京都 四条高倉の占庭から

老いていく存在価値

ほんとうならば、今日は祇園祭山鉾巡行の日だったのだなあ、

と、今朝、晴れた空を見て思いました。

雨じゃないのはいいけれど、今日も暑かったろうなあって。

そんな感慨にふけっていたら、もう7月も半ばを越えていたのだと気づきました。

そろそろ夏休みなんですね。

ほんとに飛ぶように日々が過ぎていきます。

 

ご心配をおかけしております顔面神経麻痺ですが、徐々に快方へ向かっています。

急激に悪化することもなく、少しずつ少しずつ、動かせるところが広がってきて、

強張り感も、少なくなってきている感じです。

このまま、そろそろとよくなっていってほしい~~~

 

まだ怪しい笑顔ではありますが、なんとか笑えるようにもなってきました。

この、表情を出せる、ということが、こんなにありがたいことだとは、

ふだん意識したことなかったですねぇ。

できるだけ笑って生きたい、をテーマとしているわたくしですが、

物理的に笑えないなんてことになるなんて。

いやはや、生きてたらいろんなことありますね。

 

そんな中、わたしが住んでいる自治体では、今年60歳~64歳の人の

新型コロナワクチンの接種が始まりまして、わたしも1回目を受けました。

もうすぐ60歳になるんですよ。

60歳といえば、ひとまずの定年退職を迎えるお年頃です。

友人たちも、今後の働き方などの選択を迫られているようです。

 

長年働いてきた会社を辞め、毎日が日曜日になった男性が、

しばらくすると精神的に不安定になってしまわれるケースを

幾人も聞いてきました。

それは、きっと、どこにも「所属」していない立場に不安を覚えられるのでは?

と考えていたのですが、そればかりではないのかも、と思うようになりました。

サラリーマンとして、長年にわたって毎月お給料を家計に入れていた人が、

その定期収入を失う不安も大きいのだろう、と。

働いて得た収入と、年金等で得る収入は、たとえ同じ金額であったとしても

感覚が全然違うのかもしれませんね。

 

「仕事をせず、労働の対価を得ることのない自分の存在価値をどこに見出すのか」

それが、定年後の男性に降りかかってくる大問題なのかも。

仕事をがんばってきた自負のある人ほど、それは強く出るような気がします。

 

 働かない自分にどれほどの価値があるのか?

 お金を生み出さない自分も尊重されるのか?

 自分の生きている意味は?

 

など考えて、不安定になってしまったり、落ち込んでしまったりされることも

あるのかと思うと、なんだか気の毒でしょうがないです。

いままでがんばっていらしたのにね。

 

長年続けてきた生活をガラっと変える、って大変なことなんですよね。

がんばって働いてきたのだから、のんびりする、趣味を愉しむ、

と最初は思っていても、その日がずっと続くとなると不安になる。

そうなってしまう気持ちは、わかるような気がします。

 

「誰が養ってると思ってるんだ!」とか言う人、

さすがにいまの時代は少ないでしょうけれど、そういう人ほど、

陥りやすいとも思えます。

働いて、家族の生活を支える、それだけじゃない、存在感を

若い内から得ておけば、老後は気楽に過ごせるかもですね。

 

しかし、そもそもですね、存在価値があるのかどうかなんて、

考えてもしょうがないですよ。

存在してるんですから。

生活が変われば、新しい毎日、違う日々を探っていくだけですよね。

せっかくの新鮮な刺激です。

不安と捉えずに、びっくりしたり、困ったりもしながら、

身の丈に合った、新しい自分をつくっていけばいいのだと思います。

いっそワクワクしてもいいくらいですよ。

エラくなくてもいいし、立派である必要もありません。

そっち方面のがんばりはもう必要ないんです。

なるべく機嫌よく、ある程度老いも受け容れつつ、できるだけ元気に過ごす。

それができたら、それこそがサイコーの存在価値になる、

と思うのですけれどいかがでしょうか。