京都 四条高倉の占庭から

自由と平和

本日の京都の予想最高気温、39℃ですって。

なんかもう甚だしい暑さですよ。

そんな中、知恩院さんにお参りに行ってきました。

朝から歩いて顔がドロドロになっても困るので、この季節はちょっと贅沢。

京阪三条駅からタクシーを奮発します。(というてもワンメーター)

今年も蓮がきれいに咲いていて、 写真を撮ったものの、

蓮の美しさよりも、陽射しの強さと暑さがより伝わるかと・・・・

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うーーーむ。相変わらずの写真下手。

 

お盆の帰省シーズンで、昨日から高速道路はえげつなく混んでるようですね。

毎年、この時期、ジャティックの道路交通情報を見ずにいられません。

来週は西日本に大型台風がやってくるようだ、ということもあってか、

前半に交通量が集中したのかもしれませんね。

今朝も渋滞の赤いラインがぐんぐん伸びていました。

午後になってからのほうがまだマシなようです。

けれどもそうなると、暑さがねぇ、、、、

いずれにしても、車で帰省される方は、どうぞお気をつけてくださいね。

 

8月、子どものころは、戦争関連の番組が増えるのがイヤでした。

暗くて、つらそうで、怖くて。

 もういいじゃないの、そんな昔のこと。

 戦争なんてもう起きないだろう。見たくないよ。

と思っていたんですね。

けれども、最近はもっと伝えていかないと、と真剣に感じるようになりました。

 

わたしの両親は、終戦時、小学4,5年生でした。

戦時中は子ども時代だったわけです。

それでも、周りの大人たちがどうだったか、生活がどうだったか、

そういう時代の空気感は、しっかり記憶している年齢です。

そんな年代の親たちは、戦争についてどう考えていたかというと、

「あんな悲惨なことは二度とあってはならない」であり、

「戦争がいかにむごくて、愚かなことか、誰もが身に染みたはず」だから、

さすがにもう二度と日本が戦争をするなんてことはないだろう、

というものだったように感じます。

なので、わたしも、また戦争へとつながるような時世には、

少なくともわたしや子ども世代の間には、至ることはないだろう、

と思い込んでいました。

 

けれどもここのとろ、それはすごく甘い希望的観測だったかもしれない、

と不安になるようなことが、続いています。

ほんとうに怖い。

怖いけれども、ただ恐れて、目と耳をふさぐのではなく、

NO!という意思表示と、戦争を選ばないためには、いまどうすればよいのかを

ちゃんと考えないとだめですよね。

 

以前読んだ、近未来小説のなかで、AIが支配する世の中になれば戦争はなくなる、

という話がありました。

AIが発達すれば、敵対するどちらものコンピュータが計算するわけですよ。

戦争になれば、どれくらいの損害があり、どちらに勝機があるのか。

その答えが出た段階で、合理的な落としどころをまた計算で出していくので、

戦争には至らないと。

AIにはメンツや、プライドや、意地はありません。

それらに流された間違った判断や暴走がないのは、悪くないな、とも思えます。

それならいっそAIがつくる社会のほうがいいのではないか、

なんて思ってしまったのですが、人間が思い描く理想の社会と、

AIの目指すところはおそらく同じではないでしょうしね。

というか、AIが地球を支配するようになったら、

AIは何を守ろうとし、何をつくろうとするんでしょうか。

なんてことを考えるのも、この世にSF小説があるからで、

それを読み、こうして文章にできる自由があるからですよね。

自由も平和も、当たり前にそこにあるわけじゃない。

先人のたいへんな努力や苦労の末にもたらされ、

幸運にもたまたまそういう時代に、わたしたちは生きている、

ということを忘れないようにしなければ、と思うのです。

8月の臨時休業と子ども電話相談

遅い梅雨明けとともに、強烈な真夏がやってきまして、

いつの間にか8月に入っていたんですねぇ。

なんか今年は実際の月日と体感がマッチしてないというか、

フィットしてないというか、なんかそのズレが解消されないまま、

飛ぶように日々が過ぎているように感じます。

いや、それは季節に心身が追いついてないだけなのかもしれませんけどね。

えっと、これは老化、ってやつですか?

 

ということで、ブログの更新もますます滞りがちになっておりましてすみません。

しかし、この暑さの中、占庭は忙しくさせていただいておりまして、

まことにありがとうございます。

ここ数年、夏休みは取っていなかったのですが、

今年は久し振りにちょっとだけ涼しいところへ旅して来ようと思っています。

8月は、18(日)・24(土)・25(日)を臨時休業させていただきます。

ただでさえ週4日しか営業していないので、休んでばっかりやん、

と思われるかもしれませんが、どうかお許しください。

 

先日、運転中にラジオから「夏休み子ども科学電話相談」が流れてきました。

昔やっていた「全国こども電話相談室」ファンだったワタクシ、

前のめりに聴き入ってしまいました。

 

あの質問に答える先生というのは、大変ですね。

子どもの予想外な角度から繰り出される質問に向き合うのは、

まあ、専門家としては望むところかもしれませんが、

子どもってのは予定調和なんて概念はないですから、

一生懸命に語り掛け、コミュニケーションを取ろうと図る先生に対し、

とても自由なスタンスで対応するんですよねぇ。

しばらく無言、なんていう、

 これラジオだから!!

と聴いている方がハラハラする、関係者の方々は冷や汗が流れてるんちゃう?

なんて局面も多々あります。

質問に的確に答えるよりも、音声だけの初対面の子どもとやり取りをする、

そして、大人も子どもも納得できるまとめまで達する、っていうのが、

大変難しいだろうなあ、と思いました。

まあ、その苦労なさっているさまを見守るというか、聴き守る(?)のも、

この手の番組のおもしろさのひとつなのかもしれませんけれどね。

専門の先生方が、子どもの質問に嬉々としてお答えになってるのも、

なんだか聴いていて微笑ましいような、楽しい気持ちにもなります。

 

で、聴いていましたらね、質問された先生は、科学的な根拠のある内容と、

ご自身の考えを併せて、質問者に誠意を尽くして答えてらっしゃいました。

子どもにもよくわかるように、正しい説を納得してもらえるように。

それはもう丁寧にアプローチして、正解へと導こうとされていたんですよ。

しかしながらですね、空気を読むなんてことは、子どもにとっちゃ邪道です。

先生が持てる球はすべて投げたあたりで、もういいだろうと、

「〇〇くんはどう思ったかな?」

と問いかけたその答えが、

 ねぇ、いまの話、聞いてた? 

って言いたくなるような返事、という場合もあるわけです。

たまたまわたしが聞いてた時が、まさにそれで、

ありゃりゃ~~~ それはないやろ~ あんなに説明してくれてはったやん~ 

と思った瞬間、その先生が、発した言葉が、

「えっ、マジですか、、、」

だったので、運転しながら笑ってしまいました。

お気持ち、お察しいたしますとも、と。

 

けれども、どのお子さんたちも、みなさん回答を得た後は、元気よく、

「ありがとうございました!」とさわやかに電話を切られます。

先生のほうは、スッキリした気持ちになれない場合もあるやろなあ。

これは大変なお仕事だなあ、と思った次第です。

ぜひ来年も続けていただきたいです。

不機嫌で相手を支配すること

昨日の京都は、祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行でありました。

巡行の日がまだ梅雨明けしていないということはよくあって、

雨の中での巡行も珍しくないのですが、昨日は雨はまぬかれ、

昨年ほどの酷暑でもなかったようです。

ようです、と申しますのも、昨日は占庭定休日で、京都へ出てこなかったので、

確かなことは言えないなあ、ということで。

また来週の水曜日に後祭(あとまつり)の巡行が行われます。

さて、梅雨明けしてますかねー

 

先月、大好きだった作家の田辺聖子さんがお亡くなりになって、

一番好きな、30年くらい前の作品を読み返しています。

昔の文庫本って、文字が小さくて、行間も狭いんですよね。

いまの文庫本に慣れた目にはなかなか厳しいものがあります。

けれど、それだけぎゅっと詰まっているというわけで、

昔の文庫本は単行本とくらべるとグッと廉価でもあったし、

本当におトクだったんだなあと思いますね。

当時は文庫になるのを待って買っていたので、わたしの本棚は、

いまでもズラリと文庫本が並んでいます。

すっかり紙が茶色く変色してしまっていますけれどね。

 

田辺聖子さんは「機嫌よく生きる」ということを

よく、人間の美点として表現されていました。

若いころは、そこに特別強く共感することなく読んでいたのですが、

だんだんと年を重ねるにつれ、それが人として上質かどうかにもつながるなあ、

と思うようになりました。

 

人間関係のいろんな場面で、機嫌を悪くすることで、

相手をコントロールしようとする人を見かけますよね。

怒鳴ったり、すねたり、泣いたり、わめいたり、無視したり。

それらはみんな、自分の機嫌の悪さを相手にぶつけることで、

 ワタシの機嫌の悪さを思い知れ!

 こんなにもヘソを曲げているワタシの機嫌をどうするつもりだ!

と言うてるようなもんです。

非常にみっともない。

 

自分の機嫌を自分で取ることができないもんだから、

それを周りの人にぶつけて、そっちがなんとかしろ、っていうのは、

どう考えてもおかしいことですよね。

不機嫌をぶつけられる方はたまったもんじゃありません。

けれども、そういう理不尽も、一点の迷いなくされてしまうと、

さもその人の言動が正当で、うまく対処できていないこっちに非があるのかも、

って思ってしまったりするんですよね。

 

でもね、たとえ、こっちの言動に非があったとしてもですよ、

それを不機嫌で表現しようということが、そもそもおかしいわけで。

いわれなき不機嫌であればなおのことです。

不機嫌をぶつけてくる人のいいなりになってしまうのは逆効果。

その方法が通用すると思えば、また同じことを繰り返されます。

じゃあどうすればよいのか?

これはもう、相手によりけりなので、こうすればOK!

というような対処法はないですね。

「どうしてそんなに機嫌が悪いの?」とふつうに訊ねることで、

ハタと自分の機嫌の悪さに気づいて反省してくれる人ならばいいけれど、

そう訊ねることで、火に油を注いだようになってしまう人もいます。

そっとしておくしかない場合もあれば、気分転換でなんとかなる場合もある。

そのあたりのことは、ほんとにケースバイケースです。

 

が、機嫌を悪くすることで相手をコントロールしようとする人とは、

距離を取れるのであれば、取っていったほうがいいと思うんですよ。

相手の機嫌に右往左往して、消耗してしまうなんてのは、

ハッキリ申しましてですね、ムダです。人生のムダ。

家族や、仕事関係など、縁を切ることのできない相手がそうであるならば、

そこはもう気持ちの中で距離を取っていくしかないと思います。

「ああ、なんて幼稚な人だろうか」

「自分の不機嫌を通すことで、相手を言いなりにさせようなんて、カッコ悪ぅ」

と心中で思っておいていいでしょう。

 

そしてなにより大事なのは、自分がそういう人にならないことですよね。

不愉快は不愉快を呼んでくるし、愉快は愉快を招きます。

上機嫌な人の周りには、不機嫌な人は寄って来にくいはず。

いつも上機嫌であるということは人間として上質なんだ、

と胸を張って、笑顔で機嫌よく生きていきましょう。

7月の京都

七夕からもう2日も経ってしまいました。

今年は梅雨入りが遅かったせいか、まだ気温もそれほど上がらず、

例年の七夕の時季の気候ではないですね。

一昨日はきっと星は出ないだろうなあと思っていたのですが、

夜は雲が切れて、少しですが、星も見えました。

 

占庭は、2011年7月7日に前の店舗でオープンしましたので、

それ以来、七夕は振り返りの日であり、感謝の日となりました。

丸8年が過ぎ、9年目に入ったということなんですよね。

もうそんなに経ったのか~ と毎年思います。

ほんとうにありがたいことですね。

とにかく健康でなければ続けられないので、これからも体調に気をつけながら、

キャパオーバーにならないようペース配分もし、細く長くやっていきたいです。

 

暑さがそれほどでもないのでうっかり忘れそうになりますが、

京都の7月は祇園祭月間です。

前祭(さきまつり)の山鉾巡行は来週、後祭(あとまつり)は再来週になります。

去年はめちゃくちゃ暑い巡行だったんですよねー

あまりの酷暑に、花傘巡行が中止になったほどで。

そう思うと、やっぱり今年の夏は遅いですねぇ。

 

鉾建ては明日、10(水)から、山建ては12(金)から始まるそうです。

巡行以外にも、見どころはたくさんあるのが祇園祭

日中に見て回ったりするには、涼しい今年は絶好のチャンスかも。

 

また、鱧のシーズンにも入っています。

わたしはほんとにおいしい鱧の湯引きに、まだ遭遇していません。

というか、高級な鱧を食べたことがない、ってことなんですけどね。

以前、占庭のお隣のビルに入っているお店で頼んだフィッシュ&チップスの

白身フライが鱧で、なんて贅沢なフィッシュ&チップスだろうか、

って思ったんですけど、これはおいしかったです。

でも、鱧料理としては邪道なのかもしれませんね。

 

真夏の京都は過酷ですが、まだ、いまのところ観光もできる気温です。

どうぞ祇園祭を楽しみにいらしてください。

不安とともに生きていく、ということー『京大変人講座』より

今日は本格的な雨降り。

こんだけ降ったら出かけるのイヤになるよなあ、とは思うけれど、

予約のお客さまが連絡なく来られないのは困ってしまいます。

ご予約を頂戴していたため、同じ時間を希望された方を二人お断りした後なので、

余計につらい。

予め、時間をかけて命式を作っているので、キャンセルはガックリくるんですよー

ご都合が悪くなって日時を変更していただくのは、全然問題ないので、

ちょこっと連絡してくださったらなあ~ と思ってしまいます。

キャンセルの連絡をしにくい気持ちもわかるんですけどね。

と、愚痴をこぼしまして、すみません。

 

先日『京大変人講座』という本を読んでいました。

目次を紹介しますと、こんな感じ。

1 地球の教室
 毒ガスに満ちた「奇妙な惑星」へようこそ
 ー学校では教えてくれない! 恐怖の「地球46億年史」

2 経営の教室
 なぜ鮨屋のおやじは怒っているのか
 ー「お客さまは神さま」ではない!

3 法哲学の教室
 人間は”おおざっぱ”がちょうどいい
 ー安心、安全が人類を滅ぼす

4 社会デザインの教室
 なぜ、遠足のおやつは”300円以内”なのか
 ー人は「不便」じゃないと萌えない

5 生物の教室
 ズルい生き物、ヘンな生き物
 ー”単細胞生物”から、進化の極みが見えてくる

6予測の教室
 「ぼちぼち」という最強の生存戦略
 ー未来はわからないけど、なるようになっている

 

ね、おもしろそうでしょ?

酒井 敏, 小木曽 哲, 山内 裕, 那須 耕介, 川上 浩司, 神川 龍馬 の6人の先生が、

1章ずつ書いてらっしゃいます。

京大で、誰でも聴講できる「京大変人講座」(無料)が開かれていると知り、

一度行ってみたいなあと思っていたところに本が出まして、

これを読んで、ますます行ってみたくなりました。

どのお話も、難しい研究を噛み砕いて説明されていて、とてもおもしろかったです。

この先生のお話、もっと聴いてみたいなあ、という方もあれば、

この先生のお話は、ちょっと納得いかないところがあるなあという方もあり。

もちろん難解な部分もあるわけですが、それらを生活レベルで考えればどうなのか、

というところへもってきて語られるので、非常にフレンドリーかつフランクです。

エラそうな先生はひとりもおられません。(ここ重要)

いろいろと腑に落ちるところがあったのですが、一番、心に響いたのはココ。

 

「不安とともに生きていく『耐性』こそがワクワクしながら生きるための秘訣」

 

これは法哲学の章に書かれていました。

「”国や企業に丸投げ思考”は、かえって危ないのでやめておこう」

「法律をバカ正直に守るのが”善”ではない」

「『本当に心配すべきこと』を選ぶ目を持つ」

「私たちが考えるべきは、未来が予測と違う方向へ転がりはじめたとき、起きたことをどう受け止めるかについてです。」

「予測と違う現実になったことへの不安を受け入れた瞬間に、それがおもしろく楽しいものに転じる可能性が生まれてくることを、忘れないでください。」

 

まさに、まさに。おっしゃる通り。

これらのことは、法とか、哲学とかっていうよりも、

現実的な気の持ちようへの指南でもあります。

いいなあ。那須先生、好きになりました。

 

占いでお話を聞いていても、この「不安」とのつき合い方というのは、

生きていく上でとても重要で、それによって生活の質まで変わるほどではないか、

と思うくらいです。

不安におびえ、不安を解消するために人生の大半を費やす人だっておられます。

不安というのは、その人その人の心が生み出すものなので、

他人が解消できるものではないんですよね。

不安を恐れる人ほど、なぜか次から次へと自ら不安を作り出されます。

そして、思い悩み、自分を追い詰め、不安でいっぱいになる自分を持て余す、

というループをぐるぐる延々と続けることになっていきます。

そして、誰かや何かに依存してしまったり、投げやりになってしまったりして、

ますます、つらくしんどい状況へとはまってしまう。

こういう方、どうすればラクになっていけるんだろう、

とずっと考えていましたが、この「耐性」という言葉で腑に落ちました。

人は生きていれば、不安が発生するのは当たり前のこと。

不安をひとつ解消してほっとしても、また次なる不安は必ず生まれるわけで、

要するに、共生していくしかない、ってことなんですね。

誰だって、いつだって、人間は不安を抱えながら生きていかねばしょうがないんだ、

と覚悟を決めれば、案外この「耐性」はできていくのではないでしょうかねー

 

 なんてことをですね、本を読みながら考えていました。

 この本は、まったく知らなかった新しい知識を教えてもらえる面と、

なんとなく感じていたことを理論として明らかにしてもらえる面とがあって、

読書の愉しみを満喫できました。

 

知的な刺激を受けることで、ただいま直ちに考える必要はまったくないものを

つらつらとひとりで考え続けるってことは、非生産の極みみたいなもんですが、

実は非常に豊穣でねぇ、心が満ち足ります。

でも、ほとんどが、ムダな時間であり、無用な思考なんですよ。

ただの自己満足です。

けど、だから贅沢ってことでもあるわけで、読書はやめられません。

幸せなら手をたたこう

昨日の夕方はゲリラ雷雨がありました。

関西は、まだ梅雨入りもしてないのに、真夏のような猛烈な夕立で。

天気予報を見てると、来週の半ば以降に、梅雨に入っていくのかしら。

6月もあと一週間。

7月に入れば祇園祭ですしね。

なんか、気持ちだけが夏へ夏へと、せわしないことです。

 

京都で占いの店を開き、通うようになって思ったのが、

「京都って、和服姿の人が、こんなに歩いてはるんや」でした。

観光客の人たちのレンタル着物は、和服というよりはキモノという感じで、

とてもカジュアルなかわいらしさがあります。

一方、大人な女性がまとう、お召し物って感じの、

いかにも高級そうな和装も素敵なんですよ。

帯にも季節を取り入れてあって、ため息が出るような美しさ。

そういう和服姿の方を見てて感じるのは、洋装とは組み合わせや、

色の配分がまったく違うってことです。

 

着物と帯は、だいたい柄もの同士。

柄 on 柄なんですね。

洋服で、トップスとボトムスを柄 on 柄で合わせるのは難しいし、

それはかなりな冒険にもなります。

けれども、和装だと、それが当たり前なんですよ。

 この柄に、その柄ですか? 

 この色に、その色を重ねるの?

と驚くような組み合わせがたくさんあります。

洋服だったらあり得ないことが、和服ではOKなんですね。

いくらでもモダンにできるし、いっそ洋服よりも自由なんですよ。

そこがおもしろいなあ、と思って見ています。

とてもたのしい。

 

朝ドラとかで、50年前くらいの服装を見ると、これが結構、柄 on 柄。

色使いもビビッドで、現在よりも、着物の組み合わせに近いんじゃないか、

と思うくらいで。

一周回って、そろそろサイケなファッションがいつか戻ってくるかもなあ。

 

ファッションとは全然関係ないんですけど、偶然、50年以上前のこの曲、

幸せなら手をたたこう」の歌詞をあらためて読んでみたら、

なんかこれ、すごくない? って思ったんですよ。

東京オリンピックの年に大ヒットしたんだそうです。

 

幸せなら手をたたこう

きむら・りひと作詞/スペイン民謡


幸せなら 手をたたこう
幸せなら 手をたたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 手をたたこう

幸せなら 足ならそう
幸せなら 足ならそう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 足ならそう

幸せなら 肩たたこう
幸せなら 肩たたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 肩たたこう

幸せなら ほっぺたたこう
幸せなら ほっぺたたこう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで ほっぺたたこう

幸せなら ウィンクしよう
幸せなら ウィンクしよう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで ウィンクしよう

幸せなら 指ならそう
幸せなら 指ならそう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 指ならそう

幸せなら 泣きましょう
幸せなら 泣きましょう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 泣きましょう

幸せなら 笑いましょう
幸せなら 笑いましょう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 笑いましょう

幸せなら 手をつなごう
幸せなら 手をつなごう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 手をつなごう

幸せなら とび上がろう
幸せなら とび上がろう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで とび上がろう

幸せなら 相づち打とう
幸せなら 相づち打とう
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 相づち打とう

幸せなら 最初から
幸せなら 最初から
幸せなら 態度でしめそうよ
ほら みんなで 最初から

www.mahoroba.ne.jp

 

子どものころは、歌詞に合わせて手をたたいたり、足をならしたりして、

ただ陽気にうたうだけで、その意味なんて全然考えたことなかったんですが、

いま読んでみると「幸せなら態度でしめそうよ」というところが、

なんか胸にズシンときます。

 

幸せを態度でしめす、って、意識したことありますか?

幸せは、つかんでおけるものではないし、自慢するのは憚られます。

そういう不確かなもの、ごくごく私的な感情は、

そっと胸の内におくものだと思っている人のほうが多いと思うんですよ。

けれども、だからこそ、態度でしめすことも大事なんじゃないか、

って気づかされます。

 

実はこの歌詞は、聖書にある言葉なのだそうですよ。

そして、こんな思いもこめられていたんですね。

www.keisen.ac.jp

 

 これを読むと、この曲がまったく違う印象になりますね。

他人の評価は気になるけれど、評価だけする他人は何もしてくれない

昨日は6月9日で、ロックの日

この日はわたしが関西へと引っ越してきた日でありまして、

毎年、もう〇年経ったのか~ と振り返ります。

そして、14年目に入りまして、また一年、つつがなく暮らしていけたらなあ、

と思っています。

ちょうどこの時季、いつも松の木がすごいことになっているんですよ。

松は常緑樹なので、年中同じ姿をしているように思われるかもしれませんが、

この時季、びゅうびゅう、ぐんぐんと雌花が天に向かって伸びていてですね、

その力強さたるや、獰猛なほどの生命力を感じます。

いやもう、そらすごい勢いがありますので、一度見てみてください。

びゅうびゅう伸びている部分が、雌花なのか雄花なのか知りたくて、

ネット検索したら、松ぼっくりでジャムが作れる、

というサイトを発見しまして、うっそ~! と見てみましたら、ウソじゃなかった。

松ぼっくりでジャム! 

そんな発想すらなかったです。

作り方も詳しく載っていました。

 zazamushi.net

 

www.nekochawan.com

うーーん。

作ってみたい! とまでは思えないかなあ・・・・。

松ヤニと格闘するのがイヤかも。 (そこ?)

作ったことあるよ、という方がおられましたら、感想をぜひお聞きしたいです。

 

さて、本題に入りますね。(ここまでが長いわ)

先日、こんなツイートを見かけました。

 終わってしまった世界 @benzo_z


引きこもりに足りないのは一歩踏み出す覚悟とかみんな言ってるけど、本当は「惨めに生きる覚悟」なんだよな。自分のプライドと現実の評価が乖離した状態から逃避してるのが本質なんだから、どうあったって惨めなんだよ。それを分かった上でみんな軽々しく言ってるのかな、ぼくは残酷だと思うけど

 

この「自分のプライドと現実の評価が乖離した状態」というのは、

引きこもっている人に限らず、苦しんでいる人は多いです。

自分がこうありたいと思っている自分と、世間や他人の評価との差異、

とも言い換えられると思います。

その呪縛に絡め捕られてしまうと、価値観がヘンな形で固まってしまいます。

 

 「呪縛」という言葉の意味は、

まじないをかけて動けないようにすること。また、心理的に人の自由を奪うこと。

です。

そう。「自由を奪う」んですよ。

みんな、気軽に自分のなかの「常識」や、自分の経験則で話をするものです。

他人によかれと思ってアドバイスすることや、何気なく言ったことで、

無自覚に誰かを苦しめていたり、貶めていたりすることがあるかもしれません。

中には、マウンティングしたいだけ、お説教したいだけ、

という人がいたりするので困ります。

けれども、だれもが知らず知らずにしているかもしれないことでもあります。

もしかしたら、わたしもしているのかもしれない、

という恐れは常に持っていなければ、と思っています。

 

逆に、誰かの呪縛にかけられないように、

「自分は自分」であることを忘れないように、とも思っています。

 

世間や他人はいろいろ言ったり、圧力をかけてきたりはしますが、

じゃあ、何かしてくれるのか、というと、そこは「自分でやれ」なんですよね。

ものすごく無責任です。

そんな無責任な発言者の影響なんて受けたくないですよねぇ。

 

人の評価を気にし過ぎていると、この「自分は自分」の「自分」の部分が

わからなくなってきます。

わからなくなると、つい他人からのジャッジや、

一般的な常識で自分の位置を測ろうとしてしまうんですね。

そうすると、どんどんブレてきます。

だって、測るものさしがバラバラなんですから。

望ましいのは、自分のものさしを持ち、そこを基準にして、

他人のものさしとも照合しながら、納得のいく軌道修正をしていく、ですね。

どちらかだけにならないことと、基本はあくまで自分のものさし、

というところが大事。

 

自分がしたことは自分に返ってくるのだし、やっぱり自分で考えて選んで、

落とし前もつけていかないと、ですよね。

自分で引き受けられる範囲のことは、自分の自由な判断でよいはずです。

その範囲がだんだんと広くなれば、器も大きくなっていくだろうし、

寛容にもなれるのでしょう。

 

最初は小さくていいんです。

小さな範囲を責任を持つ覚悟で引き受けて、そこは自由に決めて行動していく。

その繰り返しが自信につながったり、自分なりの価値観がつくられていったり、

ということになっていくのだと思います。

 

「周りがどう思っているのか気になります」と話される方はとても多いです。

周りにどう思われるか心配されるよりも

自分はどうありたいか、をお考えになるといいかな、と思います。

「こんな人でありたい」と思うのは、それこそ自分の勝手。

他人のジャッジはいれなくていい。

まずはそこから自由になっていきしょう。

他人からよい評価を得るためだけにがんばり続ける人生なんて、

つらすぎるし、つまらなすぎますもんね。