京都 四条高倉の占庭から

好きは尊い

関東はもう梅雨入りしたけれど、関西はまだなんですよね?

とはいうものの、もうじきであることには違いはなくて。

 

そんな6月ですが、いまさら4月を振り返りますと、

ふたつのライブへ行きました。

まずは、京都・磔磔泉谷しげる

ぎゅうぎゅうのライブハウスで立ちっぱなし4時間はキツかったです。

それでも、わたしなんて、まだその会場では若手なんですよ。

なにしろ、泉谷さんはもう71歳ですからね。

還暦記念のオールナイトライブに行ってから、もう11年かあ。

演るほうも体力勝負ですけど、観るほうも同様です。

それでも、相変わらずパワフルなステージで驚きます。

あんな感じですけど、すごくマジメでやさしい人なんだなあ。

観客の大半が男性なのが、ちょっとご不満のようですが、

そういうオッサンたちが、いままでを支えてきたんですよねー

わたしも別にすごいファンっていうわけではないんですが、

誘われると、行ってみようかなあ、って思うし、

終わってみれば、いいライブだったなあ、っていつも思うんですよ。

この曲、ライブで初めて聴いたんですけど、よかったです。

www.nicovideo.jp

 

で、その後が、大阪城ホールユーミン

スタンド席だったので、ふかふかのシートにゆったり座れて、

上からよく見渡せて、ああ、極楽、、、と思いました(笑)

同じツアーを仙台ではアリーナで観たのですが、スタンド席がよかったな。

ユーミンも、65歳なので、やっぱり観客もそれなりの年齢層。

それでもいつも大きな会場が満杯で、チケットが取れないってすごいですよね。

まさに夢のようなめくるめくステージで、毎回新しい趣向が凝らされ、

かつ、昔からのファンを失望させないサービス精神もあり、

見事なショーが展開されます。

ユーミンって、全然器用なタイプではないんですけれど、だからこそ、

マジメな努力家だし、謙虚だし、人気に胡坐をかいたりせずに常に感謝し、

妥協することなく、いつも前を向いている姿がほんとうに素晴らしいんですよ。

こうしてトップミュージシャンとして走り続けてこられた数十年、

一時代を築き上げた成功者であることは間違いないけれど、

犠牲にしたものもいっぱいあったろうな、なんて思ってしまいます。

同じ時代に生きていて、こうして生のステージを観られて、

ほんとうにラッキーだったなと思える人のひとりです。

 

余談ですが、関西の人って、大阪城ホールのことを「城ホール」って呼ぶんですね。

わたしも何の疑いもなくそう言ってきましたが、ほかの地域から来られた人は、

そのジョウホールっていう言い方に違和感があるのだそうです。

 そうなんですねぇ。言われて初めて気づく、っていうやつですね。

 

そして、6月に入ってすぐ、京都のライブハウス・nanoで、

ハンサムケンヤくんのワンマンライブに行ってきました。

こちらはぐっと若返りまして31歳です。

彼は素晴らしいソングライターであり、ライブも魅力的。

なにしろ息子と同い年なので、親戚のおばちゃんのような目線で、

いつも勝手に心配したり、応援したりしています。

最初、この曲をyoutubeで聴きましてね、すぐに、

これはライブへ行かねば! と思いました。

どこかで聞いたような耳触りのいい言葉を重ねた歌詞ではなく、

内側からうねり出る自分の言葉でうたっているのがいいです。

 

www.youtube.com

 

ほかにもいい曲、センスのいいPVがたくさんあるので、推したいです。

しかしこのPV,もう8年も前なんですねぇ。

ほんと年月は飛ぶように過ぎていきますね。

いま見られるもの、いま聴けるものを大事にしないと、と思います。

 

占庭のお客さまで、K-POPファンや、韓流ドラマファンの方も多いのですが、

そういう方がすごいなと思うのは、好きが高じてハングルをマスターされる方が

とても多いということです。

CDを買ったら「握手券」がついていたり、ファンミーティングに参加できたりとか、

そういう特典があったりするらしいんですね。

そうすると、応援してますって韓国語で伝えたいとか、お手紙を渡したいとか、

そういうところから勉強されるのだそう。

ファンになっていなければ、きっとハングルの勉強をすることはなかっただろう、

って思うんですよ。

勉強って、自発的、積極的にがんばるのは、なかなか大変。

でも、そこに「好き」が加わると、その推進作用たるや、すごいものがあります。

「得になる」や「将来、必要」でする勉強とは、違うエネルギーやパワーが

生まれるんですよね。

よく若い人が「推しは尊い」みたいな表現をされますが、

ホント「好き」というのは、ものすごい原動力になるのだなと思います。

そんなの現実逃避でしょ、なんて、クールに言う人もあるかもしれないけれど、

いやいや、好きは尊いですよ、とわたしは言いたいな。

京都芸術花火2019

6月に入りまして、日差しも一層、夏っぽくなってきました。

なんか日光に、白いまぶしさを感じるようになったら、夏、

って感じがしませんか?

 

今月は、私的エンタメ月間で、ライブや観劇の予定がいろいろ。

それ、全部、ひとりで行くんですけどね。えへへ。

 

5月の終わりに、今年も「京都芸術花火」を観に行ってきました。

これは夫と一緒に。

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昨年、初めて淀の競馬場で開催されたものに行きまして感動し、

今年もあると知った夫が、やっぱり行きたい! とチケットを申し込みました。

人気が出たので、今年は抽選。

当たるような気はあんまりしてなかったんですけど、ご縁があったのか、

令和最初の芸術花火も観覧することができました。

 

音楽に合わせて打ち上げられる花火を至近距離で鑑賞する、

っていう催しです。

お祭りの花火とは、まったく趣が違うものなんですよね。

息つく間もなく、豪華絢爛たる花火が打ち上げ続けられる、

それはそれは贅沢で、華やかで夢のような時間なのです。

 

今年のセットリストはこちら。

 

 ピースとハイライト/サザンオールスターズ

 She Bangs(Spanish version)/Rickey Martin

 ソランジュ/上間綾乃

 さくら幻想曲/宮川彬良

 獣ゆく道/椎名林檎宮本浩次

 Vertigo/U2

 打上花火/DAOKO×米津玄師

 Sandstorm/Darude

 Bohemian RhapsodyQueen

 Vero Amore/Jonathan & Charlotte

 永遠の嘘をついてくれ/吉田拓郎中島みゆき

 Imagine/John Lennon

 

いろんなジャンルの音楽が混じり合っていますが、

去年ほどは、てんでんバラバラな感じはしませんでした。

ちなみに昨年のセットリストはこちら。

 I was Born to Love You/Queen

 ハナミズキ一青窈

 前前前世RADWIMPS

 Hello/Beyonce

 HEY JYDE/The Beatles

 Habanera(aria)/Maria Callas

 ベートーベン交響曲第9番ニ短調第4楽章 →Pia-no-jaC←

 おひさま/平原綾香

 Survival/Muse

 My Way/Frank Sinatra

 誕生/中島みゆき

 

なるほど、 2年で被っているのは、QUEEN中島みゆきですね。ふむふむ。

今年のほうが曲数が少なく感じたのですが、同じ12曲だったんだな、

といまわかりました。

 

昨年よりもまた一段、花火の技術も進み、演出も工夫され、

贅を尽くした圧巻の50分でした。

 

ごくふつうの、ドン! と上がって夜空で花開く大輪の花火ではなく、

地上から直線の軌道を見せながら、ヒュンッ!ヒュンッ! シュタタタタッ!

と打ち上げられるタイプの花火は、まるで機関銃のような音がします。

そこはかとなく漂ってくる火薬の匂いと相まって、

余計に、平和を感じられるんですね。

こんな平和な火薬の使用法って、ほかにないだろうな、って。

しかもこれほどまでに短時間に大量に、ただ鑑賞するためだけに消費されるって、

バチが当たりそうなくらいの贅沢で、なんか後ろめたいような、

申し訳ないような気持ちににもなります。

そういえば、去年も同じような思いになったなあ、と思い出しながら、

でも、今年は去年の轍を踏まぬよう、思いっきり上を向き続けず、

首をかばいつつ加減しながら見たあたりは、経験の知恵によるものだな、

よしよし、と会場を後にしたのでした。

 

ほんとにね、最新の花火ってすごいんですよ。

全国のあちこちで開催されているようですので、

機会がありましたら、一度体験してみてください。

圧倒されますよ。

どっちの努力も立派だけれど

毎年、5月半ばから、ベランダのオリーブが咲きます。

今年はちょっと刈込み過ぎたと、反省してます。

なんとか実を生らせたいと思って、あれこれ手を尽くすのですが、

いつも途中でしぼんでしまって、なかなか結実しません。

品種の違うオリーブの花と交配させると実がつきやすい、と知って、

息子に、母の日だか、誕生日だかのプレゼントに買ってもらいました。

よしよし。これでできるだけの手は打ったぞ。

と満足していたんですが、なんと、片方の鉢が先に開花してですね、

もうひとつが遅れるという事態に。

 

 ああ、そうか! 同時に咲かないと意味がないんや~~~~

 

という残念な状況に陥り、もう一方が咲くまで、じれじれしてしまいました。

夏場、水枯れしないようにと、大きな鉢に植え替えしたせいか、

今年の花はちょっと大きかった気がします。

さて、今年こそ、実が生るでしょうか。

生ってほしいなあ~

 

この前、ぼーっと電車に揺られているときに、

わたしが魅力を感じる素敵な人たちって、似通ってるところがあるなあ、

と気づきました。

共通点は、なんでもソツなくこなす人ではない、ってところ。

凸凹があるんですね。

 

 そんなことができるってすごい! ってところと、

 えっ、こんなこともできないの? ってところがある人たちばっかりでした。

 

わたしは、子どものときから、まあまあ、な子だったんですね。

勉強もまあまあ、運動もまあまあ。

社会に出たら、仕事もまあまあちゃんとやって、

周りの人たちを極端に困らせることもなく、かと言って切れ者でもなく、みたいな。

目立つことは好きではなかったし、放っておかれるほうが気楽でした。

おまけに負けず嫌いでもないので、まあまあならええやんと、がんばらない(笑)

いままで生きてきて、めちゃくちゃ努力した、ってことが一度もありません。

 

個性や才能を伸ばす努力というのは、

「できないこと、苦手なことを克服する努力」と

「できること、得意なことを伸ばす努力」の2種類があると思うんですね。

どっちも努力できる人って素晴らしいし、心から尊敬します。

 

で、わたしが素敵だなあと憧れる人たちはですね、

みーんな、極端に後者に偏った方ばっかりなのでした。

 

できないことは早々にあきらめ、もしくは、あきらめざるを得ず、

できることをやるしかない、とか、得意なことはこれだけだ、って感じで、

そこを伸ばすことで、克服できない何かを必死にカバーして生きてらっしゃる。

そう聞くと、

 みんなそうじゃん、と思われたり、

 そっちの方がラクじゃね? と思われたりするかもしれませんが、

そんなことはないんですよね。

みんな「できない」ところをあきらめきれず、ジタバタするもんです。

だって、できないところをバッサリ切り捨てるって、勇気が要りますもん。

その部分については、ほぼゼロ評定になるってことですからね、

自分で「ダメな人」印をドン! と押すようなものです。

それは結構つらい。

 

わかりやすい例えをあげるなら、

人と関わるのが苦手な人が接客を必要とする仕事に就く場合、

感じの悪い店員だと思われないように心を砕くのではなく、

当たり障りのない愛想を超える技術や、知識で勝負する。

感じのいい人という評価を得ることは捨て、

脇目もふらず、他の人にはまねできない仕事ができるまでになる。

とかそういう感じかな。

 

端的に言うならば「特化する」っていうことに近いのでしょうけれど、

特化のポイントをうまく切り取るには才能も要りますし、

できないところをできるようにするための労力を

できるところを伸ばすことのみに注ぐ潔さも必要です。

ガツガツしてないのに、一途なんです。

そこがカッコイイ!

と憧れてしまうんですねぇ。

 

まあまあで生きるほうが無難だし、ラクだとも思います。

やっぱり、ラクにテキトーに生きててもカッコよくはなれない、

ってことでしょうか。

 

有名になりたいとか、大金持ちになりたいっていう欲はありませんが、

できれば、自分なりにカッコよくは生きたいんだな、わたしってば。

ってことにも気づき、へえ~ そんな欲があったのねぇ、

となんか自分でも意外でした。

 

しかしながら、今までまあまあで生きてきちゃったし、急には変われません。

でも、どっちでもいいようなことはサッパリと見切りをつけ、

ただの自分勝手にならないよう、自分の良心と相談しながら、

少しずつでも、まあまあから脱却する意識は持っていたいかな、

なんて思っています。

太陽の塔はいろいろすごかった

よいお天気が続きますね。

気温もぐんぐん上がっているようです。

週末はもっと上がるらしいので、暑さ負けしないように用心しときましょね。

 

昨日もたいへんよいお天気で、珍しく夫と休みが重なったので、

吹田まで出かけてきました。

目的は、観覧車・ニフレル・太陽の塔の3つ。

 

実はわたくしたち夫婦は、観覧車マニアで、どこへ旅行しても、

観覧車がそこにあれば必ず乗ることにしています。

北海道でも仙台でも乗りました。

なのに、なぜかこの近場にある日本最大の観覧車には未だ乗っていなかった。

さすがに日本一だけあって、めちゃくちゃ大きいです。

平日の午前中だからか、ガラガラ。

万博公園太陽の塔の向かい側にあり、360°遠くまで見渡せます。

風景を見るのに懸命で、足元がスケルトン仕様になっていることに、

降りる頃まで気づかなかったほど、よい眺めでした。

 

乗り場のあたりで「乗ろうよ」という女性に、母親らしき人が、

「いや! こんなん乗ってる時に地震が来たらどうするの!」と

断固拒否してらしたんですけど、たしかに、あれに閉じ込められたら、

と思うと乗れませんよね。

思わないことにして乗りますけど。

 

とってもオシャレな水族館のニフレルも、ずっと行ってみたかったところ。

水槽、距離感、照明など、工夫が凝らされていて、見せ方が非常にうまいです。

圧倒されるような量や、種類はないのですが、身近に感じられ、たのしめます。

ここはいま、ミニカバの赤ちゃんが大人気。

そらもう、誠にかいらしいコでした。

まったく物怖じせず、愛嬌をふりまき、見ている人たち全員を骨抜きにしてました。

もうみんな、デレデレです。

ぜひ見に行ってください。たまらんかわいさです。

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で、太陽の塔です。

以前、内部に入るチケットを入手しようとしたら、いっぱいで断念したのですが、

公開からしばらく経ったのと、期限付きではなくなったのとで、

今回は前日に簡単に予約できました。

必ず前日までにネット予約、が原則です。

 

30分刻みで、17名ずつ入場します。

写真撮影してよいのは、1階の部分だけ。

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なにしろ約50年前のものなので、劣化もしていたのを

修復したり、新しくしたりして、耐震補強をして公開されているんですね。

元々、岡本太郎さんは大好きですし、太陽の塔そのものも、

いかにも岡本太郎さんらしくてとてもいいと思っていました。

万博で、岡本太郎さんをプロデューサーに抜擢したのは英断だったよなあ、

と感心していたのですが、今回、内部に入ってみて、改めて、

太陽の塔はすごい! と実感しました。

 

それは、内部の展示物がすごかったというよりは、構造がすごいなあと、

心底感動したからです。

太陽の塔は、形状もデザインも奇抜で独特です。

しかも内部に人が入れるようになっており、巨大な作品も収まっている。

あの時代にですね、作品のイメージを壊さず、あのスケールで造った、

というのがまずすごいです。

素材も限られるだろうし、それを形にするには相当な技術が必要です。

しかも安全に、ですからね。

 

大阪城は誰がつくったでしょう?」「大工さん!」

というなぞなぞがありますけれど、わたしは岡本太郎さんもすごいけれど、

あれを造り上げた技術者集団は、めちゃくちゃすごかったよね!!

と思わずにいられません。

大量のコンクリを固めた巨大建造物を持ちこたえるだけの基礎や、

左右に飛び出している腕の部分は、どのように支えられているのか、など、

想像を絶する苦労があったと思うんですよ。

実際、内部に入って、腕の部分を見たときに、

やっぱりこれだけの鉄骨が張りめぐらされてるんやなあ、と納得でした。

当時、あの腕の中は非常階段になっていたらしいのです。

腕から出たところが、大屋根につながっていたということで。

なるほど~~~

 

わたしは万博に行って、肉眼で太陽の塔を見たはずなのですが、

その時、子ども心に、どういう感想を抱いたのか、全っ然!覚えてないんです。

なんということ。

きっと、きらめく各国のパビリオンのほうに興味が引っ張られてたんでしょうね。

子どもだったしねぇ。残念です。

 

あの巨大な太陽の塔を造るのに携わったたくさんの人々は、

ひとりひとり名前が残されているわけではありません。

それはもう、失敗が許されない困難な一大プロジェクトだったわけですよね。

だけど、関わった方は、みなさん、

「あれはほんまに大変やった、、、、」

と思いつつも、一生の誇りにされたんじゃないでしょうか。

 

万博後もずっと太陽の塔が残されて、ほんとうによかった。

心からそう思いましたね。

 

内部の作品は、愛嬌もあり、自由で、普遍的で、生命の力を感じます。

岡本太郎っぽさがあふれていて、思わず、頬が緩んでしまうんですよね。

それでも、わたしは、内部よりも、やっぱり外側が魅力的だし、

あの塔そのものの存在が素晴らしいなと思いました。

約50年経った今も、古びていない。

あれを見て「昭和だなあ」と嘲笑する人って、いないですよね。

 

帰り道、夫が「太陽の塔は、現代の土偶だな」と言っていました。

素朴でありながら、おおらかなエネルギーにあふれ、

生命の歓びにも通じるような感覚は、土偶に通じるものがあるなあ、と。

わたしにもその感覚は腑に落ちるものがありました。

『胎児のはなし』

昔の偉い人の写真を見ると、耳が大きくて、

「やっぱりエラくなる人って、福耳なんや」

と思っていたのですが、よく見ると、別に偉くない人でも、

昔の人って、耳が大きいんですね。

なんでやろう、って思ってたんですけど、自分が年を取るにつれ、

周りの人も年配者が増えてきてわかりました。

現代の年配者も耳が大きい、ってことが。

 

そうなんです。

年を取ったら、耳が大きくなるのではなく、下がってくるんですね。

もちろん、それは耳だけじゃなく、全体がハリを失って下がってくる。

あごの下の皮膚とかも下がってくる。

顔全体はしぼんでくるけれど、耳はしぼむよりは垂れる。

要するに、皮膚が下がって伸びてるんやん、ってことではないか、

と思われます。

なんや~~~ と思った次第です。

 

さて、今日はすごーく久し振りにカテゴリ「読書」で。

いつもブログに書くのは、ずいぶんと昔に読んだ本ばかりなのですが、

今回は、読みたてほやほやのものを。

と言いますのも、ものすごくおもしろかったので、紹介せずにいられない!

ということで。

ええもう絶賛超オススメです。

 

『胎児のはなし』増﨑英明・最相葉月 

産婦人科医の増﨑先生のお話を最相さんが聞いていく、

というインタビュー形式の本。

めちゃくちゃおもしろかった!! 

この「おもしろかった」は、単純に知的好奇心をじゅうぶんに満足させてもらえる、

というだけではなく、男性・女性の「性」についてや、

ヒトが生殖し命をつないでいくということなどについて、

いままでとはまったく違う角度から、

うーーーむ、と考えられるおもしろさもあるのです。

増﨑先生先生の豊かな経験と見識と、最相さんの見事な質問力と理解力が相まって、

すばらしい一冊になっています。 

出産の経験のあるなし、将来的に子どもを望むか否か、男性・女性、

そんなことはまったく関係なく、だれが読んでも、

オドロキとワクワクを感じられる内容です。

もちろん、ただおもしろいだけではなく、生殖や出産について、

向き合わねばならないことも、キチンと書かれています。 

時代の変化や、医学や科学の発達により、ハッピーな解決を見ることもある、

と同時に、新たな問題や課題も生まれているということですね。 

国や個人によって規範が違うこともあり、

正解のない問題に対峙していかねばなりません。 

コトが「命」だけに、たいへん難しい。 

けれども、だからこそ、ちゃんとみんなで考えなければ、とも思います。

 

妊娠中、胎児を介して、母体に父親のDNAが入ってくる、

というのはビックリだけれど、考えてみたら、なるほど、とも思えます。 

 

以下、先生のお話を抜粋。 

「昔は妊娠中毒症といってた妊娠高血圧症候群って、一人目を妊娠したときに多いんだけど、二人目は軽くなるか消えるんです。でも、夫が変わるとまた発症する。なぜか。一人目で免疫寛容ができても、また別の抗原が入ってくるからと考えると非常にわかりやすいよね。理論的にはこういうことが考えられる。」 


「胎児の細胞がお母さんに入るってことは、幼若な細胞が入るってことですよ。なんにでもなれる幼若な幹細胞が母体に入る。半分はお母さんと同じだから免疫反応が起こりにくい。そうすると母親の損傷部位に集まって修復するんじゃないか。たとえば神経細胞とかね。胎児が母親を治療する。」

こういう発想は、知って初めて生まれ、広がっていきます。 

こんな目から鱗なお話が山ほど出てきます。すごい。 

増﨑先生が、産婦人科医という大変ハードなお仕事をされつつ、

柔らかい感性で疑問やアイデアを見つけ、それを研究につなげていかれたって、

ほんとうに素晴らしいです。 

小児科や産婦人科は特にハードな上に訴訟も多く、なり手が減っていると聞きます。 

だけど、この本を読んだら、

なんて謎に満ちた、しかもとてもおもしろく、将来性のある分野だろうか!

と興味を持って研究したいと思う人が出てくるんじゃないかと思います。

 

個人的に、自分が35年くらい前に患った病が、ああ、そういうことだったのか、

と合点のいくこともあり、ほんとに読んでよかったです。 

読書のヨロコビを満喫できました。 

サイコー!!

 

出版元のミシマ社は、京都の小さな出版社です。
個性的で、実におもしろい本を時間と熱量をかけて出してらして、

応援したくなるのです。

軽んじられた と感じるとき

ゴールデンウィークの後半あたりから、ひと息ついている占庭です。

年末年始から続いた、あのバタバタはいったい何だったのかしら。

ものすごく忙しくなると、やっぱりこんな仕事でも体力を削がれます。

気持ちも追い詰められてきて、

「ゆっくりでいいから。ひとつずつひとつずつ」

なんて、口に出して言いながら作業をしなければならなかったり。

週に4日しか営業してないくせに、そんなこと言うてどうすんのよ、

と思われるでしょうけれども、自分に合ったキャパってのもありますし、

そこを超えてしまわない調整というのは大事だなあと思いました。

細く長く続けていけるよう、なるべくムリはしない、

というスタンスを守ろうと思っています。

 

ブログの更新も滞りがちなのですが、更新すると、お読みくださった方から、

「あれって、わたしのことですよね?」

とメールを頂戴することがよくあります。

ひとつのブログで、数名からいただくことも珍しくないです。

ブログは、ふだんの占いやレッスンを通して感じたことを書いているのですが、

個別のどなたかへ向けて書くことはないですし、

元となったテーマも、どなたかお一人から得たもので書くことはありません。

もちろん、個人情報に関わるようなことも書けませんしね。

ですので「わたしのことかな?」と身近に感じてくださるのは、

うれしいことですし、ありがたいのですが、そういうスタンスで書いている、

ということをご理解いただけたらと思います。

 

 

仕事上、プライベートに関わらず、広く人づき合いの中で、

「あれっ、扱いが軽くない?」

「なんかぞんざいにされてない?」

というそこはかとない不満を抱くことってありますよね。

それは、

「もっと自分を大切に扱って然るべき」

というキモチが心のどこかにあるからなんですよね。

けれどもそれは、こちらが尊大だからっていうのでもなくて、

 これだけこちらは相手のことを思っているのに、

 そちらはその程度にしか思ってくれていないの?

という下からのガッカリ、というのもあります。

 

わたしはそういう思いが湧いてくると、心がザラっとして、

落ち着かない気持ちになります。

「自分はちょっとエラそうになってるんじゃないか?」と不安になったり、

「自分の思いが相手にちゃんと届いていないのかも」と落胆したりで。

 

でも、そういうときは「どうして?」と思わないことにしています。

相手には相手の事情もあるだろうし、うっかりしていたとか、

気づかなかったということだってよくあること。

真相を求めて考えたところで答えは出ないし、疑心暗鬼にもなりかねません。

現状をそのまま受け容れる。これしかないんですよね。

 

なんか雑な扱いをされているな、と感じて、

「所詮、相手にとってはその程度の存在なのか」と思うのはちょっとつらい。

けれどもそこで、

何が悪かったのか? と自分を責めたり、

ちゃんと誠意を尽くしてきたのになぜ? と相手を恨んだり、

なんてことは無用です。

「そうか、自分はまだまだだな」と思えばいいだけのこと。

「軽く見られてるなら、こちらもそのつもりで」みたいに、

相手に合わせて、自分のスタンスを変える必要はないと思うんですよ。

じゃないと、相手の言動が基準になってしまい、振り回されかねません。

 

なんか軽んじられてるな、って思うことは、

相手が目下の場合のほうが多い気がします。

年下とか、後輩とかね。

そう思うと、どこかで、年長者は敬って当然、みたいなキモチを

わたしも持ってるのかなあ、となんかうそ寒い思いになります。

そういうの、カッコ悪いですもんね。

 

ただ、思うのが、自分も相手を落胆させたりすることがあるかもしれない、

ということです。

自分はそういうこと、したくないなあ、って思うんですよ。

特に目上の人に対しては、ちゃんと礼を尽したい。

なので、たまに、あれれ? と思うことがあれば、相手に不満を抱くより、

先に自分を省みようと思うのです。

ガマンし続けない決意

連休明けの今日はとってもいいお天気。

でも、

学校や職場に行きたくないー 

と思ってた人も多かったんじゃないでしょうか。

四条通も、心なしか歩いている人が少ない気がしました。

 

今日は「我慢」について。

ガマンって、できる人のところに集まるんですよね。

だから、ガマンする人は、ずーっとガマンし続けることになりがちです。

なにしろガマンできない人はしないわけですから、

そういう人の周りのガマンできる人はそれを強いられることになります。

また、ガマンできる人は、ついしちゃうんですよ。

もう習慣みたいになってらっしゃる方も多いです。

 

でも、ガマンって、

ほんとはイヤだけど、黙って辛抱する。

ってことでしょ。

だから、どちらか一方だけのガマンは続きません。

お互いがそこそこガマンする、というのなら成り立ちもしますが、

特定の人だけ、どちらか一方だけのガマンはいずれ破綻してしまいます。

 

だいたい、どんな我慢強い人であっても、ただひたすら耐え忍ぶのはムリ。

それにね、意識はしていなくても、どこかで、そのガマンの代償を

期待してしまうんですよね。

そりゃそうですよ、人間やもん。

代償というのは、感謝の言葉だったり、気遣いや思いやりなど、

自分へ向けてくれる愛情、ってことです。

それを得るためにガマンしてるわけではないけれど、

 このしんどさに見合う何かがあってもいいよね? 

って、心のどこかで求めるのは、当たり前のことだとも思えます。

 

けれども、それらを得られることはめったにないんですよね。

そうすると、ガマンと不満はセットになって膨れ上がっていきます。

やっぱりどこかでパーン! と弾けてしまう。

そうなれば、周りも驚くし、自分自身の気持ちも落ち込みます。

 

ですのでね、なるべくガマンをしないようになさってほしいんです。

もちろん、なんでもワガママ放題になれ、というんではなくてですね、

ガマンに何らかの見返りを期待してしまうのであれば、

そのガマンはしないほうがよいものなのだろう。

と思ってみられたらどうでしょうか。

負担に思わないガマンをさて、ガマンと呼んでよいものかどうかわかりませんが、

「こんなにガマンしてるのに!」という気持ちを抱かずに済むような、

ガスの抜き方を考えられたらいいなと思うのです。

ガマンのなすり合いほど空しいものもありません。

できるだけ「ガマンによる解決」は採らないようにして、

ガマンにまで発展しないように折り合いをつけられないものか、

を考えてみてください。

折り合いのつけられない、お先真っ暗なガマンであれば、

それをうまく放棄する手段を考えてみましょう。

とにかく、誰かのガマンの上に成り立っている平穏は平穏ではない、

ってことを認識していただきたいのです。

 

と言いますのも、あまりにもガマンを重ねてしまっている人が多すぎると

感じているので。

社会人として、夫として、妻として、母として、父として、子どもとして、

いろんな役割を全うするために「ガマンばっかり!」

と思ってらっしゃるのだけれど、それを誰にも言えなかったり、

こんなことで文句を言っていてはダメ、と自分で押し殺したり。

出口がないんです。

 

ですから、まずですね、

 ガマンをし続けない方法はないのか? ほかの選択肢はないのか?

から考え始めてみてください。

すぐに答えは見つからないかもしれませんが、

このままを続けない、

という視点に立つことで、新たな切り口が見つかったり、

何に執着しているのかが明らかになったりもします。

 

わかりやすい例で言いましたら、

「なんで『ありがとう』のひと言もないんだろう?」

というような思いの下には、ガマンがあるし、代償への期待もあるということです。

そう思って消耗するくらいなら、しない方がマシかもしれません。

してあげたいことは、どんどんしてあげて、ガマンしながらしていることは、

なるべく手放していく。

 

いいですか。

ガマンは「いい人」と言われる、ガマンできる人のところに集まってきます。

くれぐれも、引き受けるのはほどほどに。

じゃないと、だれのための人生かわからなくなってしまいますものね。