京都 四条高倉の占庭から

「数学の贈り物」森田真生著 感想文

久し振りのカテゴリ「読書」です。

いつもは、ずいぶん前に読んだ本の感想をUPしているのですが、

今回は今年3月に発行されたばかりの作品、そして読みたてほやほやです。

 

著者の森田真生さんについては、SNSで流れてくる情報の中で知っていて、

京都在住ということもあり、どういう方で、どんなことを書いてらっしゃるのか、

興味を持っていました。

数学の研究者の著作を読んだところで、果たしてわたしに理解できるのか、

そもそも読み切れるのか、、、、

というところで、ぐぐっとブレーキがかかっていたのですが、

随筆集ということで、読んでみようと思ったのでした。

 

158頁と、コンパクトな本なんですよ。

サラっと読めると思ったのが大間違い。

 

帯に、

「独立研究者として、
 子の親として、
 一人の人間として
 ひとつの生命体が
 渾身で放った、
 清冽なる19篇。
 著者初の随筆集。」

と書かれていたのですが、まさに「ひとつの生命体」であり、「渾身」であり、

「清冽」でありました。

 

34歳の若いパパでもある森田さんは、在野の研究者です。

数学の研究者が、在野で? いったいどういう形でお仕事をされ、

それでどのように生活をしてらっしゃるのだろう。

とそのあたりの下世話な興味が先走ってしまったワタクシ。

けれども、読み進める内に、そういうレベルの低いハナシちゃうねんな、

と汚れてしまった己を浄められるような気持ちになっていきました。

ええ、数学の話で。

 

なんかね、ヘンなやっかみも持たれそうでしょ。

そんなに若くして、家庭もあって、それで独自の研究をしていける、

ってなんだかとってもうらやましい。

きっと、ひたすらお勉強ばっかりしてきた、特別な頭脳の人なんでしょ。

むしろ特殊っていうか。

みたいなところで、庶民はバランスを取ろうとしちゃったりするし。

ところが、中高はバスケ漬けだったとか、帰国子女でバイリンガルだとか、

お写真を見ると、さわやかな美丈夫でらして、家事育児にも意欲的。

とくると、あまりにもスキなく完璧で、恐れ入ってしまいました。

しかも、オレってすごく頭がいいから、とか、キミたちとは違うから、

的なニオイがまったくない。

まっすぐに、真摯に生きてらっしゃる。

すごい34歳だなあ。ただもう尊敬するしかないです。

 

肝心の内容ですが、一般的な「数学」について語られているのではありません。

むしろ、哲学に近い。

数学で道徳や、規範を読み解こうとされています。

難しい。

その圧倒的な知力の格差に打ちひしがれながらも丁寧に読んでいけば、

おもしろく読んでいけます。(ほんとうに理解できているかは別として)

なるほど、と思うところ、子どもを持つ親として痛いくらい気持ちがわかるところ、

ああ、このように子どもの勉強に寄り添ってやればよかったな、と反省するところ、

いろいろありました。

日常を語りながら、数学を語りながら、ひとが生きていく意味や目的など、

精神の深淵を垣間見たような気持ちになります。

ええ、とても深い深い。

 

フランスの哲学者 フランソワ・ジュリアンさんとパリで公開対話をされたのですが、そのジュリアンさんの著作に触発された思いをこのように書いてらっしゃいました。
(以下抜粋)

 

 彼はこの本のなかで、「普遍」概念が形づくられてきたヨーロッパ固有の歴史を描き、「普遍」と似て非なる概念として、現代の世界に「画一的なもの」や「共通のもの」が蔓延している状況を浮き彫りにしていく。画一性の暴力に屈するのでもなく、狭隘な共通性に逃げ込むのでもない、第三の道を模索するために、彼は「普遍」の概念を再活性化していこうとする。そこで彼が提案する「普遍化可能であること」と「普遍化すること」の区別に刺激されて、僕は数学史における「普遍」について、再考をはじめることになった(この後の一連の思考は『新潮』2018年7月号に論考「『普遍』の研究」として寄稿した)。

 

難しいけれども、まったくわからないということはない。

考えていること、感じていることの表現方法や、

アプローチの手法がちがうということなんですね。

そして、それがふつうの思考の遥か高みにある、ということで。

そういう次元に触れられることも、読書の愉しみのひとつだなと思います。

それぞれのレベルで感じたり、考えたりすればいいのだし。

と、いまの世の中のあれこれにくたびれているこころと頭に染みわたりました。

こんな「癒し」もあるのだなあ、と新しい発見をした気分です。