なんてことも、それぞれの良心に委ねられる部分でもあるでしょうし。

 

で、そのラインの位置がふたりの間に大きなズレがあると、

お似合いだろうがなんだろうが、もう続けていくのは困難になってしまうのでは?

と思ったのです。

長く良好な関係を続けてらっしゃるカップルは、善悪のさじ加減が似てらして、

品性・品格のレベルというか、規格というか、

そのあたりのバランスが絶妙だなあと感じられます。

 

良心のありかは、いろんなところで、こぼれ出ます。

なんともいえないイヤな気持ちを連れてくる、ちょっとした違和感、

というのは曲者です。

大きなトラブルにはならなくても、積もり積もってくるとズレは明らかになり、

ああ、この人とはもう無理だ・・・・となっていくのだと思います。

ですので、パートナーとの関係に、もやもやしたものを感じている方が

おられましたら、それはお互いの良心のありかに違いがあるんじゃないか、

というあたりをね、一度考えてみられるといいかもしれません。

お彼岸ですね

秋のお彼岸には、ちゃーんと彼岸花が咲いていることに毎年感心します。

今朝は、電車から風景を眺めていて、ついこの前、

水を張った、田植えしたての田んぼってほんまにキレイやな~ 

と思っていたのに、もう稲刈りですか!? と驚いたり。

彼岸花や、稲の風景に心がふるっと揺れるというのは、

まさに日本人ならではなんやろなあ、と思います。

 

稲といえば、先日、ラジオで、

「田植えって、なんでまっすぐに植えるか知ってますか?」って話が出て。

まあ、いまは田植え機で植えるから、まっすぐなんやろ、と思うでしょうけど、

大昔から、糸を張って、それに沿って植えてたりしましたでしょ。

なぜまっすぐかというと、稲か雑草かを見分けやすいように、なのだそうです。

稲にそっくりの雑草や雑穀があって、それに養分、水分を取られないように、

それらを見分けて抜きやすいようにしてあるんですって。

まっすぐの線上から外れているものは、雑草決定、というわけ。

農家の方には当たり前の話なのかもしれませんが、初めて聞いて、

へぇ~~~~! と思いました。

 

さて、今日は、梅小路公園で、京都音楽博覧会が開催されています。

遠くの台風の影響で、雨風が心配されたのですが、怪しい雲行きながら、

いまのところ、お天気はもっている様子です。

せっかくのフェスですしね、なんとか終わりまでもってくれるといいですね。

 

わたしが若いころは、音楽フェスなんてのはなくてですね、

「ライブ」と言い出したのも、すっかり中年になってからでした。

昔は、コンサートて言うてましたね。

わたしの親世代になると「実演」と言っていたらしい。

時代を感じますよねぇ。

チケットも、レコード屋さんや、百貨店、プレイガイドに並んで買ったものです。

数日前から並ぶ猛者もいたりして。

それが、電話になり、ネットになり、便利になりましたね。

 

こう見えてわたしは(見えてへんか)、結構音楽が好きで、

小さなライブから大きなライブまで、いろんなところへ行っています。

占庭のお客さまも、ライブやフェスに行くのが好き、って方、多いです。

そういう方には、誰のファンなんですか? と尋ねます。

全然知らないバンド、ってこともよくあるんですけど、

ああ、知ってる知ってる! みたいなところから話が弾むこともあって、楽しい。

「彼女はこれから必ず、来ますよ!」と勧められたアーティストが、

ほんとうに、あれよあれよという間に有名になっていった、

なんてこともありました。

メディアやネットで目にするアーティスト名から、

ああ、あの方がお好きて言うてはったなあ、

とお客さまを思い出すこともしばしばです。

関西でのライブに参戦するために、遠方からお越しになって、

そのついでに占庭へ寄ってくださることも、結構あるんですよ。

昔は、全国飛び回る追っかけ、って特別な存在でしたけど、

いまや、どんなに遠方でも、チケットが取れたら行く!

というファンは、どんなジャンルでも、ちっとも珍しくなくなりました。

それはもちろん、交通機関が発達したということも大きいでしょうけれど、

情報の速さ、広さが、実際の距離感も縮めているような気がしますね。

なんかもう地球上のどこにも、最果ての地なんてないように感じられるくらいで。

(実はすぐ近くでも行けないところはいっぱいあるのだけれど)

 

わたしが生きてきた、たった半世紀余りの間にも、時代はどんどん変化し、

猛スピードで文明は進化してきたんですよねぇ。

それでも、変わらず、お彼岸には彼岸花が咲き、稲穂が稔っている。

その風景がこれからも変わらずにあってほしいなあ、

となんだか祈るような気持ちになってしまう秋ですよ。

 

とここまで書いたら、雨音が。

ついに降り出してしまったかあ。

早く上がりますように。

「数学の贈り物」森田真生著 感想文

久し振りのカテゴリ「読書」です。

いつもは、ずいぶん前に読んだ本の感想をUPしているのですが、

今回は今年3月に発行されたばかりの作品、そして読みたてほやほやです。

 

著者の森田真生さんについては、SNSで流れてくる情報の中で知っていて、

京都在住ということもあり、どういう方で、どんなことを書いてらっしゃるのか、

興味を持っていました。

数学の研究者の著作を読んだところで、果たしてわたしに理解できるのか、

そもそも読み切れるのか、、、、

というところで、ぐぐっとブレーキがかかっていたのですが、

随筆集ということで、読んでみようと思ったのでした。

 

158頁と、コンパクトな本なんですよ。

サラっと読めると思ったのが大間違い。

 

帯に、

「独立研究者として、
 子の親として、
 一人の人間として
 ひとつの生命体が
 渾身で放った、
 清冽なる19篇。
 著者初の随筆集。」

と書かれていたのですが、まさに「ひとつの生命体」であり、「渾身」であり、

「清冽」でありました。

 

34歳の若いパパでもある森田さんは、在野の研究者です。

数学の研究者が、在野で? いったいどういう形でお仕事をされ、

それでどのように生活をしてらっしゃるのだろう。

とそのあたりの下世話な興味が先走ってしまったワタクシ。

けれども、読み進める内に、そういうレベルの低いハナシちゃうねんな、

と汚れてしまった己を浄められるような気持ちになっていきました。

ええ、数学の話で。

 

なんかね、ヘンなやっかみも持たれそうでしょ。

そんなに若くして、家庭もあって、それで独自の研究をしていける、

ってなんだかとってもうらやましい。

きっと、ひたすらお勉強ばっかりしてきた、特別な頭脳の人なんでしょ。

むしろ特殊っていうか。

みたいなところで、庶民はバランスを取ろうとしちゃったりするし。

ところが、中高はバスケ漬けだったとか、帰国子女でバイリンガルだとか、

お写真を見ると、さわやかな美丈夫でらして、家事育児にも意欲的。

とくると、あまりにもスキなく完璧で、恐れ入ってしまいました。

しかも、オレってすごく頭がいいから、とか、キミたちとは違うから、

的なニオイがまったくない。

まっすぐに、真摯に生きてらっしゃる。

すごい34歳だなあ。ただもう尊敬するしかないです。

 

肝心の内容ですが、一般的な「数学」について語られているのではありません。

むしろ、哲学に近い。

数学で道徳や、規範を読み解こうとされています。

難しい。

その圧倒的な知力の格差に打ちひしがれながらも丁寧に読んでいけば、

おもしろく読んでいけます。(ほんとうに理解できているかは別として)

なるほど、と思うところ、子どもを持つ親として痛いくらい気持ちがわかるところ、

ああ、このように子どもの勉強に寄り添ってやればよかったな、と反省するところ、

いろいろありました。

日常を語りながら、数学を語りながら、ひとが生きていく意味や目的など、

精神の深淵を垣間見たような気持ちになります。

ええ、とても深い深い。

 

フランスの哲学者 フランソワ・ジュリアンさんとパリで公開対話をされたのですが、そのジュリアンさんの著作に触発された思いをこのように書いてらっしゃいました。
(以下抜粋)

 

 彼はこの本のなかで、「普遍」概念が形づくられてきたヨーロッパ固有の歴史を描き、「普遍」と似て非なる概念として、現代の世界に「画一的なもの」や「共通のもの」が蔓延している状況を浮き彫りにしていく。画一性の暴力に屈するのでもなく、狭隘な共通性に逃げ込むのでもない、第三の道を模索するために、彼は「普遍」の概念を再活性化していこうとする。そこで彼が提案する「普遍化可能であること」と「普遍化すること」の区別に刺激されて、僕は数学史における「普遍」について、再考をはじめることになった(この後の一連の思考は『新潮』2018年7月号に論考「『普遍』の研究」として寄稿した)。

 

難しいけれども、まったくわからないということはない。

考えていること、感じていることの表現方法や、

アプローチの手法がちがうということなんですね。

そして、それがふつうの思考の遥か高みにある、ということで。

そういう次元に触れられることも、読書の愉しみのひとつだなと思います。

それぞれのレベルで感じたり、考えたりすればいいのだし。

と、いまの世の中のあれこれにくたびれているこころと頭に染みわたりました。

こんな「癒し」もあるのだなあ、と新しい発見をした気分です。

反対する親

残暑厳しすぎるこのごろ、真夏のようなゲリラ雷雨が連日起きています。

少し気温が下がった今日は、その心配はいらないのかな、というところ。

先日の台風被害の大きかった千葉などは、まだ停電が続いていて、

この暑さで、水までも停まってしまっていては、参ってしまいますよね。

作業をされている方の体調も心配です。

去年、関西へやってきた台風が、生きた心地がしないほど怖かったので、

台風と聞くと、あの恐怖がよみがえります。

そして、同じような思いをされたであろう方々にお見舞い申し上げます。

一日も早く、日常が戻られますように。

 

 

さて、親子、夫婦、兄弟姉妹など、血縁関係が円満な人と、こじれている人が、

相互に理解し合うということは、とても難しいと思います。

特に、こじれてしまっている人が、円満な人から理解を得るのが難しい。

当人にしかわからない確執、当人しか知らない過去の事柄を明らかにして、

なぜこじれを解消できないのかを説明することが、そもそも難しいし、

その上で理解を得ることはもっと困難です。

ここは、あんまり訴えたりしないほうがいいのかなあ、と思うほど。

その困難を乗り越えて、円満な人からの理解を得たところで、

それが何になるのか、というと、大きな成果、ってことでもないような気がします。

それよりかは、こじれている者同士で、ほんと大変だよね、大変だったよね、

と励まし合ったり、慰め合ったりするほうが、むしろ建設的なのではないか、

と思うくらいでね。

 

困難な親のひとつのパターンとして、

とりあえず、リスクの高そうなことには何でも一旦、反対したい、

という人がおられます。

この場合の反対の理由は、大きくふたつ。

もし、うまくいかなかった際に、

「だから言ったじゃない。だから反対したのに。」と言いたい場合と、

「親に反対されたくらいで諦めてしまう程度なら続かないから」

という観点で、一度、出鼻をくじいてみるという場合。

 

これはどちらも「親あるある」であり、迷惑な話です。

親の責任として、「ちゃんと育てなければ」と思ってらっしゃるわけです。

けれどもそれは、親御さんが思うところの「間違っていない道」だったり、

「無謀ではない無難な生き方」への誘導になりやすい。

実のところは親側が不安材料を払拭し、安心したいためなのだけれど、

「あなたのためを思って」「わざわざわかっている苦労をさせたくないから」

というコーティングを施されて伝えられます。

 

ではそこに、愛はないのか、というと、あるからややこしい。

親は子どもに幸福になってほしいと願い、

子どもは親に喜んでもらいたいと、健気に考えていることが大半です。

それじゃあ、どうしたらいいのさ、となりますよね。

 

こうすればよい、これがあれば大丈夫! 

なんて正解はあるわけないのですが、わたしが思うのは、

『何があっても生き抜くしなやかさと度胸』を身に着けられたらかなり強い、

ということです。

成功へとまっすぐに伸びた一本道なんて、あるはずないんです。

枝分かれはいっぱいしてるし、迷路みたいに行き止まりの道もあります。

行きつ戻りつしながら、歩いたり走ったりしてきた道が、

振り返ると自分の一本道になっていた、というのが人の一生なのでしょう。

それならば、折れず、倦まず、あきらめず、なんとかして生きながら、

自分らしい道を探していく柔軟さと、現実を受け止めるハートの強さがあれば、

大きく逸れた道へ踏み込んでしまうことはないんじゃないかと思うのです。

 

親御さんには、そういうお子さんに育てようと思っていただきたいし、

子どもさんは、そういう大人を目指してもらえたらいいなと思うんですよ。

それは親子ともに、本当の意味でタフになれる道でもあるのではないかなあ、

と思うので。

 

「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」

と言ったのは誰でしたっけ。

そうあれたら、ほんとにカッコイイし、できれば目指してほしいです。

目指すことは誰にでもできるので。

経験を積む・慣れるということ

ラジオからウルフルズの「大阪ストラット」が流れてきて、

おおー 久し振り~ と頬がゆるみました。

この曲をよく聴いていたころは、まだ倉敷に住んでいたんですけど、

いまは大阪に住んでいるので、地名や店名が、ああ、あそこね、

って、リアルなんですよ。

そうすると、曲との距離感みたいなのが、全然違うなあ、と感じます。

それは田辺聖子さんの小説を読んでいてもそうなんです。

最近、読み返してるんですけど、大阪を舞台にしている小説が多くて、

土地の持つ熱とか、勢いとか、肌で感じる気配のようなものが、

グッと迫ってきます。

ああ、わたしも大阪っていう土地に親しんできてるんだなあ、と実感します。

 

そして、それは京都でも同様で。

占庭は京都にあるので、週4で通っている内に、道もお店も覚え、

タテヨコの通りの名前でだいたいの場所が把握できるようになりました。

その場所で時間を過ごす、というのは、えらいもんですね。

なんとなく身に着いてくるもので。

 

そうして、その場に身を置くとか、回数を重ねるとか、

時間をかけ、経験を積んでいくことで自然に体得するものもあれば、

そうすることでしか得られないナニモノか、っていうのもありますよね。

仕事でいうならば、技術や技能はまさにそれなわけで。

 

占い師という仕事も、どれだけたくさんのゲストを観て、お話ししたか、

その経験の積み重ねが一番の勉強です。

見料というお金を頂戴しながら、データを収集しているようなものです。

ありがたいことですよね。

それをその後に活かしていくことで、お客さまに還元することができ、

かつ、占いの技量も上がっていくのだと思います。

 

けれども、経験を積むことは、慣れていくことでもあります。

慣れることは悪いことではないのですが、

それが安易な予測につながらないよう、注意も必要です。

また、長くやっていく内に、知らず知らずに妙な垢のようなものが

ついていってしまうこともあるかもしれません。

そうなっても、たぶん自分では気がつかないだろうと思うのです。

それはとってもとってもイヤなことなので、そうならないよう、

時々、立っている場所を自分で確かめ、心の鏡に自分を映してみてですね、

ありたい自分らしくいられているかな、とチェックしなければ、

と思っています。

 

ですので、

最近のみゆきさん、ちょっと変わってきた気がする、、、、

と感じられた場合は、ぜひ指摘してくださいね。

猛烈に反省しますので。

占いのリピーターさん=占い依存ではないです

お盆休みが明け、日常へ戻った方も多いのではないでしょうか。

お子さんがおられる人は、夏休みもあと少しという方と、

もう新学期が始まってやれやれという方があるようですね。

占庭はお盆休みはないのですが、先週末は、同級生の小さな集まりがあり、

それに参加方々、弾丸帰省してきました。

お盆休み後半だったので、高速道路もスイスイ快適だったのですが、

暑さにやられてしまって、なんだかクタクタになってしまいました。

体力が衰えているのでしょう。やっぱり年齢には抗えませんねぇ。

暑さを甘く見たらあかんなと身に染みました。

 

今週末も車で、もっと遠方へ出掛ける予定なので、

保冷剤なども持参しようと思っています。

ということで、24(土)25(日)は、連休いたします。すみません!

 

さて、

占いに来られる方というは、

迷いや悩みがあり、苦しくてたまらない、という方が多いです。

そんなん当たり前やん、と思われるかもしれませんが、

そういう方ばかりでもないんですよ。

特に切羽詰まった悩みはないけれど、占庭に行って、

「自分の考えや思いを話してみるのが目的」という方も、

実は少なからずおられます。

 

他人に話すっていうことは、自分の考えをわかってもらえるよう言語化する、

ということであり、要点や、強調したい点はどこか?

などを整理する必要があります。

そこで、話す相手は誰がよいか? となるわけですが、

自分をよく知る友だちとか、上司とか、家族がよい場合もありますが、

利害関係のない、まったくの他人のほうがよいことも多いのです。

なおかつ、そこそこ自分を客観的に理解してくれている人であれば、

自身を冷静に見つめ直すことができ、自分も含めて客観視することができる、

というメリットもあります。

そこで馴染みの占い師の登場です(笑)

 

占い師は、話を聴いた上で、その時々の運気の流れを重ねたり、

カードを引いたりして、まったく違う角度からのアプローチもプラスするので、

占い師と話してみる、というのは、それなりの意味があるのかなと思っています。

というか、リピーターさんは、ほぼみなさん、そんな感じなので、

たぶんそうなのでしょう。

たまに、占いはほとんどしなくて、話すだけ話して、見料支払ってお帰りになる、

なんて方もおられるくらいです。

 

占いのリピーターさんとか、ヘビーユーザとかいうと、

依存してるんじゃないかとか、自分で決められなくなっているんじゃないの、とか、

思われるかもしれませんが、逆なんですよね。

自分で決めるために、占いも利用し、占い師とも話してみるんです。

その過程で、ご自身の意思が確認できたり、違う視点を得られたりするわけで。

 

その間、わたしはというと、的確なアドバイスをしなければ、

なんて全然思ってないし、むしろなるべくそれをしないよう心掛けています。

占い師がアドバイスをするなんて、おこがましいし、

そういうのって結局は占い師のアドバイスではなく、

わたし個人の考えのアドバイスをしてしまう、という危険を伴っています。

それはちょっと出しゃばりすぎ。

 

じゃあ、何を話すのかというと、質問です。

「それって、こうしたいと思っているということ?」

「どこが一番耐えられないポイント?」

「そのなかで優先したいことは何?」

ということを尋ねていくのですが、それも答えを見つけるためというよりは、

わたし自身がお話を聴いていて疑問に思ったことや、

曖昧でよくわからない部分をそのまま尋ねているだけのことなんです。

そうすると、ゲストの方は、そこで自分にもう一度問いかけ、

返答を提供しようとされる。

 

こんな作業をまさか占いのお店でやっているとは、知らない人も多いだろうな、

と思います。

未来を予言するのでもなく、心理カウンセリングでもなく、

自分で答えや方向性を見出すための、ひとつのツールとしての占いもある、

ということを知っていただけるとうれしいです。

 

霊視力や霊感のないわたしが占い師をやっていくためには、

占いの知識とそれを生かすための知恵を積み上げること、そして、

よい質問をする力を養うための努力を怠ってはいけない、っていうことなんですね。

そう書くと、なんか修行みたいでつらそうですけれど、そんなことはないですよ。

いろんなお話が聴ける占い師という仕事はほんとうにたのしいですし、

こんないい職業はほかにないだろうと思っているくらいです。

(あくまでも、わたしにとっては、ということですけれどね)

 

あ、それと占い師になりたいという方、結構おられるんですけれど、

生活が成り立つほどの収入を得ようとすると、それは並大抵ではありません。

だいたい、儲かる職業ではないんですよ。

どんな仕事でもそうですが、ラクして稼げるってことはないですね。

たのしいなあ、だけで、お金がジャンジャン入ってくるなんて話、

あったら、怪しまねばなりませんものね。そこは占い師も同様です。

台風にご用心

猛烈な暑さのなか、超大型の台風が西日本へ向けて迫ってきています。

進路がなかなか定まらず、動きも遅いため、予測ができにくいようですね。

昨年、近畿地方を直撃した台風があまりにも怖かったので、

大きな被害が出ないといいのだけれど、、、、と不安です。

 

明後日の木曜あたりが一番、影響が出そうなのですが、

占庭もお店を開けられるかどうか気になるところです。

ご予約もいただいていますが、お客さまもわたしもまだ判断しかねる状況ですし、

いましばらく行方を見守るしかないですね。

今週末は、土曜日の午後から日曜にかけて、休ませていただきますので、

木曜を台風でお休みにしたくないところなのですけれどねー

 

昨年末に出した本をお読みくださった方が、たくさんおいでくださり、

夏になっても、まだぽつぽつそういうお客さまが続き、

このお盆にも遠方から数名、いらしてくださいました。

ありがたいです。

本は毎月、新刊が発売され、売れそうにない本は版元へ返される運命。

書店の書架スペースには限りがあるので当然です。

わたしのような無名の占い師の本をまだ置いてくださっているところがある、

というのは、オドロキでしかありません。

フシギなご縁でつながった方を大切にしなければ、と思います。

 

ところで、全然、話は変わるんですけど、先日、以前から一度行ってみたい、

と思っていたお店にやっと行くことができたので、紹介いたしますね。

京阪・三条駅近くにある「篠田屋」という小さな食堂です。

レトロを狙ったのではなく、古いものを大事にして長年営業されてきた結果、

古びるのではなく、味のあるお店になっていた、というお店。

実にええ感じなんですよ。

ここの看板メニューは、昔懐かしい味わいの中華そばと、皿盛です。

  こちらが、その皿盛 ¥650(税込) ↓

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 (どうしてもピンボケになるのは、もしかして才能?)

 

一見、カツカレーなのですが、カレールゥがかかっているのではなく、

カレーをお出汁で伸ばしたカレーあんがかかっています。

ですので、見た目よりもあっさりしています。

そして、辛いって感じではないけれど、意外にスパイシー。

おいしいです。

 

11時半オープンで、45分くらいに行ったのですが、もう満席で、少し待ちました。

薄いカツはカリカリで、ビフカツにもしてもらえます。

長い間、誠実なお商売をしてこられたのだなあ、と感じられる店内です。

そういえば、わたしが子どものころには、こういう食堂、たくさんあったなあ、

と懐かしく思い出しました。

 

こちらのブログに詳しく紹介されていましたので、ご興味のある方はどうぞ。


www.hotpepper.jp

 

おすすめです~