京都 四条高倉の占庭から

星のカードにいる鳥は?

ここ数日、我が家の周りに住むノラ猫が、夜な夜な、なぁ~ごなぁ~ご鳴いていて、

春が近いんやなあと感じます。

夜な夜な鳴いて、昼間はあったかいところで寝てるんでしょうか。

猫は人間よりも短い一生の大半を寝て過ごすらしいから、

起きて活動している時間って、ほんとに少ないのかもなあ。

ほぼ寝てるって、もったいないなあ。猫生は、正味何年くらいなんやろ?

とまで考えて、いや、それは人間の一生と比べるからそう思うわけで、

人間よりももっと長い一生を送る動物から見れば、人の生は慌ただしいもんやろし。

なんて、どーでもいいことを電車の中で、つらつら考えていました。

ありがたいことに、今日も平和ってことですね。

 

さて、今日はこちら ↓ 星のカードのこぼれ話を。

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(相変わらず上手に写真が撮れない・・・・)

バックの木の上に鳥が止まっていますね。

(鳥の話がしたいのに、その鳥がボケて写ってるてねぇ・・・・)

この鳥のこと、レッスンで、わたしはペリカンと説明してきたんです。

 

この大アルカナ17番の「星」のカードは、その輝きから「希望」を表します。

暗闇の中に見える、一筋の星の明かりは、道標でもあり、希望です。

けれども、それ以外に、命の循環という意味があって、

裸の女性=女神が水瓶から流しているのは命の水と言われています。

水は、雨が川になり、海に流れ、水蒸気となって雲になり、

また雨となって地に降り注ぐものですね。

人の命も生まれ、育ち、産み、やがて消えていくもので。

 

で、なぜこのくちばしが長いということくらいしか特徴のわからない鳥が、

ペリカンと特定されるのか?

『タロットの歴史 西洋文化史から図像を読み解く』井上教子著によりますと、

ヘビに殺された雛鳥を復活させるために、母ペリカンが自らの胸を突き、

流れ出た血を雛に与える、という逸話があるのだそうです。

キリスト教において、ペリカンは自己犠牲と献身の象徴であり、

イエス自身の象徴でもあるのだと。

キリスト教にも、西洋絵画にも疎い者にしてみれば、説明を読んでも、

ピンとこないわけですが、どうもペリカンは自分の命と引き換えに雛を生き返らせ、

命の循環を成す存在として描かれている、というわけです。

 

このように、キリスト教や西洋絵画のお約束的なモチーフが、

タロットカードにはたくさん隠されています。

西洋人であれば、説明がなくとも絵を見ればわかることも多いのでしょうけれど、

日本人には謎でしかなかないものが、色々出てきます。

けれども、そのようなよくわからない部分が、いろんな観点から読み解かれるのが

これまたおもしろいんですよねぇ。

 

ところが、先日、タロットレッスンの時に、生徒さんが、

「わたしが買った本には、この鳥はトキだと説明されていました」

とおっしゃるので、ビックリ。

たしかに(この写真では色がうまく出ていませんが・・・・)この鳥、

トキ色をしているんですよねぇ。

そして、トキもくちばしが長い。

姿だけを見ていると、ペリカンよりもトキの方が、よっぽど説得力があります。

うーーーーーーん、、、、、どっち??

 

けどまあ、やっぱり、わたしはペリカン説を採りたいんですけどーーー

占庭のお客さまのチーム分け

なんだか体調が悪い月は、非常に忙しい占庭です。

いや、忙しい月は体調を崩しがち、が正しいのかもしれません。

占い師の繁忙期である2月も、あとわずかとなりました。

風邪をひいて、マスク姿でお話ししていましたが、元気になりました。

ご迷惑、ご心配をおかけし、申し訳ありませんでした。

 

さてさて、占庭のお客さまですが、大きく2つのチームに分かれます。

「訊きに来られる」チームと「話しに来られる」チームです。

訊きに来られるチームの方というのは、主に、

「これからどうなっていくのか?」を訊きに来られます。

 

 転職した方がよいのか?

 将来、結婚できるのか?

 お金に苦労はしないか?

 健康は心配ないか?

 子どもはできるかしら?

 

と、思いつく限りのことをお訊ねになる方もおられます。

これらのことは、生年月日からおよそのことは導けます。

けれども、このブログでも、いつも書いていますように、

運命ですべてが決まっているわけではないので、

「こうなります!」とは、わたしは言えないんですねぇ。

たくさんの選択肢の中から、自分の人生を選び取っていくのはご自身なのです。

ですので、時期の良し悪し、向き不向き、得手不得手、注意すべき点など、

ご自身の選択のポイントとなる部分を占いで提示する、というのが、

わたしの仕事だと思っています。

「訊きに来られる」チームの方の中にはたまに、すべてが決まっているという前提で

お訊ねになる方もおられるのですが、そのご希望にはお応えできないのです。

ごめんなさい。

けれども、先に書きましたように、決意へのヒントを見つけ出したり、

ご自身の望みを明確にするお手伝いは大いにできます。

そういう活用の仕方をしていただけると、とてもうれしいです。

 

そして「話しに来られる」チームの方々。

こちらのみなさんは、占庭の利用方法に慣れてらっしゃる方が多いです。

いま、迷っていること、悩んでいること、腹が立っていることなどを

ひとまず全部、お話しになります。

わたしはそれを聞きながら、ところどころで合いの手を入れる程度で。

この合いの手というのは、確認であったり、質問であったり。

そして、話し終えられる頃には、かなりスッキリしてらして、

今後の方向性については、ほぼ見えてきたね、という感じになります。

わたしはその方の望みに沿うようにするために、今の運気の流れや強弱、

個人の才や適性などをどのように活かしていかれるのが有効であるかを

お話しするのが仕事、ということになります。

 

占庭や、わたしのやり方・スタンスは、一般的な「占い師」や「占い」の

イメージとは、ちょっと違うかもしれませんが、占い師も占いも、いろいろです。

お好みもありましょうから、ご自身に合った占い師や占いに出会っていただけると

いいなあと思っています。

占庭のお客さまは、ウチだけではなく、他の占い師さんのところへも行かれる方が

たくさんおられます。

それを「失礼しちゃうわ!」とは思いません。

いろんな人の占いやら、意見やらを聞いて、ご自身が一番しっくりくる話を

参考になさったらいいと思うので。

そしてまた、占庭にも来ていただけたら、うれしいことでね。

信頼する、しないは、お客さま側がお決めになることですから。

ドキドキの占い師デビュー

今日はとってもいいお天気。

よかったな~~~

と思うのは、京都マラソンの日だから、ではありません。

今日は、長くタロットレッスンに通ってくださっている生徒さんの、

”魔法にかかったロバ”さんでのワンコイン占いデビューの日なのです。

12時~15時の3時間なので、ただいま真っ最中!

きっとドキドキだろうなあと思います。

わたしも初めて「見ず知らずのお客さま」を占った時は、ドキドキでしたもん。

そうそう。わたしも500円から始めたのでした。

500円とはいえ、見料を頂戴するからには、

それだけの満足感を得てお帰りになっていただきたい。

と、自信はないながらにも、それくらいの自負はあったので一所懸命でしたねぇ。

懐かしいです。

 

占庭のタロット教室を修了されて、プロにおなりになった方もおられますが、

そういう方はごくわずかです。

元々、超初心者の方へ向けて、

 タロットっておもしろいんですよ~~~

 奥は深いけれど、難しくはないんですよ~~~

 気軽に触れてみませんか~~~

という気持ちで始めたもので、プロを養成しようなんて野望はなかったし、

また、できるとも思っていませんでした。

 

それでも、たくさんの生徒さんの中には、いつかプロの占い師になれたら、

と思ってらっしゃる方もおられたわけです。

レッスン修了後、すぐに一歩を踏み出される方もおられ、

うわああ、勇気ある~~~~!

とその行動力に驚かされ、感嘆してしまったこともありました。

ま、そういう方は2,3人とごく少数で、他の方は、ご自分のお店(Barやエステ)、

知人友人のカフェなどで、スローに始められてらっしゃる方が多いですね。

けれど、そういう方も少数派でして、見料なしで周囲の方を占って楽しんで

おられる方が大半です。

わたしとしましては、どんな形でもタロットに親しみ、楽しんでいただけたら、

それだけでとてもうれしいですし、大満足。

 

レッスンでタロットカードの意味を覚えていくのは、案外難しくはないのですが、

リーディング(引いたカードの意味を読み解くこと)が難しく、

これはもう場数をどれだけ踏むかにかかってきます。

それも、ちゃんとゲストを前にして、結果をきちんと話して伝えるということに、

どれだけたくさん真摯に取り組んだかで、技量は上がっていくものなのです。

もちろん、そこにセンスが良いかどうかというのも加わりますが、

より大きな力を発揮するのは、真剣度と場数です。

 

リーディングは読むところまでではなく、相手の方にわかるように伝える、

というところまでを練習しないと、なかなか上達しないものです。

それも、気心の知れている人とゆるく話すよりかは、

知らない人と、ちょっとした緊張感を持って対面する、というのがいいんですね。

ですので、今、まさに生徒さんが体験されている、

見ず知らずのお客さま相手のワンコイン真剣勝負は、素晴らしい機会です。

初めてのことで、不安や恐れもあるとは思いますが、

きっとそれを上回る有意義な体験になるでしょう。

ゲストを占うことの楽しさ、難しさ、喜びも実感されることと思います。

占いは、するのもされるのも、どっちもおもしろいものなのでね。

 

けど、今日はまだドキドキが勝っているかな。

がんばってね~~~~!

コンプレックスは難儀

数日前から風邪をひいておりまして、マスク姿で営業しています。
ごめんなさい。
けれども、そろそろ平常に戻れそうです。


仕事柄、近距離でお客さまと対面するわけですが、お客さまは女性が多いので、

美容系の発見もいろいろあるのです。

お話しするときには、だいたい目を見て話しますから、主に目の周りに、

必然的に視線がいきます。

つけまつげをしている方、まつげのエクステをされている人、

ここ数年でものすごく増えました。

自然な感じのものから、

「それは、前を見るのに邪魔にはならないんですか?」

と本気で訊ねずにいられなかった方まで、いろいろなんですよね。

 

そうそう、カラーコンタクトの方も多いですねぇ。

ドキドキするような色合いの瞳だったり、縁取りされた黒目が黒々とされてたり。

おしゃれを愉しむってのはいいことですね。

 

でも、たまに、この方、自然のままのほうが、きっと魅力的やろになあ、

と、ちょっと残念に思ってしまうこともあるんですよ。

一重まぶたのシャープな涼やかさとか、小さな目の清潔感とか、

白目の部分が広いことによる色っぽさとかね。あるんですよ、そういうの。

アナタ! そこが超魅力的なんですけど!!

と言いたい。

でも、さすがにわたしでも言えないんですよねぇ。

わたしからはとても魅力に見えるところが、

ご自身にとってはコンプレックスの元、という場合もあります。

このコンプレックスというのが厄介です。

その方個人が、どれくらい感じるか、というのは誰にもわかりません。

重く感じてらっしゃるのか、なんとなくなのかもわからない。

そもそも、どこにどんなコンプレックスを抱いているのか、って

話してもらわないとわからないものなんですよね。

なので、うかつなことは言えません。

 

でもね、もし、気にしている部分について、

「そんなこと全然気にしなくていいのに~~~」

と無神経に言われるようなことがあったら、その時は、

できれば、怒ったり、傷ついたりしないでほしいなあって思うんですよ。

そうおっしゃった人は、ほんとにそう思ったからそう言い放ってはるわけです。

ですから、そんな時は、ムッとした後からでもいいので、

そうか、そんなに気にしなくていいのかな、って

ちょっとだけでもいいのでそう思って、上げた肩を下ろしてみてください。

そうしていることで、コンプレックスは少しずつやわらいでいきます。

ほんとうにわずかずつではありますけれど。

それでも少しずつでも軽くなれば、それはよい変化につながります。

あなたをもっと魅力的に輝かせる変化です。

そんなことでコンプレックスは解消なんてされない。

軽く言わないで!

って思われますか?

そう、コンプレックスはガンコで難儀なものです。

でもね、どうかひとつそこのところを怪しまず、

だまされたと思ってでもいいので、一旦、素直に信じてみてください。

素直になるということは、あらゆることを平易にしてくれる魔法でもあります。

一度試してみる価値はあると思いますよ。

受験シーズン

今日の朝ドラで子どもの合格発表を待つシーンがあり、

いろんなことを思い出して胸がいっぱいになりました。

 

前期試験の発表当日、息子は中期試験を受けに行っていました。

で、わたしは仕事に行っていて。

午後に来るテレックスの前に、大学構内に貼り出される掲示板の

ネット映像で合否を確認したのでした。

まず、母、妹に連絡し、家族のように心配してくださっていた方にも

電話をしました。

息子が2歳のときからずっと見守り、お世話になったその方は、

すぐに職場に飛んできてくれて、抱き合って泣きました。

きっと、息子が合格したことそのものより、

母ひとり子ひとりで、ここまでよくがんばってきたね、

って、わたしを労ってくれる涙だったのだと思います。

ほんとに、いつもわたしの周りには温かい人がいてくださって、

ありがたかったなあ、っていまさらながら感じます。

 

テレビを見て、うるうるしながら息子の受験番号が、8425番だったことも

思い出しました。

この受験票が来たときに、息子が、

「ええ番号じゃなあ~」と言ったのです。

ん? 8425が?と思っていると、

「ハッシー ニッコリ じゃもん」とニコニコしています。

「え、だから、それがなんで?」と訊くと、

「進路指導の先生、橋本先生っていうんよ。ハッシーがニッコリしてくれるなら、

 ええんちゃう?」

と、どこまでもポジティブな子どもなのでした。

おかげで、10年以上経ったいまも、忘れません。

この能天気なほどのポジティブさが、きっとよい作用をもたらしたのだと思います。

二次試験の倍率が2倍少々だとわかったとき、

「隣のヤツより1点でもええ点取れば受かるんなら、なんかイケそうな気もする」

と、のんきそうに言うていました。

模試では、ずっとE判定(予想合格率20%以下)だったにもかかわらず。

「ふつうに考えたら、受かるはずがないんやけど、

 なんか落ちる、って気もせんのよなあ~~~」

と、肩の力が抜けてたのもよかったのかもしれません。

担任の先生に、

「お前の家は浪人させられる家じゃないんやから、やめとけ」

と、こんこんと言われながらも、

「それでも受けてみたい」

と揺らがなかったことで、運を引っ張ってきたのかもしれません。

ほんとに、奇跡的な運だけで受かったといって、過言ではない状況でした。

なので、ほんと、受験は、ふたを開けてみるまではわからない、

と実感しています。

努力の結果だけではなく、運、不運で、合否が決まることも少なからずあるものだと

思うのです。

けれども、志望校に不合格であったとしても、それが本当に不運であったか、

というと、そうとも限らない、ってことを去年、書いていたので、

よかったら読んでみてください。

kyoto-uraniwa.hatenablog.com

 

実はここに出てくるセンター試験で失敗してしまった子のお母さんが、

合格発表の日に、泣きながら抱き締めてくれたその人です。

人生、いろいろすんなりいかないことだらけ。

それを知っているからこそのやさしさが、あるということですね。

「情報生産者になる」がおもしろい

いつもとはちょっと雰囲気の違うお話を今日はしますね。

 

『ちくま』1月号からの、上野千鶴子さんの新連載がとても興味深くて、

楽しく読んでいます。

「情報生産者になる」というタイトルで、研究について書いておられるのですが、

特に、大学生のみなさんに読んでもらいたい内容です。

 

高等教育以上の段階では、もはや勉強(しいてつとめる)ではなく、学問(まなんで問う)ことが必要です。

つまり正解のある問いではなく、まだ答のない問いを立て、みずからその問いに答えなければなりません。

それが研究(問いきわめる)というものです。

研究とは、まだ誰も解いたことのない問いを立て、証拠を集め、論理を組み立てて、答を示し、相手を説得するプロセスを指します。

そのためには、すでにある情報だけに頼っていてはじゅうぶんではなく、自らが新しい情報の生産者にならなければなりません。

 

なるほどー

大学で研究したことのないわたしにも、よくわかる説明です。

で、上野千鶴子さんは「大学で教える」に当たって、情報生産者になるということを

重視してきた、と。

 

情報には、生産・流通(伝達)・消費の過程があります。

メディアは情報伝達の媒体、多くのひとたちはそこから得られた情報を消費します。

もちろん学ぶことは「真似ぶ」こと。

ですから他人の生産した情報を適切に消費することは、自らが情報生産者になることの前提です。

 

研究者ではない、わたしのような一般人も、日々、膨大な情報を得ています。

この過程の最後の部分に当たる、消費ですね。

消費者には誰でもなれるけれど、生産者になるのは難しい。

批評家には誰でもなれるけれど、批評されるものを提供する側になるのは難しい、

ってことなのでしょう。

その後、情報とは何か? という説明があり(端折りますけど)、

情報を生産するには、まず問いを立てることが肝心である、

という話につながります。

 

問いを立てるには、センスとスキルが要ります。

スキルは磨いて伸ばすことができますが、センスはそういうわけにはいきません。

センスには現実に対してどういう距離や角度を持っているかという生き方があらわれます。

 

こんな風に理系なスタンスで、センスという言葉を見事に言い表せるって

すごいなあ、とわたしはそこに感服してしまうのです。

 

そして、問いを立てる際に大切なポイントがふたつ挙げられ、

また、問いを解くというのはどういうことかが語られます。

(長文なので、省略しまくりですみません。)

それから、誰も立てたことのない問いを立てる、ということがオリジナルな研究に

なっていくということである、というお話に移っていきます。

 

オリジナリティとはすでにある情報の集合に対する距離のことを言います。

距離は英語ではdistanceですが、立ち位置のことをstanceと言います。

つまり自分の立ち位置からの遠さをdistanceというのです。 

誰も立てたことのない問いを立てるには、すでに誰がどんな問いを立て、どんな答を出したかを知らなければなりません。

すでに蓄積された情報の集合を知識として知っていることを「教養」と呼びます。

教養がなければ、自分の問いがオリジナルかどうかさえわかりません。

ですからオリジナルであるためには、教養が必要なのですが、教養とオリジナリティはしばしば相反することがあります。

教養は努力すれば身につけることができますが、オリジナリティはセンスです。

 

教養、オリジナリティ、センス。

まったく毛色の違う言葉のようで、すべてつながっているんですね。

オリジナルである、ということを確かめるためにも、証明するためにも、

たくさんの論文を読まねばなりません。

「先行研究の検討」です。

 

なぜなら、あなたの立てた程度の問いは、それ以前に、あなた以外のひとによって、とっくに立てられていると考えるところから、研究は出発するからです。

まったく誰も立てたことのない問いなんてめったにありません。

ですが「先行研究の批判的検討」をすることによって、自分の立てた問いのどこまでが解かれており、どこからが解かれていないかがわかるようになります。

そこではじめて、自分のオリジナリティが何かが、わかるのです。

 

おお、なんか「研究する」ということが詳らかになってきました。

 

この後、インプットとアウトプットについて、一次情報をいかに収集するか?

学問とは何かについての見解が続き、「情報生産者になる」ということはどういう

ことなのか、がまとめられていきます。

 

かつて研究したことがなく、きっとこれからもないであろうわたしが読んでいても、

研究の困難さの片鱗を知った気になり、その上で、なんとも言えぬワクワクする

魅力も感じるお話だったので、このブログを読んでくださっている学生さんにも

知ってもらいたいなあと思って紹介してみました。

卒業するために必要だから、とにかく卒論をやっつけないと、というのではなくて、

大学時代に、こんな風に研究と向き合えたら素敵やなと思うのです。

 

うまくまとめられておらず、ワクワクが伝わらなかったらごめんなさいね。 

いつまでも人を恨んでいてはならない。なぜなら、

寒い寒い京都ですが、幸い、昨日、今日と通勤路に積雪はなく。

四条大橋から望む北の山々は雪化粧していましたけれどね。

 

先日、知人がSNSにUPしていた写真を見てビックリ!

左手に何かを持って自撮りしてはったんですけど、こちらを向いた手のひらに、

手相がない!

えええ~~~~~! なぜっ?

と思ったら、シワを飛ばす加工をされていたようで。

最近の写真は、ほんまにオソロシイですねぇ。

手相すら、つるりんとさせてしまうくらいですから、そりゃあお顔のシワくらい

いくらでも無きものにできてしまいますわねぇ。ふふふ。

 

 

さて、以前も書きました「ムーミン谷の言葉」ですが、やさしいだけじゃなく、

シニカルなものも多いんですよ。

今日、流れてきたツイートなんて、

 

いつまでも人を恨んでいてはならない。

 

あなたが恨んでいる人は、今も人生を楽しんでいる。

 

ですよ。

この一行目から二行目への展開は、ちょっと意表を突かれます。

 

「人を恨んでいたら、いつまでたっても幸せがやってこないわよ」

とか、来そうなもんですよね。

わたしなら、

「いつまでも恨むのは、いつまでもその人に支配されてる、ってことよ」とか

「人を恨んでいたら、人相悪くなるよ」とか、言いそうやなあ。

 

そこを

「あなたが恨んでいる人は、今も人生を楽しんでいる。」

ってのは、衝撃的でもあります。

そう聞いたら、余計に心を乱されて、ますます恨んでしまう人もあるかもしれない。

けれど、それがどれだけ不毛なことであるか、っていうことを

リアルに教えてくれているとも思えます。

そこで、

「ああ、バカバカしい!」

と思えたら、恨みのトンネルを抜けたってことではないかしら。

「それならば、わたしの方がもっと楽しまないとおかしいじゃないの!」

というところまで進めたら、自然にいろんな道が開いていきそうです。

 

恨む気持ちというのは、怒りと未練と後悔の匂いがしますよね。

怒りも未練も後悔も、引きずっててイイことは何ひとつないんです。

ずうっと自分自身の心のわだかまりに囚われ続けている、ってことですものね。

過去は変えようがないというのは、絶対的な真理なので、

そこで思い煩い続けるというのは、はっきり申しまして無駄、なんですよね。

これからいくらでも変えられ、創り出していける将来をよりよいものにするために

思い悩む方が、よほど建設的ってもんで。

 

ええ、そんなこと百も承知ですよね。

わかっていながら、そう思えないのよ。

という堂々巡りをバッサリ斬って捨てるこの言葉。

ムーミン谷の言葉、侮れません。