昨夜、東京オリンピックの開会式がありました。
ギリギリ直前までのすったもんだに、もううんざりしてしまっていて、
選手はもちろん、本意でなくても関わらずにはいられない多くの人たちの心中を
考えると、なんともやりきれない思いで見ていました。
元々、わたしはスポーツ観戦は大好きだし、オリンピックも毎回楽しみに
してきました。
けれども、もう日本にオリンピックを招致する意義はないだろうと思っていたので、
東京に決まったときは、
ええーーーー、いまの日本で? しかも東京で??
としか思えなくて、全然うれしく感じませんでした。
その後のケチのつき具合と、グダグダさ、その上、新型コロナの影響もあり、
誰の予想も上回る混乱に陥ったことはいまさら言うまでもないことですね。
そういえば随分前に、東京オリンピックについてブログを書いたことがあったな、
と思い出して探してみましたら、2016年11月にありました。
読み返してみて、いまも考えは変わってないなあ、と思い、
最後の部分でハッとしました。
東京オリンピックが開催される2020年に、日本は、世界はどうなってるのでしょう。
日本にも世界にも、解決できない、処理しきれない問題が山積なのに、
その上に、また新たなことも起こっていくだろうし、なんて考えると、
どうしてもよい想像ができませんよね。
けれども、ジョン・レノンがイマジンをうたったように、
絶望よりも希望を抱いていたいなとは思うのですよ。
昨日の開会式で、まさにジョン・レノンの「イマジン」がうたわれました。
それを聴いたとき、
いや、違う。こういう文脈で使われる曲じゃないでしょ。
という強烈な違和感と、げんなり感が湧いてきました。
そして、
ああ、そうか。このオリンピックには「希望」がないんだな。
と思いました。
オリンピック、大好きだったんですけどねー
もう、大好きなんて言えなくなってしまって、悲しいですよ、わたしは。
利権のためにスポーツが利用され、選手も関わる人たちも翻弄され、
誰のための、何のためのオリンピックなのか? って、
今回、イヤっちゅうほど問われましたよね。
「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)
この「オリンピックのあるべき姿」よりも優先されていることが多すぎます。