京都 四条高倉の占庭から

みんな違うのです

三連休も終わりですね。

今日はとても気持ちのいいお天気で、少し高くなった空にうろこ雲が

うつくしかったです。

お布団はホカホカに。シーツもカラリと乾きました。

ああ、いい休日だったこと。

 

 

最近、よく感じるのが「当たり前」とか「常識」とか「ふつう」ということは、

人によって全然、違うのだな、ということ。

特に、誰かが誰かに向かって、

「それくらい当たり前のことでしょう?」とか、

「そんな常識的なこともわからないなんて!」とか、

「そんなん、ふつうやん」とか訴えるのを聞くと、

自分は至極真っ当で、相手に非がある。相手がおかしい!

と一方的に非難しているようにも見えてしまいます。

 

その「当たり前」も「常識」も「ふつう」も、人それぞれに感じ方があって、

もしかしたらズレているのは自分の方かもしれない、と省みるひと呼吸は、

とても大切なことなのだなあと、思うことが度々ありまして。

それをちゃんとできている人というのは、品があって、懐の深い、

素敵な人揃いであるということに気づいたわけです。

 

うん。そうするとそれができれば、品がある、懐の深い、素敵な人に近づける、

ということなんじゃないの?

とも考えた時、

やります! わたしやります!

と手を挙げて、ピョンピョン跳ねるような気持ちになりました。

 

自分がされてイヤなことは他人もイヤなはず、と慮るのはよいことですが、

自分がしてもらってうれしいことが、他人もうれしいとは限らない、

という認識は持っておいた方がいいのかもしれませんね。

同じようにうれしいかもしれないし、うれしいほどではないかもしれない、

と思う部分も残しておくというか、ガッカリしすぎないというか。

 

でも、それをあんまり考えすぎてしまったら、何もできなくなってしまうので、

自分が思う、してあげたいこと、喜ばせたいことなどは、

思うようにすればいいと思うんですよ。

ただ、その反応に対して、一喜一憂しないことですね。

たとえ、喜んでもらえなくても、悲しむことはないし、

自分も相手も責めてはいけないと思います。

 

自分と同じように感じてもらえたり、思ってもらえると、とてもうれしい。

だけど、押し付けになってしまってはダメですよね。

何らかのアクションに対するリアクションが期待値を下回ってしまった時は、

落胆しすぎず、あ、押し付けになってなかったかしら? とひと呼吸おいてみる。

そして、自分と相手のどちらが悪いのか? おかしいのか? だめなのか?

を突き止めようとするのはやめて、人はそれぞれ違うのだということを

思い出してみましょう。

だって、そんなことを考え始めたら、誰だって、自分は悪くないよね? 

と思いたくもなるし、そうなると相手をなじりたくもなってしまいますものね。

 

ああ、感じ方が違うんだなあ。考え方が違うんだなあ。好みが違うんだなあ。

と思う余裕を持てれば、もっと大きな愛の人になれそう。

きっと人相もよくなると思うなあ、と考えるのは、占い師だけかしら。