京都 四条高倉の占庭から

「不完全な恋」again

お客さまとお話ししていて、ライブやフェスに行くのが好き、

という方には、いつも、

 どんな音楽を聴いているの?

 誰のファン?

と訊ねます。

これは占い的な意味はなく、まったくのわたしの興味から。

 

ジャニーズやK-POPの人気はやはり根強いですね。

ファンの年齢層が広いというのが強みなんでしょうねー

意外なところでは、30~40年前の和ポップスや和ロックなどを

演っている若い人のバンドがあるんだそうで。

「昭和の音楽は、いい曲があるんですよね~」

とおっしゃっていました。

 

そうかー

わたしのようにどっぷりと昭和に生まれ育った人間には、

30~40年前の曲は過ぎ去った「昔」のもので古くなったイメージなわけですが、

若い人にとっては、生まれる前のもので「初耳」なんですよね。

あれです。

ファッションと同じで、一周回って新しい、ってやつでしょうか。

平成の時代に生まれ育った人たちには、肌感覚のない昭和という時代に、

ノスタルジーを感じたりするのかもしれませんね。

現実に生きていた者とは違う、ノスタルジックなイメージを抱く、というか。

 

思えば昭和の人間は、大正時代にロマンを感じたりもしたわけで、

次の元号が何になるかわかりませんが、その時代の人はまた、

平成という時代に何らかの思いを抱くようになるのでしょうかね。

 

さて、春休みということで、街中を歩いてらっしゃる方もファミリーや、

年若いカップルが多い、今日この頃です。

ちょうど一年前にも同じようなことを思って書いていたなー

一年、あっと言う間やなー

と思ったところで、今日はそれをagainします。

 

 

kyoto-uraniwa.hatenablog.com

 

去年に比べると、うんと桜も早くて、すでに満開ですね。

半袖Tシャツどころかタンクトップ姿の外国人も見かけます。

今日明日がお花見のピークでしょう。

咲き誇る満開の桜の木を見るよりも、散りゆく一枚一枚の花びらのほうに、

わたしは命を感じるんですよねぇ。

疎水や路肩を埋めていく花びらは、ほんまにうつくしい。

わたしにとっての見頃はこれからです。

春分の日だというのに

早々にソメイヨシノ開花宣言もあったお彼岸なのに、強烈な寒の戻り。

おまけにものすごい風で、一旦気を許した身に寒さがしみ入ります。

でももう、さすがにこの寒さが最終ではないかしら・・・・

と気持ちは春へと逸ってしまうわけですけれどもね。

 

お客さまや知人に、

「知らない人と会って話すって疲れますよね。しんどくないですか?」

とよく訊かれます。

そのたびに、

「いやー それが仕事なんで」

と笑って答えるわけですが、たしかにこれが仕事ではなく、

私的に毎日、初対面の方と会話しなさい、ってことであれば、

そりゃもうクタクタになりそうだなあ、と想像できます。

でもね、それが「占い」のための対面であり、会話であれば、

案外、クタクタにはならないものなんです。

 「お仕事ですから」というプロ意識でくたびれないのではなく、

「話す」ということが、お客さまとの共同作業だからなんだろうな、

と思っています。

 

占い師は、お客さまと「占い」を通して何らかのよい「答え」にたどりつきたい、

という共通の目的をもって、暫時、タッグを組むわけです。

お互いの「理解しようとする努力」と「理解してもらおうという努力」が、

占いにおける「会話」です。

お会いして話をする、というところが出発点なので、

そこをしんどいと思っていては、何も始まらないし、解決への糸口もつかめない、

ということになってしまいます。

 

もちろん、初対面のお客さまとお会いするときは、

「どんな方かなあ?」と思ったりもするし、不安になることだってあります。

けれどもなんせ仕事なもので、そんなことは言うてられないし、

「どんな方かなあ?」が、占い師的好奇心となって勇気を与えてくれもします。

わたしはそれを楽しいと感じるし、まあ、あれです。

詰まるところ、やっぱりこの仕事が好きなんですね。

占い師って、いわゆる儲かる商売ではないですし、好きでないと続けていけません。

好きでやっている仕事であっても、悩んだり、つらいなあと思う日も、

あるにはあるんですよ、当たり前ですけど。

でも、それ以上に楽しいこと、うれしいこと、ありがたいことが、

たっぷりある、ということですね。やめられません。

 

でね、これは占い師だけのことでもないかな、と思うんです。

わざわざ人と会話をするのは、めんどくさいかもしれません。

人間関係を広げていくのは、怖くもあるし、不安だったりもしますよね。

けれども、そこで立ち止まったままでいるのは、もったいないなー

と思うんですよ。

人と関わっていくことで、ややこしいことに巻き込まれたり、

難儀だなあとうんざりしながら、知る真実、なんてのもままあります。

そうしながら知らぬ間に成長していたりもするわけで。

 

今は、SNSマッチングアプリなど、さまざまな出会い方がある時代です。

出会いはさまざまでも、相手を知ること、自分をわかってもらうことの基本は、

やっぱり会って話すところから始まるんじゃないかしら。

なにしろ「会話」っていうくらいですしね。

大事にしたい人との大切なやりとりは、できればメッセージの文章で済ませず、

電話で直接話す、顔を合わせる努力をする、

ってことをおろそかにしたらあかんのですよ。

ええ、気詰りなことであればなおさらに。

こういう便利な世の中だからこそ、手を抜かないのが「気持ち」ってもんでしょ。

わたしの贅沢

いきなりの春も春。

なんてうららかな陽気でしょうか。

一週間後にお彼岸を控えて、ちょっと勇み足なんちゃう?

と季節に問いかけたいような月曜日です。

 

今日は占庭の定休日で、わたくしはヨーガのレッスンに行っていました。

わたしが通っているお教室は、最初に30分余りダンスして、

その後、みっちりスクワットの後、そこから1時間余りをヨーガ、

という2時間強の充実レッスンです。

 

で、ですね、じわ~っと体を曲げたり、伸ばしたりしてるとね、

あちこちの滞りやこわばり、痛み、違和感、不具合、みたいなものが、

言葉少なに訴えてくるので、

 

 ああ、しんどかったよね。

 ここのところ忙しくて、酷使してたよね。ごめん、ごめん。

 ちょっと無理させてしもてたなあ。

 

と自分の体でありながら認知していなかったこと、

薄々わかっていながらスルーしていた部分に気がつきます。

 

そこで超当たり前なことにハッとしたりするんですよ。

 

 わたしの体も心もひとつしかない。

 そしてこれはどちらもわたしのものだ。

 

ということとかに。

だれよりも自分が労わらねばならず、だれよりも愛しんでやらねばなりません。

それをするりと忘れてたことに気づかされるわけです。

 

家族のため、恋人のため、仕事のため、スケジュールのためなどに、

無意識に自分を置き去りにしたり、ないがしろにしてしまうことは、

実はとても多いことだと思うのです。

そして、それで気力や生活が充実することだってあるわけで、

その水面下の無理や疲労にはなかなか気づきません。

それらが積もり積もって、心身に不調を来してしまうまでは。

 

ヨーガのよいところは、自分の心や体と対話できる、ということだと思っています。

わたしのやり方はですね、

まず体の隅々まで届くような呼吸をしていきます。

そして時間をかけ、ゆっくりと体を折ったり、曲げたり、伸ばしたりしつつ、

しんどい部分にぶつかったら、そこを撫でさするような気持ちで労わります。

「そかそか、ここがつらかったんやね」

と話しかけるように。

そうしてゆるゆるほぐしながら、

 ああ、気持ちいいなあ~ 

と心と体が思わず声を漏らすようにもっていけたなら、もうオッケー。

カッコいい形になっていなくても、不完全でもいいんです。

自分の体に問いかけながら、できる範囲でやっていれば。

あの人みたいに、素敵なポーズを決めたい、とかは考えなくてヨシ。

 

そうこうしていると、どれだけ肩に力を入れて過ごしていたか、

息を詰めた毎日であったか、が浮かび上がってくるんですねぇ。

で、ムダに入っている力を抜いて、できるだけいつも通りの

フラットな自分へ返っていくよういざないます。

 

それらを誰の手も借りず、自分自身でできる、

というところがヨーガのえらいところだと思うんですよねー

心身を一旦、バラバラの部品に分解してしまって、

またそれらをあるべき場所に戻して組み立てていくような作業を

レッスンの時間内でやっているような感じでしょうか。

 

週に一度、2時間余りを自分の心身のためだけに使うなんて、

すごーく贅沢なこと。

それをさせてもらえているいまをほんとにありがたく思っています。

人間関係の風通しと 受け容れるキャパの問題

なんだか急に春めいてポカポカ陽気になったと思ったら、

今日はまた冬に逆戻り。

何をどれくらい着ておけばよいのか迷いますね。

季節の変わり目はいつもそんな感じで、オロオロしてしまいます。

 

しばらく前に、カードを伏せておきたい人と、躊躇なくオープンにされる方がある、

ってことを書いたのですが、その続編です。

 

カードを伏せておきたいかどうかは、手相にもよく出ます。

いわゆる秘密主義だったり、相手によって心の開け具合を調整する人は、

感情線が閉じてしまっている場合が多いのです。

要するに、人間関係の窓やドアがキッチリ閉められた状態で、

スースーと風が通らなくなっている様子だと想像してみてください。

 

「Aさんにはここまで話しても大丈夫だけど、Bさんにはやめとこう」

というように、非常に用心深い人づき合いをしてらっしゃる。

なかなか自分の「素」を出していくことができず、心を開くのが苦手。

そもそも、心を開くってどうやって?

という方も少なからずおられます。

 

そういう方に、

とにかくオープンになりましょう! 

と言ったって、簡単にはいきません。

それに、

なぜオープンにする必要があるの? 

ってことですよね。

 

人間関係を閉じると、余計な傷を受けること、与えることが激減します。

ややこしいことに巻き込まれることも、ね。

 

「もう誰も傷つけたくないし、不毛に傷つきたくもないの」

という気持ちになってしまうことがあるのも、よくわかります。

けれども、そうして過ごしていると、無意識の内に、

助けてくれる人をも拒絶することになり、

また、誰かを助けてあげられる機会も喪うことになるんですよね。

ラクになったつもりが、実はとても生きにくくなってしまっていた、

ということにもなりかねません。

どうしたって、人間は誰かと関わりながら生きていく生き物であり、

社会のなかで孤立してしまうのは、デメリットの多いことです。

 

カードを伏せておきたい人の手相を観ていて不思議に思うのは、

「ひとを受け容れるキャパ」自体は大きい人が多い、ということなんです。

これだけ、ひとを受け容れられる素地があるのに、なぜ?

と思わずにいられません。

よほどつらい目に遭いはったのかなあ。

ひとを信じて裏切られるのはもうたくさん、ってお気持ちなのかもなあ。

と思ったりするのですが、それならばなおのこと、心を開いていっていただきたい。

もうね、ガッチリ受け止めてしまったからには、最後まで責任をもたねば、

とか思わなくていいんです。

さらーっと受け容れて、

「あ、違うな」「もうしんどいな」

と感じたらさっさと手放して、さらーっと流していけばいいんです。

手にしたら、ずうっと掴んでおかねばならないわけではありません。

責任を持って、面倒見続ける義理もないのです。

人間関係って、とても流動的なもの。

固定的なものだと考えてしまうと、裏切れないとか裏切られたくないとか、

思ってしまって息苦しくなってしまいます。

そこで「受け容れて、流す」方式をマスターされると、ぐっとラクになるはずです。

 

では、ひとを受け容れるキャパが狭い方はどうなのか?

その方の場合は、受け容れる間口がせばまってらっしゃるだけでなく、

容量が小さいわけですから、その容量に合わせた人間関係でよいのです。

それは劣っているわけでも、だめなことでもありません。

小さな人間関係でも充実していれば、とても豊かになれるので、

敢えてムリはなさらなくていいと思います。

キャパ自体が大きければ立派というものでもないですしね。

 

けれど、その場合も、風通しはあったほうがいいに決まっているので、

なるべく、周りの人のいいところを心の中で認めてあげる練習をなさってください。

口に出して伝えなくていいし、イヤなところは「そういうところキライだけどね」

と、それも心の中で呟いておいてOKです。

少しずつ、いいところを認めていると、締め切っていたドアや窓に、隙間ができ、

すうっと新しい風が抜けていくようになります。

それはたいそう気持ちのよいものですよ。

事実は小説より奇なことがいっぱい

長年、占い師をやっていると、いろんな方のいろんなお話を聴きます。

「事実は小説より奇なり」という言葉があるように、

信じられないようなことって、まま、あるんですよねぇ。

起こった事象だけを切り取れば、ひどくドラマチックだし、

波乱万丈ぶりなどは、そのまま映画やドラマになりそうに思う方も大勢おられます。

 

けれども、小説より奇なるものは、映画やドラマにはなりにくい。

というか、しにくいんだと思います。

あまりにも突飛で、逆にリアリティがなさすぎて、

「ありえへん」

と違和感を抱かれてしまうんでしょうね。

 

わたしも自分自身の越し方を振り返ってみれば、

ホントに呆れるようなウソみたいなことが、たくさんありました。

他人に話したら「なんですかそれ」って俄かに信じてもらえないようなね。

その、とんでもない状況下にある時って、悲劇のヒロイン的な気分なのか、

というと、そんなことはまったくないんですよ。

なにしろ現実なので、さあ、これをどうしていかねばならないっていうのさ?的な

とんでもなさを回避できなかった現実を目の前にして、心底うんざりし、

ひたすら途方に暮れるだけで。

ヒロインの気分にひたってる余裕なんてないんですよねー

だから、そんな時、占いに行ってみよう、なんて気にもならない。

そういうことができるのは、周囲の人だけで、当事者は、

しばしボーゼンとしてしまうものです。

 

ですので、占い師として驚くような出来事のお話をお聴きするのは、

片付いた過去の話であることが多いです。

まあ、それでもじゅうぶんビックリしてしまうんですけれどね。

もしくは、ボーゼンからやや立ち直り、今後について建設的に考えられるように

なってきつつある回復期の方のお話とか。

こちらの場合は、その方の大きな運勢的なものと、現在の運気、

そしてご自身の希望・要望と併せて善後策を練っていくことになります。

よくぞこのタイミングで来てくださいました! と思えることも多い。

それは、いま、この運気を知ってもらえてよかった! 

と感じられる時がよくあるからです。

 

きっとご自身も方向性に不安や迷いがあり、決断しにくい時に、

じゃあ、占い的にはどうなのかしら? と思いついてくださるのでしょう。

そこはかとない不安が、気のせいの場合だってあるわけですが、

本能的に危機を知らせている場合もあります。

そこを占い師に訊ねてみることで、迷いが吹っ切れたり、安心できたり、

背中を押してもらう、もしくは考え直す機会になったり。

占いで問題を解決したり、状況を変えたりできるほどの力を

わたしは持ってはいませんが、現状と、お気持ちの整理整頓のお手伝い、

今後、目指したい方向はどこなのか?

などは、一緒に探っていけると思っています。

 

と書いてみたものの、さて自分はどうだったか? と考えると、

占いフリークだったくせに、肝心な時は、占ってもらってなかったかも。

え、じゃあ、何を占ってもらってたんだろ?

恋の行方、将来の仕事、まだ見ぬ遠い未来の運勢、とかかしら。

 

なんや~ 

えらいザックリしたものばっかり。

わたしにとって、占ってもらうってことは、

悩みありきじゃなかったのかもしれないですねぇ。

占いを活用するというよりも、楽しいから、という気持ちで。

今になってみれば、転職の時期などに、ちゃんと観てもらっておけばよかったのにー

と、占い師なればこそ思ったりもするわけですけれど。

人相が悪くなる心持ち5つ

おかげさまで、ずっと忙しくさせていただいていた占庭ですが、

今日はどうしたことか、ガラ~ン! 

えっと、今日は日曜よね?

とカレンダを見るわけですが、ま、そういう日もありますよね。

こういう時は、普段できない「ゆっくり」を味わおうと、

久し振りに近所の定食屋さん(ここ、穴場なんですよ)に行ってきました。

平日はサラリーマンでいっぱいのお店ですが、土日の早めの時間は空いています。

しっかり食べて、お腹いっぱい!

今日の夕飯はもうお茶漬けでいいかも。

 

先日、このブログで、ヨーガの先生が、

「自分を自分でちゃんと褒めない人は、顔つきが悪くなっていくのよね」

とおっしゃった話を書きました。

そうなんです。

手相よりもずっと変化が著しいのが人相です。

 

人相っていうのは、占い師はチェックすべきポイントを押さえて観ていくわけですが

別に占い師でなくとも誰だって顔を見て感じることはありますよね?

穏やかそうな人だな、とか、神経質っぽい感じ、とか。

もちろん、その人その人の性格や本性が、そのまま顔に全部は出ないけれど、

大なり小なり、みんな、顔を見てなんとなく判断しています。知らず知らずに。

 

だいたい若い人よりも、中年以降の方のほうが、よく出ていてわかりやすい。

長い年月、どういう心持ちで生きてらしたかは、お顔に刻まれている、

ということです。当然ですよね。

笑顔ひとつとってみても、心からの笑顔か、作り笑顔か、おもねった笑顔か、

自虐の笑顔か、慈愛の笑顔か、なんとなくわかるものです。

それらは表情が語りかける部分が大きいのですが、占いによる人相となると、

やっぱり「いい人相」「よくない人相」があるわけです。

福相・貧相と言ったり、吉相・凶相と言ったりします。

 

福相っていうと、耳が大きいんでしょ? いや耳たぶが豊かなのがいいんでしょ?

みたいに、みなさん、どこかで聞いておられることもおありでしょう。

けれども残念ながら、そんな記号のようにわかりやすくはないんですよねー

「大きな耳」にしてみても、厚み、張り出し方、色つや、形など、

観るべきポイントがいくつもあるもので。

福々しいたっぷりとした耳は、いかにも福相に感じられますが、

福相であるかどうかは、耳だけではなく、全体を総合的に観ての判断、

ということになります。

 

誰でも凶相にはなりたくないし、福相だと言われるとうれしいもの。

では、自分で人相は変えていけるのか? 

ってことですよ。

意識することで手相を良くしていくことは難しいと思いますが、

人相はある程度変化させられると思っています。

いままでたくさんの方とお会いし、お話ししてきて、

人相が悪くなっていく心持ちがいくつかあると感じているので。

 

まず「恨む」。

恨む対象は、人であったり、出来事であったり、運命であったりと色々ですが、

常に恨みを抱いて生きてらっしゃると、凶相になっていくようです。

ずうっと、つらいところに注目し続けているということで、

絶え間なくご自身の心の傷から血を流している状態です。

 

次に「憎む」。

恨むとどこが違うのか、って思われるかもしれませんが、

憎む方がエネルギーが強く、このエネルギーは負から正へと転換できる可能性を

感じられる分、恨むよりはマシ。

 

三つ目は「責める」。

こちらは他人を責めるだけではなく、自分を責めるのも含まれます。

責めるというのは、元々は改善を求めるためのものだと思うのですが、

責めることが目的になってしまうと救いがありません。

 

四つ目は「悔いる」。

他人に向ける憎悪ではないのですが、いまさらどうしようもないとわかっていながら

後悔の呪縛から解かれないというつらい状態です。

これは、自分で「もう悔いるのはやめよう」と決意しなければ終わりがありません。

逆に言えば、終わらせることが可能であるということ。

 

最後に「優位に立つことに囚われる」。

ビジネスなどで優位に立つために努力することはちっとも悪いことではないですし、

それで人相が悪くなるなんてことは、もちろんありません。

「少しでも自分の方が優位に立っていたい」が目的になってはいけないということ。

あの人よりも優位でいたい。

という気持ちは、抱きやすい感情ではあるのですが、冷静に考えてみれば、

なんちゅうちっこいことか、とわかるはずです。

「あの人」よりも絶対優位になれば、また次の「あの人」が現れるでしょうし、

そうして成長していく人もあるのかもしれませんが、スマートじゃないでしょ。

どうせならば、もっと高く、自分らしい目標を抱いて成長したほうがいい。

 

ということで、これらの感情をなるべく排除し、

やっぱり、感謝し、笑顔で生きていくことが人相をよくすることになるのです。

ええ、ベタですけれどね。

何をどういうても結局は、感謝する心持ちと笑顔は最強だな、

というところに帰着するのは占い師の実感です。

 

久々の長いブログになりました。

ヒマだったもので。えへへ。

「嵐電」

今日はちょっと寒さが緩んでいる京都です。

少ーしずつ陽が長くなり、高くなってきてもいて、

太陽の光や熱がじわじわパワーを得てきている気配がしますね。

春の片鱗がわずかずつ顔を出してきてはいますが、やっぱりまだ寒い。

花粉の便りは敢えて見て見ぬフリをして、しばらくは冬の名残を味わっておきます。

 

さて、今日は京都の映画のクラウドファンディングをご紹介したいのです。

主役は「嵐電」。

嵐電とはウィキペディアから引きますと

 

嵐山本線(あらしやまほんせん)は、京都府京都市下京区四条大宮駅から右京区嵐山駅までを結ぶ京福電気鉄道の軌道路線である。北野線と併せて嵐山線、通称嵐電(らんでん)と呼ばれる。

嵐山を始めとする洛西エリアの観光地への行楽路線であるとともに、繁華街である四条通へ出るための足ともなっている。

 

です。

嵐電(らんでん)〕と書かれているのを読んで、

そうか、ご存知ない方は、読み方に迷われるのかもなあ、

と思い至りました。

そう。

京都の人は迷いなく誰もが「らんでん」と呼んでいる、かわいらしい鉄道です。

ここを舞台にしたラブストーリーの映画が作られるのだそうですが、

監督・脚本が鈴木卓爾さんなので、直球のラブストーリーではないでしょう。

どんな「ラブストーリー」になるのか興味津々。

先日、主演が井浦新さんだと知り、ますます楽しみになりました。

 

で、この映画のクラウドファンディングの詳細がこちら。

 

motion-gallery.net

 

こんなに太っ腹で盛り沢山なリターンって、珍しいんじゃないでしょうか。

しかも、3,000円から応援できるので、お手軽です。

希望者はエキストラ出演できる、っていうリターンもあるんですよ。

これはとてもいい記念になると思うんですよねぇ。なにしろ映画だし。

京都や嵐電に愛着のある方、一緒にこのプロジェクトを応援しませんか?

 

映画はもうクランクインしているのに、こちらのクラウドファンディング

もひとつ盛り上がっていないような気がするのは、認知度が低いからじゃないか、

と思いまして、頼まれもしないのに勝手にPR。

だってね、嵐電好き、って人、多いんじゃないかと思いますもん。

 

しかし、この「京都芸術造形大学北白川派」って、なんかドキっとします。

どういう派閥なんやろ。

 

あ、そうそう。

こちらの映画を撮るに当たって、古い嵐電の映像を探しておられるそうです。

お持ちの方がおられましたら、ぜひご一報ください。

お願いいたします。