京都 四条高倉の占庭から

リーディングに「正解」はないのです

今朝、四条通を歩いていましたら、御旅所のとこにこんな貼り紙がありました。

 

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もうお正月のバイトの募集を始めてはるんですねぇ。

けれども、9月ももう10日を過ぎまして、

そろそろ来年の手帳やらカレンダーやらが店頭に並ぶ頃でもありますもんね。

 

そうそう、巫女さんは女性の求人でしたが、男子学生のアルバイトもありました。

こちらはツイッターで流れてきたものですが、9月23日なので、近々です。

www.seimeijinja.jp

 

京都には、こういう神社に関わるアルバイトがけっこうあって、

学生さんは珍しい経験ができていいなと思います。

 

ツイッターといえば、こちらも今朝、目にしたものです。

 

勘で占う事を否定しませんし、全然勉強してないのにバシバシ読めますよって人もいるのでしょうけれど、ちゃんと勉強すれば占えるようになるのがタロットです。

 

おっしゃっていること、すごくよくわかります。

そうなんですよね。

タロット占いって、カードがちょっと神秘的な絵柄だったりして、

オカルトチックに捉えられる向きもあるかもしれませんが、

霊感がなくても、勉強すれば、だれでも占うことができるものなんです。

 

ちょこっと占えるようになりたい、くらいであれば、それほど長くはかかりません。

ただ、タロット占いというのは、奥が深くて、勉強しようと思えば、

どこまでも深く広がっていくので、究めるには相当の年月が必要です。

どのあたりでヨシとするかは、人それぞれですし、

タロットとのつき合い方も人それぞれです。

 

タロット占いで一番難しいのは、引いたカードを読んでいくことです。

それをリーディングというのですが、これには「正解」がありません。

正解がないというよりは、正解はだれにもわからない、というところでしょうか。

時を経て、答え合わせをしていくしかないのです。

その答え合わせしたものと、先のリーディングがどの程度合致しているか、

が、読み手の力量ということになります。

 

占いというのは「あなたはこうなります」という「予言」ではありません。

「こんな運気が来ていますよ」とか、

「カードはこんなメッセージを送ってくれていますね」とか、

手相や人相からわかるものを伝えていくなど、

「正解」のハッキリしないものを読み解いていくことが、

「占う」ということなのですね。

 

タロット占いは、たまたま並んだカードを読んでいく、という偶然性が醍醐味です。

リーディングしている時に、ハッキリした確かな手応えのようなものはありません。

ゲストに結果を伝えるときにも、「正解」だと信じて話しているわけではないです。

あ、これはあくまでわたしの場合は、ですけれど。

しっかり読み取れる部分、曖昧な部分がないまぜになった状態を

できるだけ誠実に、憶測や先入観を交えずにお伝えしていきます。

なので、

「カードによると、どうもこういう感じのようですよ」

というお話のしかたになります。

わたし自身が、占いの結果を見て、へぇ~ そうなんだあ、

と思っていたりもします。

 

何それ、随分と無責任な占いね、と思われるかもしれませんが、

占いという、そもそも不確かな、正解がないものとのつき合い方としては、

このタロット占いのスタンスが、案外ベストなんじゃないかと思いもするのです。

天災の夏

昨日は大型台風襲来で、臨時休業させていただきました。

ほんとうに恐ろしい台風でした。

被害に遭われたみなさま、お見舞い申し上げます。

まだ停電中というところもおありかと思います。

早く復旧されるとよいのですけれど。

 

占庭は、遠方からご予約を頂戴していたのですが、電車も停まってしまい、

わたし自身が占庭までたどり着けない or 家に帰れないという状況で、

お店を開けられず、申し訳ないことでした。

ほかのお客さまは、日程を変更していただくことになり、

みなさまにご迷惑をおかけしてしまいました。

すみませんでした。

 

朝方は日差しもあり、ほんとに大きな台風が来るの?

と肩すかしみたいだったんですよ。

ところが昼ごろからだんだん風が強くなってきて、

午後からはとんでもない風雨になりました。

いままで生きてきて、台風でこんな怖い思いをしたのは初めてです。

マンション住まいなのですが、ベランダ側の窓に雨が叩きつけられ、

なぜか窓の内側にも雨が流れていました。

サッシのレールに水が溜まり、小さなメダカなら飼えそうなくらいになってて、

ビックリ。

窓の下に古タオルを敷いて、バケツに絞って、を繰り返していました。

雨戸がないので、窓が風圧で割れてしまわないか心配なほどで。

家の中にいるしかないのだから、仕事をするなり、本を読むなり、

家事をするなりしていればよさそうなものなのに、

落ち着かなくて、窓の外とテレビのニュースを交互に見ながら過ごしました。

これ、夜中だったらもっと怖かったかもしれません。

 

今朝は、我が家の近所も、倒木、あらゆる飛散物、フェンスや看板の倒壊などで、

通行止めの道もあり、信号はてんでんばらばらな方向を向いてしまっていて、

あちこちで大渋滞でした。

 

京都駅のガラスの天井の一部が崩落した映像も見ました。

風に煽られて横転した車もたくさんあったようですね。

なるべく外出せず、家にいなさい、ってことはこういうことなんや、

って、そんな当たり前なことを初めて思い知った気持ちです。

そんな日であっても夕刊は配達されていました。

救急消防、インフラ関係のお仕事の方など、災害時でも、いえ災害時こそ

緊急出動を求められるわけで、ほんとに大変なお仕事だなと思いますね。

そういうのって、自分自身が身の危険を感じないと、

実感としてわかってないところもあって。

今年は、地震、大雨、酷暑、台風と、そう感じることばかりが続いています。

平成30年の夏は天災だらけだった、という記憶がくっきりと残りそうです。

『歴史が語る 恋の嵐』 いつの世も どのひとも

八月晦日

今月は、なんだかいつも時間に追われていたような気がします。

占庭も忙しかったし、人ともたくさん会ったし。

めちゃくちゃに暑い夏でしたよね。

そこここで「平成最後の夏」っていう言葉をゲップが出るほど見た夏でした。

 

明日から9月。

まだまだ暑そうですが、10月、11月のご予約も続々と入ってきています。

そう、京都は秋の観光シーズンに向かっているってことですね。

 

数日前、占庭のお客さまでもある知人と、恋愛について話しました。

恋愛についてというよりは、恋愛観、夫婦観についてかな。

わたしは仕事柄、いろんな恋愛のお話、夫婦像についてもお聴きしています。

たくさん聴いているんだから、あるべき姿、理想的な関係みたいなものが、

あなたのなかにはあるんでしょ、と思われるかもしれませんが、逆ですね。

どんどんちがう形が増えていくばかりで、まとまってはいかないんですよ。

でも、ま、そりゃそうですよね。

ひとりひとり愛の形はちがうし、望む愛もまちまちなんですもん。

 

というわけで、久し振りのカテゴリ「読書」も、恋愛です。

 

『歴史が語る 恋の嵐』中野京子

 

これね、すごーくおもしろかったです。

だけど、どれも短すぎるのがとても残念で。

14歳の大納言久我雅忠の女二条から、66歳のマルグリット・デュラスまで

24人の女性たちの恋が紹介されています。 

名前すら聞いたことがない人もあるし、名前だけ知ってる人や、

よくよく知ってるつもりでも、その人と「恋」がどうにも結びつかないんですけどー

なんて人も。 

そりゃ、キュリー夫人や、アガサ・クリスティだって恋したことはあるに

決まってるんだけど、そこへなかなかフォーカスされることはないですよねぇ。 

おもしろい! 

もっと知りたい! 

と思うのに、数ページでさらっと完結してしまうのが、実に残念でした。 

どの抄も頭に恋愛に関する箴言が記されています。 

鋭いです。

こころに響いたものをいくつか残しておきますね。



 愛されているという驚きほど、神秘なものはない。 
 それはいわば肩に触れる神の指だ。 
 (チャールズ・モルガン) 


 人生最大の幸福は愛されること、 
 それも自分が自分であるゆえに愛される、 
 いやむしろ、こんな自分にもかかわらず愛される、 
 そう信じられることである。 
 (ユゴー) 


 つづけばいいのか。 
 いっときの燃焼が、なぜ持続に劣るのか。 
 (ロラン・バルト) 


 恋愛は人生の花であります。 
 いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。 
 (坂口安吾) 


ここまでは恋愛賛歌的なのだけど、

これはどういう経緯で生まれたものなのか・・・? 

 妻に最初の愛人ができるのは、まちがいなく夫の責任だ。 
 (ドストエフスキー) 
   

ドストエフスキー、、、、 

 

(2014/8/16)

貧乏の基準は親ゆずり

四条通の地下道で、こんな写真展が開催されています。

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こんな感じで、西側の柳馬場あたりから藤井大丸の手前くらいまで続いています。

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けっこう、長距離にわたって、たくさんの写真が展示されていて、

とても興味深いです。

京都で生まれ育った方であれば、より楽しめるのではないかと思います。

 

大丸京都店の東隣の新しいビルの1階に、こちらがオープンするらしいです。

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四条高倉の角っこです。

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なんかココだけね、えらいスタイリッシュなんですよ。

いかにもアップルらしい感じ。

 

そのプロモーションなんだと思うんですけど、地下道までこんな風に。

(もしかしたら、ずっとこのままなのかも)

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と、最近、通勤路が変化に富んでいるのでした。

 

さて、お盆休みも今日くらいまででしょうか。

お子さんの夏休みもあと2週間くらいですね。

わたしが母子家庭で子育てしていたころ、小学校に学童保育がなかったので、

ウチの子は、夏休みはもう退屈で退屈でしょうがない様子で、

早く夏休みが終わってほしいと訴えていました。

ひとりで朝から夕方まで過ごすのが40日ともなると、そりゃ飽きてもきますよね。

あまり友だちと遊ばず、ほぼひとりで遊んでいたので余計です。

小学生がひとりで留守番している家に遊びにいかせるのは、ちょっとなあ、

と思われる親御さんもおられますしね。

 

そんな子どもでしたが、たまには友だちが遊びに来ることもありました。

小学2,3年生のころだったでしょうか。

ある日、仕事を終えて家に帰り、夕飯を食べているときに、

「なあ、母さん、ビンボウって何?」と訊いてきたのです。実に屈託なく。

よく話を聞いてみると、友だちが遊びに来たときに、

ウチの窓がガラリと開けてあったのを見て、

「お前ん家は貧乏じゃけぇ窓にカギをかけとかんでも、

 ドロボウも入らんのじゃろ」(これ、岡山弁です)

と言ったらしいのです。

その子の家は川を挟んだ向かいにある大企業の社宅で、

我が家はボロボロの市営住宅でした。

ボロボロではありましたが、3棟並んで建っているので人目はあります。

その上、住まいは3階だったので、窓を開けててもなかなか侵入はできません。

 

いや、そういうことではなくて「貧乏」ですよ。

まだ、7つ、8つの子どもの、

「窓にカギをしておかないとドロボウが入る」

「〇〇くんの家は貧乏」

という考えは、大人から聞いた考えに違いありません。

すぐに、その子のお母さんの顔が頭に浮かび、

 ああ、そういうこと言いそう~~~~

とちょっと、笑いそうになりました。

他人にどう思われようと、言われようと、別にどうってことありません。

住んでいる場所で、住んでいる人までを蔑むなんてのは、

その人の品格が知れようというものですしね。

そういう考えの人もいる、ということを子どもに教えるよい機会でもあります。

 

さて、それにしても貧乏です。

貧乏ってなんだろう? と改めて考えてみると、なかなか定義しにくい。

まずは、経済的に苦しい、貧しい、ということであろう、とはわかります。

じゃあ、どの程度苦しいのが「貧乏」クラスなのか?

これ、難しいです。

その時、息子にはこう説明しました。

「貧乏ってな、お米が買えなくてゴハンが食べられないとか、

 学校で必要なものが買えないとか、住むところがないとか、

 生きていくのがとても苦しいことをいうんよ」と。

いま思うと、わたしの貧乏の定義は、かなり底辺ですね。

それを聞いた息子は、

「じゃあ、ボクとこは貧乏じゃないな」

と、ケロリとしていました。

わたしは心のなかで「いや、ふつうよりはだいぶ貧乏やけどな」

とは思ったんですけど、言わずにおきました。

 

その件で、親の価値観がどれほど子どもにストレートに影響するのかを

まざまざと知ることとなったので、自分はどうなのか? と省みました。

親の価値観を絶対として子どもに押しつけてしまってはいないかな、って。

ある程度は親がヨシとする価値観を植えつけることになるのはしょうがないです。

育てるってそういうことでもあるし、環境にも左右されます。

けれど、子ども自身が感じたり、考えたり、選んだり、疑ったりする余白を

残しておくことは大事なことなんですよね。

 

この「貧乏」というワードですが、それから約10年後、

息子の愛読書となった山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』のなかでの

貧乏という試練は甘んじて受けるが、貧乏臭いのはお断りなのだ。

という一節で再会することになります。

「貧乏はいいが、貧乏くさいのはいかん」っていう意味なんですね。

わたしもこの小説が大好きで、親子共々、強いシンパシーを感じました。

この一文が、わたしたちを10年越しの「貧乏」という言葉から、

サッパリと解き放ってくれたように思います。

ですので、この小説にはとても感謝しているのです。

クラウドファンディングだらけ

また、最高気温37℃とか38℃なんてのが戻ってきました。

昨日はゲリラ雷雨があったのですが、その打ち水効果なんて、ほんのいっとき。

立秋を過ぎてなお、暑さ厳しい京都です。

今朝は出勤前に知恩院さんにお参りしてきました。

いつも三門前からシャトルバスに乗せてもらうのですが、

今日はお盆ということもあり、大きめのシャトルバスになっていました。

乗り込む人も家族連れが多かったです。

納骨堂前のお線香も、お花もいっぱいでした。

お池には蓮の花が。

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明後日はもう送り火なんですねぇ。

日中はまだまだ真夏ですが、夜は虫の音が聞こえるようになりました。

いつの間にか夏も終盤へと向かっているようです。

 

今日はクラウドファンディングについて、ちょっと気になっていることを。

ここでいうクラウドファンディングは寄付型についてです。

金銭リターンのある投資型のものは除きます。

 

いままで、いくつかのクラウドファンディングを支援してきました。

ほんの少額なので、支援というよりかは、協力とか応援って感じですね。

それらは、ぜひ応援したい! と思えるものであるということと、

そういう資金調達の方法がベストだろうなと納得できるものだったからです。

リターンが魅力的だから、という理由ではなく、

むしろリターンは別にいいんだけど、っていうくらいの気持ちでやってきました。

というか、そういう気持ちにならないと、たとえ少額であっても、

いや、少額だからこそ、お金を出す、という行為には至らない、

ってことなのだと思います。

たとえ知人がクラウドファンディングで出資を募っていても、

おつき合いで出資しとこか、とはならない。

その内容や方向性にそれだけの説得力がないとダメなんですよねぇ。

 

事業の資金を集めるための場合、金融機関等で借り入れするのではなく、

クラウドファンディングのほうが適切である、という説得力が欲しいです。

なぜ投資型でなく、寄付型にしたのかという納得できる説明も。

なんかさー それ、安易に他人の好意に期待してないかい? 

と感じてしまうものは、やっぱりムリですもん。

 

個人の夢や計画を実現させるための場合は、

それがその人だけのヨロコビで終わってしまうものなら意味がないですよね。

社会へ向けて応援を呼びかけるなら、社会へ還元できるものでないとなあ、

と思ってしまいます。

 

昔の貴族や豪商、サロンの女王のようなパトロンと、

クラウドファンディングの出資者はスタンスがまったく違います。

余りかえっている資金をお気に入りに与えるというのじゃないですもんね。

いやいや、なかにはそういう豪気な出資者もあるのかもしれませんけれども、

そういう人はちがうステージにいるのではないかと思ってしまいます。

ま、わたしの勝手なイメージですけど。

 

クラウドファンディングの仕組み自体はとてもいいものだと思っているんですよ。

すごくいいセンスやアイデアはあるのにどうしても資金調達の道がないとか、

志のある人などが、夢を形にしていけるわけですしね。

ただ、だれでもが参加できるということは、玉石混交ってことでもあるので、

そこを見極める目が必要になると思うんですよ。

そのあたりがうまく淘汰されて、いいものが残っていけばいいですね。

そういういい状態にしていくには、出資を募る側の人格や能力よりも、

出資する側の人の、見抜き、選ぶ力量にかかっているのかもしれません。

出資する側のほうが、うんと多数でもあるので。

「ヤギの人」さんのツイートを拝借します

先日、友人が、

「みゆきさんとこ、いろんな人が来はるやろ~」

とプレゼントしてくれたのがこれ。

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へぇ~ この人、おせいさんって名前なんや。

と思ってよくみたら、おいせさんって書いてありました。

そういえばお伊勢さんのお土産なのでした。ハハハ。

 

お浄め塩スプレー/フレグランススプレー

天日で乾燥されたミネラルいっぱいの塩とフランキンセンスローズマリーなど様々な天然エッセンシャルオイルの繊細な優しい香りで、気になるところをお浄めください。香りと浄化を楽しめるフレグランススプレーです。 

ということです。 

ユニークですよねぇ。

ローズマリーの香りがとても好きなので、このお浄め塩スプレーは、

大のお気に入りとなりました。

 

 

さて、今日は久し振りの「拝借シリーズ」です。

ツイッターで目にして、まさに! と膝を打ちました。

 

引用①

 時間前

自分を粗雑に扱うことは、周囲に対して「自分は粗雑に扱っても良い人間です」というメッセージを発してしまう事になる。

所有者が雑に扱うものを、他の人が丁寧に扱うことは基本的に無いからだ。

 

端的に、でもすごくわかりやすく書いてありますよね。

 

 自分が自分をないがしろにしていては、

 誰からも大事に扱われない存在になってしまう 。

 「粗雑に扱ってもらってOKな存在です」と公言しているに等しい。

 

というところでしょうか。

自身を粗雑に扱うというつもりではなく、

謙虚であろうとした結果、そういう態度になってしまっている、

ということもあるかもしれません。

謙虚であるということと、自分を貶めて表すということは混同されがちです。

驕ったり、高慢であったりというのは、みっともないことだし、

他人からも嫌われることなので、ひとは謙虚であろうと意識するのでしょう。

そこで、できれば謙虚なひとだと認識されたい、なんて思ってると、

知らず知らずになんだかおかしなことになってしまっていたりね。

 

謙虚と遠慮はちがうし、自虐はもっとちがいます。

謙虚っていうことばの意味は、

自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること。

なのだそうですよ。

遠慮でも自虐でもないのがよくわかりますよね。

だから、謙虚でありたいがために、謙遜したりへりくだったりするのは、

だいぶズレている、ってのもよくわかります。

そうすると、じゃあ、自分を粗雑に扱わない、ってどういうこと?

となります。難しいです。

 

引用②

自分を大切にする仕方が分からない、ということはある。

そういう時はせめて「雑に扱わないようにしよう」と思うことから始めると良いかも知れない。

 

ここで、大事にされたことのない自分には、どうすればいいのかわからない、

的な反論が出てくることが推定されるわけですが、

今回、それは却下しますよー

考える前に、それを言うたらダメ。

そこはもう想像力をフル回転ですよ。

人間、体験したことしかわからないはずがない。

そして、最初から正解にたどりつかねばならないわけでもないのですし、

とにかく自分なりの思考錯誤をまずはやってみましょう。

 

引用③

どうしてもそう出来ない時はある。

でも少なくとも、そうしたメッセージになってしまうという事は、知っておいたほうが良いのではと思う。

 

そうですよね。

いろいろ考えてみて、想像もしてみて、やってみて、

それでもやっぱりわからない、ってことだってあります。

そういう場合、

 自分にはわからない。できない。

と悲観したりあきらめてしまってはダメ。あきらめたら忘れてしまうもの。

そういうことにつながってしまうのだ、

ということをひとまず、こころに留めおくことが大事なのだと思います。

 

引用④

積極的になるには結構エネルギーがいる。

思い切りも必要だ。

そういう時は「せめてより悪い事は避ける」という消極的な態度に切り替えるのでも良いと思う。

 

防御だって、立派な戦略です。

動かないことで、リスクを回避できることもあります。

その際の気の持ちようが大事、ってことなのだと思うのです。

 

あきらかな自虐や、遠慮ばかりでなく、

「いいんです、いいんです、わたしのことなんかどうだって。

 どうぞお気になさらず~」

みたいなライトなものも含まれると思っておきましょうね。

 

少なくとも、自分自身が納得していること以外、

他者へ向けて自分を軽んじた言動をするのはやめよう。

 

と、まずはそのあたりから意識していきましょかねー 

ご褒美

真夜中から未明にかけ、台風が通り過ぎていきました。

自宅周辺は、雨はそれほどひどくなかったのですが、かなりの暴風で、

その音がすごくて眠れないほどでした。

東から西へと移動する台風なんて初めて。

なんだかすごく違和感があります。

それだけ、お天気は西から変わっていくもの、と刷り込まれてるってことですね。

 

苗場ではちょうど、FUJI ROCK FESTIVAL が開催されてるんですけど、

台風が直撃したわけではないのですが、大嵐になっていたようで、

テントが壊れたり、飛んだり、浸水したりで大変なことになっていたみたいです。

先日の豪雨で、京都大作戦も中止になってしまいましたし、

野外フェスはほんまにお天気頼み。

それが醍醐味でもあるのかもしれませんが、大嵐ではつらすぎますね。

 

台風はいまも西へと進んでいます。

岡山に妹がいるのですが、思ったより静かな様子だということです。

何もないときであれば、これくらいの規模の台風は心配ないのかもしれませんが、

あの豪雨災害の後ですしね。用心の上にも用心をしておかなければ。

 

そんな台風前夜の昨日、うれしいことがありました。

息子が大学でバレーをしていた時の同期の子の結婚式が京都であり、

久し振りに集まったから、ということで、占庭の空き時間にちょこっと、

5人が顔を見せに寄ってくれたんです。

31歳はもう「男の子」とは呼んじゃいけないのかもしれませんが、

9年か、10年振りくらいに会った子たちは、やっぱりかわいくて。

面影があるというよりは、むしろ、あの頃のまんま、って感じでした。

次のお客さまが来られるまでのすき間時間だったので、

大急ぎでそれぞれの近況なんかを聞きまくりました。

時間があれば、ひとりずつ手相を観たり、カード引いたりもできたのですが、

そういう日に限って、たまたま忙しいんですよねぇ。

残念でした。せっかく来てくれたというのに。

 

わたしは教育ママではなかったのですが、スポ根ママみたいなところはあって、

試合を見に行くのが大好きだったんです。

中高大と、ずっとバレー部だった息子の試合は、都合がつく限り、

どこへでも行っていました。

なので、それぞれのチームの同級生は言うに及ばず、先輩、後輩の子たちの名前も、

ほぼみんなわかります。

ずっと試合を見に行っていると、どの子もこの子もかわいくなってきて、

ウチの子もヨソの子もなくなるんですよ。

チームの子たちが愛おしくてしょうがない。

どんなスポーツ観戦よりも楽しみでした。

 

そんな思いをさせてくれた息子に、とても感謝しています。

それはわたしにとって、しあわせな時間であり、季節でした。

そしてこうしてまた、久し振りにみんなの顔を見られて、どれほどうれしかったか~

 

こういうのをほんとに「ご褒美」っていうんやな、と感じたひとときでありました。

みんな、ありがとうね。