京都 四条高倉の占庭から

見えるもの 見えにくいもの

7月5日の日曜日、勝手ながら臨時休業させていただきます。

ごめんなさい。

 

今日で6月も終わり。

今月は2回、みなづきを食べました。

期間限定で、いままで食べたことのないお店が出店していたので買ったのと、

夫が、やっぱり、こんなお店が出していたよ、と買ってきてくれたものと。

お気に入りのお店は遠いので、こうして、新規開拓をしようとするのですが、

なかなか好みのみなづきにヒットしません。

うーーん、残念~

けれどもまあ、夏越の祓のひとつとしてのみなづきです。

なんとかこの夏も、元気で過ごしたいものです。

 

京都へ出勤してくるときに、時々停める駐車場近くで蓮のつぼみが伸びていました。

城跡のお堀なんですが、鬱蒼と茂った雑草の向こうに蓮があるなんて、

先日、初めて気がつきました。

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右側に石垣があるのが見えますか?

 

寄っていくとこんな感じ。

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これはなかなか気づかないですよねぇ。

また、咲いたところも見られたらいいな。

 

 

占いでお客さまの話を聴いていて思うのが、

他人の幸福と、自分の不幸は、よく見えてしまうんだなあ、ということ。

どんな人もいろんな悩みがあって、人知れず不幸も抱えてらっしゃいます。

だけど、そういうことはあまり積極的にオープンにしないものだから、

他人には見えにくい。

けれども、外側から窺い知れるようなわかりやすい幸福度は、誰にも見えます。

そして羨まれる。

ほんとうは人に言えない苦労もあるのだけれど、幸福に恵まれた人として、

認識されてしまう方も多いだろうなと思います。

 

自分の不幸もよくわかります。

足りないもの、失ったもの、境遇、愛情の過不足など、

実際に痛みを感じてらっしゃることは如実にそこにあるんですもんね。

 

けれど、元々持っているものや、ちょうどよい具合のことは、

当たり前のことなので、自分では見えにくいです。

これがもっと見えるようになるだけで、幸福度は上がっていくのになあ、

と思うわけですが、そう簡単にはいかないんですよね。

 

生きる世界が狭ければ見える範囲も狭いので、想像力も広がりにくいです。

実際にいろんな体験をし、さまざまな人と関わるのが一番ですけれど、

芝居や映画を観たり、本を読んだり、音楽を聴いたりして、

感度を上げることでも、世界を広げていくことはできますね。

 

幸福って、得るものではなくて、感じるものなんだろうな、

とつくづく思うこと、多いです。

これは、小さなことも幸せと思ってみよう、っていうような単純な話ではなくて、

感性を磨くことが、自分自身を救うこともあるんじゃないか、ってことなんです。

自分のアンテナの感度を上げ、想像力を広げ、育てる。

他人と比べて自分はどうか、というところから、ちょっと離れてみて、

自分はどう感じているか? に向き合う時間も大事にしたいです。

占ってもらいたい欲 上昇中

昨日今日と、この週末は、梅雨らしからぬ爽やかな上天気。

それもあってか、京都の人通りが、どっと増えました。

電車の中でも、ガイドブックや地図を見てらっしゃる方がおられて、

ああ、こういうの、久し振り~ と思いました。

それだけ見なかったんですよねぇ、いかにも観光って方。

一斉に、レジャー復活、という感じです。

 

いつもは四条通の地下道を歩いてくるのですが、

今朝、なんとなく上を歩いてきましたら、

マスク屋さん(コロナの間に開店していたんですよ)で、

洗える冷感マスクを売ってはりまして。

子どもサイズから大人サイズまで、色も数種類あり、3枚550円。

なんだかペラペラだな~ と思ったのですが、試しに買ってみました。

さて、どれくらい涼しく感じるんでしょうね。

 

このブログですが、あんまり占いについてや、占い師らしいことを

書いてないのですが、新型コロナ以降、その傾向が強くなっていまして、

こういう風に偏りがあるのはいかんな、と思いまして、

今日はちょっと占いや、占い師について書いてみますね。

 

少し前に占い師の人と3人で、Zoomで雑談会をしてみました。

占いあるある、占い師あるあるな話題が色々と聴けて、とても楽しかったです。

その中で、

一番占い好きな星座は〇〇座ですよね

〇〇座は占いを信じたがらない人が多い気がするわ

なんていうお話もあって、それがすごくみんなで納得だったりしました。

やっぱり傾向ってあるんですよねぇ。

わたしは、西洋占星術にはそれほど詳しくないのですが、

それでも、うんうん、わかるわ~ と思うお話がたくさんありました。

 

占い師になる人は、みんな占いが好き、もしくは興味があるわけで、

占い師同士が集まると、たいがい占いっこが始まります。

今回はZoomだったので、それはなかったのですが、

俄然、誰かに占ってもらいたい欲が、ムクムクと湧いてきてしまいました。

「コレについて占ってほしい」というコレが特にあるわけではないのですが、

自分が使っていない占術で、わたしの運勢を解説してもらいたいのです。

 

占い方はほんとうに多種多彩、星の数ほどあり、

占い師は、たいがい複数の占術を用いて占っていることが多いです。

多面的に観ることができるし、内容に合った占術を選べるのでね。

自分が知っている占術から導かれる運勢と、違う占術から見える運勢に、

いったいどういう世界の違いがあるのか。

興味は尽きません。

けれども、不思議なことにまったく違う西洋の占いと東洋の占いの結果が、

かけ離れた内容になることは、意外とないんですよ。

おもしろいですよねぇ。

 

自分にはできない占い方や、知識のない占術で占ってもらって聴くお話は、

バーチャルなパラレルワールドをのぞき見るような気分でもあります。

生きていくのは、常に取捨選択を繰り返していくことでもあって、

振り返れば無数のわかれ道を選んだ末の一本道の終点が、いま立っているところ。

無数の違う人生も選べたってことですよね。

そして、これからも、その道はくねくねと続いていくわけですよ。

選ぶのはもちろん自分だけれど、運勢はどんな風景を示唆してくれるのか。

ああ、占ってもらいたい~

人類は進歩していない

新幹線が混み始め、航空機も平常運航へと、世の中がどんどん動いています。

しかしながら、昨日はユニクロのエアリズムのマスクの発売日でしてね、

それが原因で渋滞が起きたりするくらい、まだマスクは重要アイテム。

ミズノのマスクも即完売だったらしいので、転売目的なのかもしれませんが。

とにかくマスク着用は暑いので、少しでも涼しいものを! 

という気持ちは痛いほどわかります。

なんとか夏を快適に過ごすアイデアはないもんですかねー

 

今日は、大きいような小さいようなことを書いてみようと思います。

今回のコロナ禍で、過去の感染症について言及されることも多く、

「歴史は繰り返す」みたいな切り口もよく目にしました。

これまでも「繰り返される歴史」的な問題は、いっぱいあって、

疑いもなく、そういうものかー と思っていたのですが、

最近は、そうじゃないのかも、と考えるようになりました。

歴史が繰り返されているんじゃなくて、人間が同じ過ちを繰り返しているだけ

なんじゃないか、って。

要するに、人間はいまも昔も変わらず愚かである、ってことなんじゃないの? と。

 

文明が発達しようが、過去の出来事を知識として蓄えていようが、

生きてる人、個々の経験値の量は、大昔の人とたいして違いはないのでしょう。

もちろん、世の中のスピードは速くなり、膨大な情報が絶えず流れ、

触れるものは圧倒的に増加はしていますけれどもね。

経験という点では、寿命の違いくらいの差しかないように思います。

人間はもうずーっと大昔から、他人を傷つけたり、何かを奪ったり、

差別したり、ウソをついたりしてきた、利己的なイキモノなんですよね。

だからこそ、人口が増大していけば、法やモラルで抑制しなければならなくなる。

そうしなければ、かならずや争いが勃発して、

結局は種の存続が脅かされることになってしまうから。

ヒトが賢くなって、争いをしなくなったわけじゃなく、

(むしろ武器が発達し、殺傷能力が上がりすぎたこともあり)

比較的良好な状態で、種をつないでいくための方便が、いまの世の在り方、

ということなのかもしれません。

しかし、万人にとってよい状態をつくるのは不可能なので、どうしたって、

いつも世界のどこかで不満が暴発しています。

それはもう世の常というか、ヒトの世の宿命なのかもしれないと思うほどで。

 

だからね、ニンゲンは賢くなっている、って思っちゃだめなんですよ、きっと。

科学や文明が進歩することと、賢明になることは別物なんですよね。

そこに驕りがあると、なんかもうとんでもない方向へ暴走していくんじゃないかと

恐ろしい。

よその国と比べたり、自分ではない誰かと比べたりすることは、

そのまま優劣の比較になってしまいます。

マウントの取り合いは、だいたい感情的になるもので、ロクなことになりません。

そもそも、その比較の基準が個々バラバラですもんね。

ヒトは愚かなイキモノだと自覚することで、愚かな民衆になることを

多少は抑制できるのではないかしら、と思うのはぬるい願望でしょうか。

 

「近頃の若者はなっとらん」みたいな話はソクラテスの時代からあったらしいので、

いつの世も、人間のレベルにそれほど違いはないんでしょう。

それでも、生まれついたそれぞれの時代で生きるしかないから、

みんな必死に生きてきた。

いまもそうですよね。

たまたま生きているこの時代の、偶然につくられた環境のなかで、

与えられた命を生きていくしかない。

 

なんてことをですね、突然降りかかったコロナの中で、つらつら考えていました。

それで凡人のわたしが思ったのはですね、

愚かでもいいから、他者も自分も傷つけないで生きたい、ということでした。

欲を優先するのはどうもまずそうなので、それは後回し。

自分の守りたいものを守り、他人の守りたいものを阻害しない。

そうすれば、お互いを尊重し合って生きていけるんじゃないか、って。

 

ええ、ええ、わかっていますとも。

そんなことは理想であり、おとぎ話にすぎないと、おっしゃる向きもありましょう。

だけどそれができれば、人類は進歩していけるかも、と思ったりもするのです。

誠実さはまだら

今朝、お店のポストにマスクが届いていました。

自宅には数週間前に届いていたのですが、京都の中心部は遅かったんですね。

もう自粛期間は過ぎ、どのお店も、どんなサービスも再開されていますし、

マスクの入手にも困らなくなったいまごろに届くって。

これに多額の税金が使われ、たくさんの人の手間を通して届いたのかと思うと、

なんともやりきれない気持ちになってしまいます。

 

先日、錦市場でレンタル着物姿のお嬢さんたちを数組、見かけました。

海外からの観光客は、ほとんど見ませんが、

国内の人はそろそろと戻りつつあるのかな。

高速道路の休日割引も、来週末からは復活するのでしょうかね。

 

ここ数日、ずっと「誠実」ってことについて考えていました。

ちょっとリクツっぽい話になってしまうので、そういうのはええわ、

という方は、ここで回れ右してください(笑)

 

よく「誠実な人」とか「誠実さに欠ける」とか言いますよね。

その誠実ってなんだろう、と考えていたんです。

言葉として調べてみたら、

まじめで真心があること。

私利利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。

というふうに書かれていました。

誠実って言葉は、案外、ふわっとしているんですよね。

まじめとか、真心とかって、基準や形のないものばかり。

要は、人が人の中に「誠実さを見出すかどうか」なのかもなあと、考えます。

するとですね、それぞれが考える「誠実さ」が相手の中に見えるかどうかで、

その人を誠実な人だと認識するかどうかが決まってくるわけですよね。

その誠実さのポイントも、関係性によって変わってきたりもします。

同じ人であっても、その人を、

・社会人として見た場合

・隣人として見た場合

・恋人として見た場合

・家族として見た場合

などでは、誠実さを測るポイントが微妙に違うだろうと思うのです。

どこからどう見ても不誠実な人、ってのも稀に存在するかもしれませんが、

そういう人は、まあ論外っちゅうことで、ふつうに考えたらですね、

たいがいの人が、どこかは誠実で、どこかは誠実じゃないんじゃないか、

って気がしてきたのです。

 

どこか一部分だけを取り上げて、誠実な人だと安心できないし、

不誠実な人! となじるのも違うのかもなあ、と。

人の中には、誠実さがまだらに存在していて、それらは厚い部分と薄い部分があり、

こういうところでは信用できるけれど、こんなところは信用できない、

っていうことがあって当たり前なんだろう、と考えるようになりました。

 

自分は誠実でありたい、と多くの人が思っているはずですが、

どういう部分の誠実さに重きをおいているかというところは、まちまちで、

誰もがまだらなんだということも、自覚していたほうがいいように思います。

自分が重きをおき、誠実であれと心掛けている部分が薄い人に対しては、

誠実ではない人だと決めつけたり、責めたりしてしまいがちだけれど、

その感覚はすごく個人的な感性によるもの、と考えてみることも大事なのかも。

人によって、厚くあってほしい部分と、薄くてもかまわないだろうと思う部分は、

ほんとうにいろいろだと思うので。

 

けれども、人の誠実さをどこで感じるかは、人間関係においては重要なので、

そこがズレている人とは、なかなかうまくいかないだろうとも思います。

相手を全体的に誠実かどうかを見極めようとするよりは、

相手が誠意を尽くそうとしてくれているところが、

自分にとって大切であり、うれしいポイントであるかどうか? 

そこのところがマッチしているかどうか、のチェックのほうが有効なのかも。

どこに誠実さを見るかということは、人としての在り方に対する価値観

みたいなものが似ているかどうかを測る、

ひとつのものさしになるんじゃないでしょうか。

長くつき合っていく人であれば、これは結構、大事なところだと思います。

営業再開しました

一昨日から営業を再開しました。

電車やバスは、予想していたよりも空いていました。

京都はまだ以前の人出には戻っていませんね。

観光客が激減しているせいでしょうか。

百貨店は営業再開に当たり、かなりの厳戒態勢です。

ステイホーム期間のスーパーよりもずっと厳しい雰囲気で営業されてます。

しかしまあ、もうすっかり季節は夏へと移ろっていまして、

2か月の時間の長さを思い知りました。

 

今朝は久し振りに知恩院さんにお参りしてきたのですが、

こちらも、人出は少なかったです。

御影堂の大修理も完了し、中へも入れるようになっていました。

それから、もうひとつ久し振りに錦市場を歩いてみました。

こちらはまだ閉まっているお店がいっぱいで、淋しい感じ。

間口を半分だけにして営業されているお店もありましたし、

新しいお店に変わっているところもありました。

いつもぎゅうぎゅうで、行列しながら歩いてるような通りだったのに、

そんな活気は見られません。

ことの深刻さを目の当たりにし、この状況がいつまで続き、

今後、どういう展開を見るのか、そしてどう対処するのがベターなのか、

考えずにはいられないのですが、どれも答えの出ないことばかりで。

 

一昨日は、町内会の方が、八坂神社のお札を配りに来られました。

本来ならば、7月から始まる祇園祭の準備にかかっている頃ですのでね。

淋しいことです。

世界中、そんなことだらけなのでしょうね、きっと。

 

と、どうしても気持ちが暗-くなってしまいがちですが、

お店での営業を再開して、やっぱりわたしはこの空間が居心地いいなあ、

ここは守りたい大切な場所、と改めて感じました。

わたしの力量の範囲で、できるだけ長く維持していけるよう、

自分なりに考え、努力するつもりです。

しかしながら、ムリが重なるようでしたら、その時は変わることを考えます。

変わり方は、またその場で判断していくしかないですね。

そういうことを考えてはいますが、まったく悲観はしていません。

新しい道には、また新しいおもしろさが待っているはずですからね。

新しい道には新しい苦難が待ち構えている、と先に考えないところが、

わたしの楽観性でもあり、我ながらおめでたい性格だな、とも思いますけれど。

コンテンツになりたい?

4月から2ヵ月休業してる間、いろんな方が生存確認の連絡をくださったり、

自粛要請解除が出るころには「いつから再開ですか?」と尋ねてくださったり、

ほんとうにありがたいことでした。

もうこのままお店をたたむ可能性もあるかも、と思っていたのですが、

やっぱりひとまずは再開して、今後がどうなっていくのかを見届けよう、

と気持ちが強くなりました。

みなさまには心から感謝しています。

 

6月2日火曜日から占庭の営業を再開いたしますが、当面は、

① その日のご予約のお客さまが終了しましたら、早じまいします。

② 前日までにご予約がおひとりもいらっしゃらない場合は臨時休業とします。

という具合にやっていこうと思っています。

ですので、お手数ですが前日までにご予約いただき、マスク着用で、

おいでくださいますようお願いいたします。

勝手を申しましてごめんなさい。

 

 

さて、本日のタイトル「コンテンツ」についてです。

わたしはツイッターで、興味のある方を広範囲にフォローしています。

占いに限らず、「おもしろい!」「かわいい!」「なるほど!」「それはいい!」

などを集めているわけですが、たのしいです。とっても。

そのたのしいなかで、うーーむ、、、、と考えたことが、

この「コンテンツ」ってことなんですね。

 

フォローし始めたころは、それほどたくさんのフォロワーさんがいなかったのに、

ちょっとしたキッカケから、爆発的にフォロワーさんが増加した、

という方が、いままでに何人もいらっしゃいました。

 

最初はね、うれしいんです。

そうなの! みんなもわかってくれたのね! っていうファン心理で。

だいたい、フォロワー数が4桁くらいまではそういう気持ちでいられます。

だけど、5桁、6桁となっていくと、そのアカウントは、

元々の「人」が見えなくなっていくことが、ままあります。

 

それくらいのフォロワーを集められるとなると「ビジネス」にしませんか?

という話も出てくるんだろうなと思うんですよ。

それは、ちっとも悪いことではないし、そもそもがそのために始めた方だって、

たくさんおられると思います。

フォローし、応援していた人が、そうして”成功”されるのを見るのはうれしい。

 

ところがですね、ビジネスになっていくと、その人が気分のままにツイートする、

ということがしにくくなっていくんでしょうね。

ビジネスに結び付けてくれた誰か、どこかの意向を汲んだり、

激増したフォロワーさんの期待にそうように、嫌がらせや中傷に遭わないように、

と配慮したツイートに変わっていくのが、淋しく残念で。

それはもうSNSの宿命っちゅうか、しょうがないことなんだと思うんですよ。

だけどね、そうなると、その人はもう個人ではなくコンテンツになってしまいます。

結果、興味関心は急降下してしまい、そっとフォローを解除することもありました。

 

もちろん、コンテンツになっても、魅力が衰えない人もおられます。

また、どんなにフォロワーさんが増え続けても、ビジネスに寄らず、

ひとりひとりに誠意を尽くそうという方もいらっしゃったのですが、

それはそれで、くたびれが見えて心配になってしまうこともありました。

 

いまは「イイネ!」の数で、ウケているかどうか、

流れをつかんでいるかどうかがわかる世の中です。

その「数」で見えるというのが、良し悪しなんですよねぇ、きっと。

数は一過性&流動的です。

一度、数をつかんで認知されたら、それを保ち続ける「期待」という枷を

はめられてしまう、もしくは自分ではめ込んでしまうこともあるのだと思います。

みんなから求められ、認められ、褒められるコンテンツになることは、

素敵なことなのかもしれませんが、それを継続させていくことで、

自分の言動を測るものさしが、気まぐれな他人のものさしに取って代わられることも

ありそうに思います。

そうならずにいられる人は、自分も周りも客観的に測れるものさしを

芯に持ってらっしゃる、ということなのでしょう。

 

こういう時代にあって、うまくコンテンツを使いこなせる人、

もしくは逆に、望まれるコンテンツの枠に収まらない人が、

浪費されず、風潮に左右されない魅力を放ち続けられるのかなと思います。

 

コンテンツになるには、才も運も必要です。

それはとてもすごいことだけど、わたしはあんまりうらやましく思えないんですよ。

なんだかたいへんそうだなあ、と思ってしまうので。

3回目のZoom雑談会もたのしく

昨日、3回目のZoomで雑談会をしました。

3回とも、時間制限なしで長いことおしゃべりできて楽しかったです。

昨日は、関東在住の方ばかり3名ご参加だったんですけど、

1,2回目よりもツッこんだ話が多くて、和やかでありつつ、

なかなかエキサイティングなひとときでもありました。

 

いつも、簡単な自己紹介(お互い初対面の方ばかりなので)と、

何かひとこと添えてもらうお題を考えていまして。

1回目「最近食べておいしかったもの」

2回目「最近おもしろかったこと」

3回目「最近ビックリしたこと」

でした。

3回目の最近ビックリしたことなんですけど、わたしの場合はですね、

ラジオで昔の童謡の「めえめえこやぎ」の唄を聴いたことです。

もうショーゲキでした。

童話で、実はとってもエグいお話、ってのが多いですけれど、

童謡もたまに愕然とする歌詞だったりするんですよね。

なんともかわいらしい「めえめえこやぎ」ですが、3番の急転直下がね、

ギョッとします。

お時間ある方は、ちょっと聴いてみてください。

 https://www.youtube.com/watch?v=5ld2qBBV8Yk

いやもう、なんというか、そんな無邪気にうたわれても・・・・・

ってなりますよね。

 

まあ、最初はそんなふうに、雑談を始めていきまして、

”ちょっと聞いてほしい”

”尋ねてみたい”

”意見を聞いてみたい”

というような話題が出てきて、 井戸端会議風になっていくんですよね。自然に。

たのしいです。

 

その中で、尋ねられたのが、

「みゆきさん、なんで最近短歌なんですか(笑)」

ってこと。

その昔、仕事がヒマでしょうがないときに、短歌や川柳を賞品目当てで

懸賞に応募したりしてたんですよ。

公募ガイドとかよく買ってました。

でも、全然そういうのもしなくなっていたので、

何か作るキッカケがほしいなと思っていたのです。

それでまた、お風呂でぼーっとしてるときに、

そうだ、お風呂で毎日ひとつずつ考えるってのはどう?

と思いついてですね、それをツイッターにUPすることにしました。

短歌って、ことばとリズムに向き合いながらつくるものなので、

ことばを見つめ直すことにもなるかなー と。

毎日つくってると、その内、うまくなるかもしれないし、

という欲も最初はあったんですけど、そうじゃないなあと思い始めて。

 

わたし、武田百合子さんが好きなんですけど、なかでも『富士日記』が大好きで。

日々の生活の断片をちりばめたような、まさに日記で、

何のてらいもない文章がすごくすてきなんですね。

何をいくらで買ったとか、こんな昼食にしたとか、そんなことが、

なんでこんなに胸を打つのか、よくわからないんですけど、

その場や、その時代、そこにいた人、季節、なんかが、

すーっと見えてくるように感じられるんですよ。

そこで、わたしも富士日記みたいな短歌を!

と考えるほどには厚かましくないので、

さすがに百合子さんを目指そうなんてしてないですけど、

等身大で、そこにあるものを詠めばいいんじゃないか、と思ったわけです。

カッコよくなくてもいい、ヘタで当たり前、笑われてもいい、

ことばを大事にして、ひとつずつつくっていこう、って。

自分でノートに書き留めるだけだと必ずや続かないだろうと容易に予想できるので、

ツイッターに上げる、というプレッシャーを自ら用意(笑)

 

こういうことをやろうと思えたのも、もしかしたら自粛生活のオマケですかね。

ちょっと興味が湧きましたら、フォローしてやってください。

https://twitter.com/uranaishimiyuki

わー でもやっぱ恥ずかしいなー これ。