京都 四条高倉の占庭から

「心に空っぽのバケツをひとつ」again

昨日、遠方からいらしていただいたお客さまと、ちょうどこの話をしたので、

そうだそうだ、再掲しておこう、と思い立ちましてagain しますね。

 

否応なく愚痴や不満を聞かねばならない場合の奥の手です。

不誠実、不謹慎であるというご意見もあるかと思いますが、

こういうやり方もOKだと、ご自身を責めず、追い詰めずにいられるなら、

結構、これは有効なのではないかと思うのです。

 

kyoto-uraniwa.hatenablog.com

 

読み返してみますと、オリーブの実がつきそうだと喜んでいました。

でも昨年は、途中で干からびてしまったんですよねぇ。

後から友人に聞いたところでは、結実のころは、水をたっぷりとやらないとダメ、

なのだそうで。

オリーブは「乾燥に強い」というイメージがあって、

あまり水をやり過ぎると根腐れするのでは? と思っていたんですよねー

で、今年は、ダバダバ水を与えています。

すると黒サビ病みたいなのが発生してしまって、スプレーを買いに走ったり、

と、相変わらず今年もオリーブの実に翻弄されているのでした。

 

でも、昨年のよりかは大きく育ってきています。

このまま実になってくれるといいなあ~

400円は贅沢か?

京阪電車の特急に1両(6号車)だけ、プレミアムカーという、

グリーン車みたいな座席指定車両が生まれたのが昨年の8月でした。

以来、いつか乗ってみようと思いながら、なかなか機会を得ず。

で、やっと昨日、初めて乗ってみました。

www.keihan.co.jp

 

なにしろ運賃よりもプレミアムカー料金の方が高いので、

いつもの倍以上の出費になるのですから、かなりの贅沢です。

しかーし、その贅沢料400円の価値はありました。

 

運賃よりも高い、というのは、もったいない、と感じてしまうんですけど、

たった400円、と考えると、ささやかな贅沢じゃないか、

とも思えます。

しかも、たまのことですしね。

 

荷物が多かったり、体調などで、どうしても座りたい時は、

空いている各駅停車の準急にするのですが、

時間に余裕のない時は、この特急プレミアムカーはありがたいかも。

あまり贅沢に縁のないわたくしなので、

アテンダントの女性に丁寧にあいさつされたり、

ホームに並んでいる人から見られたり、

というのは、居心地が悪いところもありますが、

お尻の両脇が余るゆったりしたシートに座って、

ほー こんなところにコンセントが、なんてチェックしながら、

用もないのにテーブルも出してみたりして、

400円分のセレブ感を味わってきたのでした。

 

さて、占庭へおいでになった方はご周知のことですが、

うちの占いの見料は30分2500円です。

立地がとてもいいので、心配してくれている友人知人から、

「あの場所でその値段は安すぎるでしょ。値上げしたほうがいいよ」

と、よく言われます。

この値段設定は、大宮中立売の店舗でオープンしたときから変わっていません。

有名占い師でもないんだし、相場よりも安めの設定で、と考えたのと、

ちょっとしたことでも気軽に来ていただけるように、という思いもありました。

学割を設定しているのも同様の考えで。

3年後、四条高倉に移転し、維持費はハネ上がったのですが、

ありがたいことにお客さまも増えてきたので、

いまのところ値上げせずに、なんとか続けることができています。

 

占いのお店で、どれくらいのリピート率が標準なのかはわからないのですが、

占庭のリピーターさんの比率は他所よりかは高いのではないかと思います。

「こんなに頻繁に来るお客なんて、わたしぐらいじゃないですか?」とか、

「しょっちゅう伺って、すみません」とか、

ご予約のお電話で「いつもお世話になっています」とおっしゃる方とか、

もう、なんか恥ずかしいわ~ こんなに度々・・・・

って感じで来られる方がたくさんいらっしゃいます。

すみませんだなんて、とんでもない! ですし、

お世話になってるのはこちらですよ! という話です。

 

なかには占いというよりは、お喋りにいらしてるのかも、

という方も多いのですが、近況をお聞きし、カードを引いたりしながら

いろんな会話をするのがわたしも楽しい。

そうこうしている内に、お客さまの気持ちがスッキリされたり、

ほっとなさることもあるようなのですが、それはわたしの占いの力というよりは、

お客さま自身の気持ちが落ち着かれて、自然に整理できただけなんですよねぇ。

 

それはプロの占い師としてはどうなのか? 

って話なんですけど、そこに見料の価値を感じていただけているのであれば、

それもいいのかな、と思うことにしています。

 

ですのでやっぱり、そういう意味でも、いまの見料のままで、

できるところまで続けていきたいな、と思うわけなのです。

高い見料を頂戴できるほどの立派な占い師ではないし、

という自信のなさもあるけれども(あかんがな)、

このやり方がわたしらしいと思うし、占庭らしくもあるのかな、ということで。

京都芸術花火

6月に入りました。

今月末は、夏越しの祓(なごしのはらえ)です。

京都では、この6月晦日に「水無月」という和菓子をいただいて、

厄落としをします。

わたしはこの水無月が好物でして。(もともと、ういろうが大好き)

6月になれば、あちこちの和菓子屋さんに並ぶので、とてもうれしい。

ああ、京都でお店を開いてよかった! と思えるほどです。

倉敷に住んでいた頃は、まず売っていないので、

甘納豆を使うなどして、自分で蒸して作っていたんですよ。

どんだけ好きなん? ってことですけどね。

しかし、和菓子は季節感があっていいですね。

京都は特に、手づくりの和菓子屋さんがたくさんあってしあわせです。

 

5月30日に、淀にあります京都競馬場へ行ってきました。

お馬ではなく、花火を見に。

その名も「芸術花火」。格調高いでしょ。

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いろんなジャンルの音楽にのせて、それはそれは見事な花火が打ち上げられます。

1時間弱の間に、なんと1万3000発!

しかも、超高級花火が目白押し。

色彩、大きさ、きらびやかさ、形状など、どれをとっても、

ああ、こんなん見たことないわ~~~ 

と、その美しさ、豪華絢爛さに圧倒され、ポカーンと見惚れるばかりでした。

その贅沢さたるやもう、いや~~~ すごかった!!

 

当日は朝から雨の一日で、午後からは上がるかと思っていたら、

夕方まで降り続きました。

わたしはあまり雨に遭わない晴れ女なので、きっと上るだろうと

高をくくっていたので、ええーーー と思っていたのですが、

開演前には、キッチリ雨雲は去りました。さすが、わたし。

 

まずは QUEEN の「I was Born to Love You」で始まりました。

幕開けにぴったりの曲で、ノリノリです。

が、ですね、次々に打ち上げられる華々しい花火を見上げながら、

強烈な違和感も同時に感じていました。

自分のなかの「打ち上げ花火を見る」デフォルトと違いすぎたんですねぇ。

だいたい花火っていうのは、夏祭りに見るものでしょ。

 

日中の暑さにぐったりした夜。

何これ、夜になってもなんでこんなに蒸し暑いん? 勘弁してほしいわー

とか思いながら、汗でベタベタする首筋にうちわで風を送りつつ、

むぅっとした空気の中で、夜空を見上げる。

間近で見られるなんてことはまずなくて、だいたい遠目。

見える花火と、聞こえてくる音に時差があるようなね。

しばらく続けてあがったなー と思っていたら、パタっと止まって、

あれ? もう終わりかな? と思うと、またあがる、みたいな。

そんなちょっとチープで、どことなくもの悲しいような、淋しいような、

夏の終わりが見えてしまった、という気持ちになるのが打ち上げ花火ってもん。

と体は認識していたんだ、ってことがよくわかりました。

 

けれども、今回の花火は、夏祭りの花火ではないし、

チケットを買って入場し、指定席で観る花火ですからねー

それも「芸術」と冠のついたショーです。

そりゃもう違って当然なわけで。

 

1曲目のQUEEN 以降のセットリストはこちら。

 

2 ハナミズキ 一青窈

3 前前前世 RADWIMPS

4 Hello Beyonce

5 HEY JUDE  The Beatles

6 Habanera(aria) Maria Callas

7 ベートーベン交響曲第9番二短調 第4楽章 →Pia-no-jaC←

8 おひさま 平原綾香

9 Survival Muse

10 My Way Frank Sinatra

11 誕生 中島みゆき

 

というバラエティに富んだ(というか見事にバラバラな)選曲でありました。

老若男女、いろんな音楽嗜好に合わせようとすると、こんな感じになるのかな。

クラシック、オペラ、ビートルズフランク・シナトラビヨンセ

中島みゆきって・・・・

もうちょっと一貫性があってもよかったんじゃないかなあ、

と思ってしまいましたけれどね。

花火に合わせるならば、

ビヨンセよりかは、マドンナ。ミューズよりかは、コールドプレイやろ。

と一緒に行っていた夫と意見が一致したのですが、

まあ、このへんは、好みの分かれるところでしょう。

 

このショーの醍醐味は、音楽と花火の饗宴。

音楽と合わせることで、花火がよりドラマチックに感じられます。

秒単位でタイミングを計り打ち上げる技術はすばらしい。

リハーサルはできない一発勝負。

関係者の方々は胃が痛いんちゃうかしらと、いらん心配をしてしまいます。

ただ、ちょっと残念だったのが、音楽で消されてしまう音もあること。

花火の消え際の、チリチリというような、かそけきあの音が、

情緒があって好きなもので。

 

視界の端から端まで、クッキリ、ハッキリ、キラキラとした花火を鑑賞し、

というか、その豪華さと美しさ、花火技術の進化にも圧倒され、

1時間ほどのショーは、まさにあっと言う間に終わりました。

 

なんとも、めちゃくちゃ贅沢なモノを見てしまった・・・・

という後ろめたいようなキモチとともに、帰路につくワタクシたち。

また観てみたいけど、莫大な費用がかかるであろうあのショーを

また観たーい♪ と能天気に言えないところもあって。 

けれども、一見の価値のあるものでした。実に実に。

すごかった、の一言に尽きます。

 

後日、KBS京都でテレビ放送があるってことだったのですが、

いつになるのかが、調べてみてもわかりませんでした。

テレビでも見てみたいです。

きっとまた、違った感じ方をするのだろうなと思います。

あの場でしか味わえないもの、テレビには映らないもの、

聞こえないものって、必ずありますしね。

音楽でもお芝居でもそうですけど、LIVEならではの価値は尊いです。

 

あまりにも間近で打ち上げられ、頭の上で開き、降るように落ちてくるので、

翌日は首が痛くなってしまいました。

ま、首の痛みも思い出になるかな。

 

こちらに動画も上がっています。

www.asahi.com

同じだけれどこんなに違う

先日から「どっか行きたい病」にかかっています。

しかも、どっかに行って「好きな人に会いたい病」でもあるので、

思いついてすぐにGO! というわけにはいかず、

先方の都合も併せて予定を立て始めては、なかなかうまく進まず、

ひとまず延期!

を繰り返しています。

直前に決めるっちゅうのが間違ってるんですよねぇ。

こんな調子で、果たしてわたしは「どっか」へ行けるのか?

自分でもわかりません。

 

さて、今日は、日頃感じていて、よく考えるのだけれど、

もやもや堂々巡りを繰り返してることを。

文章にしてみたならば、答えらしきものに到達できるかなあ、

という期待もこめまして書いてみます。

 

同じようなことを言っていても、人によって受ける印象が違うことはよくあります。

例えば、何かが足りない場合。

それは、お金・愛・友人・評価・時間など、あらゆるものの、何かが不足している、

と考えてみてください。

「足りない」と感じているのだから、不満なわけです。

そして「欲しい」と思っている。

そこは同じ状況なのですが、それを他人に話す時、

『足りないから不満』を訴える人と、

『足りないから欲しい』を訴える人がおられるんですよね。

 

「不満」ベースの人は、いかに自分が窮状に追いやられているか理解を得ようと、

現状を否定する形で訴えることになります。

当然ながら、表情もとても不満そうになる。

 

「欲しい」ベースの人は、こうなったらいいのに~ という目線なので、

現状は否定していたとしても、ここから上げていきたい願望が強く出るので、

表情は、やや明るいです。

 

「不満」ベースの人は、まじめで謙虚な人が多く、強い自制心があって、

なぜか「望んではいけない」というブレーキを装着されているようです。

それは、

 自分なんかが望んではいけない

 望むには努力が足りない

と、不満を持つ自分を戒めようという気持ちと、

 それにしても不足がある

という気持ちがないまぜになっているのかなあと思います。

 

不足を言うということと、希望を持つということが、

訴えていることは実は同じことで、言葉にするとこんなに違う。

となるのが、なぜなんだろー とずっと考えていたんです。

こういうのって、やっぱり「性分」によるものが大きくて、

こう考えましょうよ とか、こんな風に思ってもいいんですよ とか言われても、

「ああそうですね。じゃ、そうします」

と切り替えられるものではないんですよね。

 

このことに限らず、謙虚である、ってことが、こじれていることは他にもあって、

これはまた別に書きたいと思っているんですが、

「自慢してはいけない」ブレーキとかね。

 

 傲慢な人になっていはいけない

 安易に夢を見てはいけない

 

いろんなブレーキを踏みまくって、

自分は不遇だけれど、真っ当であるために自制している、

という立ち位置でひとまずの安心を得る、という人もあるようです。

うーん、これは自覚しにくながら、かなりのストレスだと思われます。

 

それは道を外さないことではあるけれど、幸福からは遠のく気がしてなりません。

道を踏み外してでも、自分のしあわせは掴むべき、ってことじゃないんですよ。

そうではなく、もっと単純な話でね、不満や不足を訴えるよりは、

こうなったらいいのになあ、これが手に入ったらすんごいうれしいなあ、

と望みを口にしていった方がいいんじゃない? 

ということなんです。

どっちにしても、口にしたからといって、現状は変わりません。

同じならば、希望や願望を口にしていた方が、表情は断然明るいんですよ。

そこが大きく違ってきます。

 

望みを持つことは悪いことじゃありません。

後ろめたく感じる必要はまったくない。

叶えるための努力をするとかしないとかは、この段階ではどっちでもよくて。

あ、わたしは「念ずれば叶う 言葉にすれば叶う」なんてことは信じていません。

 

「どうせあたしなんてダメだよねー」と言うよりは、

「あたしは〇〇を手に入れたいんだもんねー」と言った方が明るい。

明るいところに自分をおく、ということは、結構大事なことだと思います。

遠慮せず、明るいところで、まぶしーっ! と言いながら立ってみましょうよ。

大丈夫です

毎年、夏になると楽しみにしているもののひとつに、

金鳥のラジオCMがあります。

去年、一昨年の「金鳥少年」、最高でした。

早熟な女子・高山さんに翻弄される、いまひとつイケてない男子・大沢くん。

高山さんの計算された小悪魔(と言えないほどの老練さ)的言動に、

毎度毎度しどろもどろになる大沢くんが哀れであり、かわいくもあり、で。

今年はもう「金鳥少年」はないのか~ と残念だったのですが、

またそれを上回るようなキャラが出現していました。

 

今季のシリーズは「殺虫剤占い」。

なんと今年は「占い」がやってきましたよ。

 

www.kincho.co.jp

 

この占い師役の女の子が上手い!

あるある。こういうたたみ掛ける系の、圧の強い占い師さんね。いはるわ~

「あー もうわかった!」と言われ、こうまでキッパリと断言されると、

すごすごと退散するしかないですよねぇ。

 

こましゃくれ口調、スピード感、こなれた関西弁。

金鳥、今年も、裏切りませんでしたね。

ブラボー!!

 

さて、いまどきの若い人は「大丈夫です」を多用されますよね。

いつごろから増えてきたのかは、もう定かではないんですけれど、

やんわりと、

「大丈夫ですぅ~~~」

と言われることが実に多いです。

占庭にご予約のお電話をいただいた時など、ご希望の時間枠がもう埋まってた場合、

それをお伝えすると、

「大丈夫ですぅ~~~」と言って、そのまま切ってしまわれることがあります。

最初は、

 ええっ? 何が? 何が大丈夫なの? 

 埋まっていても行きますってこと?

 他の日時に変更するってこと?

と困惑していたのですが、慣れました。

 

彼らが使う「大丈夫です」は「それならば結構です」という意味なんですね。

「じゃあいいです!」という強い断りよりも「大丈夫です」の方がやわらかく、

相手に対して失礼がないだろうとお考えなのだと思います。

そこからノーサンキューのニュアンスを感じ取って、っちゅうことですわ。

なんかこの「察しようよ」という空気。

時代を感じますね。

 

まあ、なんとなくNOなんだなと伝わる場合は問題ないのですが、

「大丈夫」というのはもともとは安心させるような意味合いなわけで、

ニッコリ「大丈夫です」と言われたら、NOではなくOKと取れる場合だって

結構あると思うんですよねー

 

「この後、カラオケ一緒にどう?」

「大丈夫です~」

だと、わたしなんかは間違いなくOKだと思ってしまいますもん。

 

だいぶ慣れてきたとはいえ、若い人の「大丈夫ですぅ~」を聞くと、

 えっと、それは否定? 肯定? どっち??

と、ちょっと緊張が走るワタクシであります。

(一応、キンチョウつながりでまとめてみました)

占いはツールのひとつ

先日の葵祭は好天に恵まれて、暑いくらいだったようですね。

いまの時期、京都の和菓子屋さんでは、

鮎をかたどったお菓子がたくさん並んでいます。

〇〇の鮎とか、若鮎の〇〇とか。

京都でお店を始めて八度目の夏。鮎を描いた店頭POPを見掛けると、

ああ、夏だなあ~ と感じるようになりました。

占庭のすぐそばの大極殿さんにも「若あゆ」があります。

こちら、パッと見はよくあるカステラ菓子のようなんですけど、

中にもっちりした求肥が入っていて、おいしいんですよ。

 

占庭は占い師はわたしひとりだけですし、週に4日しか営業していません。

それでも、細々と7年間やってきたからでしょうか、

最近はいわゆる「まとめサイト」で紹介されていることがあります。

ああいうのって、お金を払って載せてもらうものだと思ってたんですけど、

違うんですねぇ。

まったく知らないところで、意外なまとめられ方をしているもので、

なんか居心地の悪いキモチになったりもします。

無料で広告宣伝をしてもらっているようなもので、感謝すべきなのでしょうけれど、

「いや、ウチ、そういう雰囲気の占いの店じゃないねんけどなあ・・・・」

と思うこともあり、それを見て興味を持って来られる方がおられたなら、

とてもその期待には応えられそうな気がしないんですけどーーーー

と思ってしまうわけでして。

 

サイト等で「占い」というくくりでまとめられると、当然のことながら、

「当たるの?」

ということが第一関心事なんですよね。

 まったく当たらない占いほど意味のないものはないので、

そりゃそうだなあとは思うのですが、それが

「未来を当てられるのか?」

に絞られると、それはなかなか困難だと思っています。

「将来、わたしはどうなりますか?」

と問われて、具体的に断言するなんて、わたしにはとてもできません。

占いを「未来を予言するもの」と捉えられると、困ってしまうんですね。

わたしの占いは、あくまで「運命」は予め定まっていない、という考えのうえで、

おひとりおひとりの運気を観て、生まれ持った「才」・「運勢」を

いかにご自身の希望に沿う形で使っていくのがよいか?

というスタンスでお話ししています。

 

占いとのつき合い方は、人それぞれだと思うのですが、

予言的に未来を「当てられるのかどうか?」というスタンスではなく、

ツールとして捉えていただくと非常にありがたいです。

「占いを信じる」・「占いは信じない」の二択ではなくて、

「ツールとして使うこともある」を入れていただければなあ、と思うのです。

 

ただ、タロットカードで占う場合は、カードが暗示する未来を

読み取ってお伝えする、ということになりますので、

生年月日で占う場合に比べると、やや予言的になります。

けれども、そこにも将来起こりうることに対しての、

注意点や、対策のよすがになるメッセージもあるので、

まったくの予言というわけではないんですね。

 

というようなことをお読みいただいて、

へぇ~~~ そっか。そういう考えなのね。

と思って占庭へいらしてくださると、ガッカリされることもないんじゃないか、

と、こうしてブログをつづっているわけなのです。

「何がやりたいの?」と訊かれても

今年もがんばって越冬してくれたアメリカンブルーが咲き、

オリーブのつぼみは丸々とふくらみ、アボカドがぐんぐん葉を増やし、

ミニトマトは色づく手前。

我が家の狭いベランダにも夏が訪れようとしています。

山の木々の緑も深くなってきましたね。

 

占庭は5月はなんだかゆっくりしているので、

ちょっとどこかへ旅にでも行きたい気分です。

どこがいいかなー? と考えてるだけでも楽しいもので。

旅先でちょこっと占い師をやってきてもいいかな。

いや、やっぱり旅は旅だけを愉しむほうがいいでしょうか。

 

さて、今日は仕事の選び方、働き方、ひいてはそれが生き方にも通じていくのかな、

ということを考えてみました。

このブログでも、個人個人の適職や、働く上での優先順位のつけ方、

仕事と生活とのバランスはどのあたりに設定するとよいのか? 

などについては、いくつか書いてきましたが、

今日は占いを介さない、というか、それ以前のことについて。

 

仕事を選ぶ時、まず最初に訊かれるのは、

「何がやりたいの?」

ですよね。

誰でもが言いがちなことなのですが、そこが明確に定まっている人って、

ほんとうにごく少数だと思うんですよねー

それならば、逆に「これは絶対イヤ!」「どうしてもムリ!」

と思うものは何か? から考えてみてもいいのかなと思います。

 

給料とはガマン料だよと、よく言われますが、選択する時点では、

どうしてもイヤなことや、ムリなものは除外していいでしょう。

じゃないと、ますます何がやりたいのかわからなくなってしまいます。

 

もうね、ふんわりでいいんです。考え始めは。

実際のところ、最終的な「コレがやりたい!」

が見つからない人だって多いのだから、

ギチギチに自分を追い詰めなくて大丈夫。

それに決めるかどうかは別にして、

「これならできるかな」

「ちょっとおもしろそうかも」

のあたりから徐々に絞っていきます。

でも、ここでもざっくりでいいです。

ざっくりでいいのですが、せっかく考えたことを忘れてはもったいないので、

必ずメモを取っておきましょう。

(このメモは大切なので、そこいらの紙の切れっ端ではなく、

 できたらちょっといいメモ帳やノートがいいですね。)

 

それと並行して、どう生きていきたいかなあ、

とこれまた、ぽやぽや~ っと考えてみる。

地元で暮らしたいか、生まれ育ったところではない土地で生活したいか、

いっそ海外はどうか、家庭をもちたいか、子どもが欲しいか、不動産を得たいか、

大金持ちになりたいか、そこそこの生活を確保できれば満足なのか、

趣味を愉しみたいか、仕事で成功者になりたいか、

など、思いつく限りのいろんな切り口で。

ここでは、できそう or できる気がしない の予測はせずに考えてみましょう。

 

で、次にそれらをふんわりと意識しながら、どう働きたいか?

を考えてみる。

サラリーマンか、フリーランスか、経営者になるか、商売をしてみるか。

また、何を自分の「ウリ」に据えるかも考えてみましょう。

資格を活かすか、技術を活かすか、何らかの自分の得意分野を活かすか、

年月をかけて経験を武器にしていくか、など。

 

そうして、ふんわりざっくり考えていると、

なんとなくの「像」がほわほわっとできてきます。

そこから、信用できる人たちの助言を受けたり、当たって砕けたりしながら、

「採用してもらえるところ」ではなく、まずは、

不本意ではない仕事」を得るよう、努力しましょう。

 最初から、天職に就ける人なんて、めったにいるもんじゃありません。

天職になっていくことはありますけれどもね。

なので、最初っから唯一無二の「天職は何なのか!?」

と気張り過ぎなくていいのです。

 

何をしたらいいのかわからない。

別にやりたいことなんてない。

 

という人は多いです。

そういう人は、覇気がないとか、意欲がないと言われてしまうけれど、

そんな人ばかりではありません。

職を得たら、そこで誠意を持って、精一杯の努力ができる人も、

その中には含まれているのです。

 

仕事で自己表現をしたいと望む人ばかりでもないですしね。

 

「どうせ自分は大したことができるような人間じゃないから、

 誰かの願いを叶えるお手伝いがしたい」

というような人もおられます。

 

また、

「自分がこの仕事をすることで、誰の生活が少し良くなったり、

 楽しくなったらうれしい」

という方も。

 

こういうスタンスは非常に利他的な選択のように見えますが、そうではないですね。

なぜなら、そこでご自身は確かな存在価値を感じられるだろうし、

力強い社会貢献につながってもいきます。

 

世の中の人がみんな、何かを成し遂げたいとか、成り上がりたいとか、

認められたい、なんて思ってるわけじゃないんだし、

そこを目標に掲げる就職ばかりでなくていいんです。

ただ、生まれたのであれば、死ぬまでの間に、何らかを社会へと還元していく、

ってことは生きる上での大事な役割のひとつでもあります。

まあ、それは生きていくなかで、意図せず果たしていくものなのでしょうけれど。

 

そうだなあ。

一生の折り返しをとうに過ぎたワタクシ。顧みて、

いったい何を社会へ還元できただろか。

と考えるに、自慢できるようなことはないですねぇ。