京都 四条高倉の占庭から

不機嫌で相手を支配すること

昨日の京都は、祇園祭の前祭(さきまつり)の山鉾巡行でありました。

巡行の日がまだ梅雨明けしていないということはよくあって、

雨の中での巡行も珍しくないのですが、昨日は雨はまぬかれ、

昨年ほどの酷暑でもなかったようです。

ようです、と申しますのも、昨日は占庭定休日で、京都へ出てこなかったので、

確かなことは言えないなあ、ということで。

また来週の水曜日に後祭(あとまつり)の巡行が行われます。

さて、梅雨明けしてますかねー

 

先月、大好きだった作家の田辺聖子さんがお亡くなりになって、

一番好きな、30年くらい前の作品を読み返しています。

昔の文庫本って、文字が小さくて、行間も狭いんですよね。

いまの文庫本に慣れた目にはなかなか厳しいものがあります。

けれど、それだけぎゅっと詰まっているというわけで、

昔の文庫本は単行本とくらべるとグッと廉価でもあったし、

本当におトクだったんだなあと思いますね。

当時は文庫になるのを待って買っていたので、わたしの本棚は、

いまでもズラリと文庫本が並んでいます。

すっかり紙が茶色く変色してしまっていますけれどね。

 

田辺聖子さんは「機嫌よく生きる」ということを

よく、人間の美点として表現されていました。

若いころは、そこに特別強く共感することなく読んでいたのですが、

だんだんと年を重ねるにつれ、それが人として上質かどうかにもつながるなあ、

と思うようになりました。

 

人間関係のいろんな場面で、機嫌を悪くすることで、

相手をコントロールしようとする人を見かけますよね。

怒鳴ったり、すねたり、泣いたり、わめいたり、無視したり。

それらはみんな、自分の機嫌の悪さを相手にぶつけることで、

 ワタシの機嫌の悪さを思い知れ!

 こんなにもヘソを曲げているワタシの機嫌をどうするつもりだ!

と言うてるようなもんです。

非常にみっともない。

 

自分の機嫌を自分で取ることができないもんだから、

それを周りの人にぶつけて、そっちがなんとかしろ、っていうのは、

どう考えてもおかしいことですよね。

不機嫌をぶつけられる方はたまったもんじゃありません。

けれども、そういう理不尽も、一点の迷いなくされてしまうと、

さもその人の言動が正当で、うまく対処できていないこっちに非があるのかも、

って思ってしまったりするんですよね。

 

でもね、たとえ、こっちの言動に非があったとしてもですよ、

それを不機嫌で表現しようということが、そもそもおかしいわけで。

いわれなき不機嫌であればなおのことです。

不機嫌をぶつけてくる人のいいなりになってしまうのは逆効果。

その方法が通用すると思えば、また同じことを繰り返されます。

じゃあどうすればよいのか?

これはもう、相手によりけりなので、こうすればOK!

というような対処法はないですね。

「どうしてそんなに機嫌が悪いの?」とふつうに訊ねることで、

ハタと自分の機嫌の悪さに気づいて反省してくれる人ならばいいけれど、

そう訊ねることで、火に油を注いだようになってしまう人もいます。

そっとしておくしかない場合もあれば、気分転換でなんとかなる場合もある。

そのあたりのことは、ほんとにケースバイケースです。

 

が、機嫌を悪くすることで相手をコントロールしようとする人とは、

距離を取れるのであれば、取っていったほうがいいと思うんですよ。

相手の機嫌に右往左往して、消耗してしまうなんてのは、

ハッキリ申しましてですね、ムダです。人生のムダ。

家族や、仕事関係など、縁を切ることのできない相手がそうであるならば、

そこはもう気持ちの中で距離を取っていくしかないと思います。

「ああ、なんて幼稚な人だろうか」

「自分の不機嫌を通すことで、相手を言いなりにさせようなんて、カッコ悪ぅ」

と心中で思っておいていいでしょう。

 

そしてなにより大事なのは、自分がそういう人にならないことですよね。

不愉快は不愉快を呼んでくるし、愉快は愉快を招きます。

上機嫌な人の周りには、不機嫌な人は寄って来にくいはず。

いつも上機嫌であるということは人間として上質なんだ、

と胸を張って、笑顔で機嫌よく生きていきましょう。