京都 四条高倉の占庭から

神さまへの願い事

ついこの間までウチのベランダでは、夏の花であるアメリカンブルー

咲いていました。

さすがにもう花は開かなくなったのですが、今年も越冬してほしいものです。

この寒さの中、ローズマリーは可憐な花を見せてくれています。

なぜかいい季節には咲かずに、酷暑・厳寒に強い我が家のローズマリーなのでした。

 

12月も半ばになって、半月後はお正月なんですよねぇ。

2017年は、どこに初詣に行こうかしら。

 

その昔、どうにもしんどい年が続き、初詣のたびに、

「良いことはなくていいので、とんでもないことが起きませんように」

と祈っていた頃がありました。

よほどクタクタだったんでしょう。

とにかく一年、穏やかに、静かに過ごしたい、と熱望しておりました。

 

振り返ってつらつら考えると、そういう謙虚なことをお願いしてる時っていうのは、

案外、神さまに見放されてたような気がするんですよ。

「良いことはなくていいので」が余計やったのかなあ。

それはまぎれもない本心だったんですけれど、

神さまはもっとストレートで前向きな願いの方を好まれるのかもしれません。

 

そうか! 神さまはポジティブ志向なんや! 遠慮は無用か!

 

と思い、結構厚かましいことを願うようになると、全部ではなくても、

叶う方向へと進む気配を感じるようになったんですよ。

たまたまやったのかもしれませんけどね。

 

で、気をよくして、どんどん厚かましくなっていたところ、

神さまには願い事はするもんじゃない、という話を読んだり、聞いたりしました。

 

じゃあ、手を合わせて何を思えばいいのか?というと、

「いつもありがとうございます」とただ感謝をすればよいのだそうで。

しかも、もっとよいのは、まだ叶っていないことでも叶ったという体で、

「ありがとうございます」とお礼を言うことなんですって。

 

なるほど。

たしかにそういうものならば「良いことはなくてもいいので」というのは、

かなりトンチンカンな切り出し方であったな、と納得です。

そもそも、神さまは願い事を叶えたり叶えなかったりする存在ではない、

ってことですものね。

 

けれども「あの人は神さまに愛されてるな」としか思えない人もいますでしょ。

最近じゃ、それを「持ってる」と言ったりもしますけれど。

それって何なんでしょう?

持って生まれた運? 才能? 努力?

どうなんですかねぇ。

どれもあると思えるし、それだけでもない気もします。

思うに、謙虚な気持ちは必須なんですよ。たぶん。

だけど、それを表す必要はなくて。

謙虚さを持ちながら、才を生かす努力を惜しまず陽気でいる。

っていうのがいいんじゃないでしょうか?

いや、あくまで推測ですけれどね。

 

ワタクシ、なんでも良いと言われることは、できるだけやってみよう

と思っているので、今度の初詣では、思いっきり明るく、

元気いっぱいお礼を申し上げよう!

と、思っておりますの。