京都 四条高倉の占庭から

絶望しないでほしい理由

以前に紹介しました、GUCCIとヒグチユウコさんのスペシャルなコレクションですが、

どうしても実物が見たくて、デパートへ行ってきました。

思っていた以上にヒグチユウコさんそのままで、いかにもGUCCIでした。

予想をグンと超えた親和性。

すばらしー

めちゃくちゃカワイイー

しかしながら、お値段はかわいくないわけでして、

半袖Tシャツが7万円以上、セーターが30万円以上します。

到底、入手を検討するような範疇ではなく、アートとして鑑賞してきました。

素敵だった~~~

 

さて、前回のブログの終わりに、絶望しないでほしい、ということを書きました。

絶望ぐらい好きにさせてくれ、というご意見もあるかなと思いまして、

なぜ絶望してはダメなのか、について追記することにしました。

 

絶望している人は、打ちのめされている人で、

望みを絶たれ、心に希望を持てなくなっている状態です。

そういう人に、がんばれなんて言えませんよね。

励まそうにも、何を言えばいいのか、どうすればいいのかわからない。

そんな時、周りのできることといえば、寄り添うのが精一杯です。

寄り添うことすら憚られることも多く、そっと見守るしかなかったりします。

絶望している人は、もうすでに、すべてをあきらめてしまっているので、

周りの善意すら受け入れるエネルギーが残っていないのです。

 

そこまでになってしまうと、誰にも助けられません。

ギリギリでも一縷の望みが残っている人や、なんとかがんばろうとする人は、

きっと誰かが応援してくれるだろうと思うのです。

その応援が、時にはトンチンカンだったり、

有難迷惑だったりすることもあるかもしれません。

それでも、やぶれかぶれでもなんとかしようとしている人を

人は放っておけないし、少しでも力になれたら、と考えるのが人情ってもんで。

 

いまどきは、人情なんて言葉はベタついた感じがして、はやらないでしょうけれど、

人が生きていく上には、人情だのしがらみだのがからみついてくるものです。

そして、それは厄介なばかりではなくて、救われることだって大いにあるのです。

 

絶望することは、これからの自分を自分で終わらせてしまうこと。

それはほんとうに最後の最後のことなんですよね。

だから、絶望は少しでもいいので先延ばししてほしい、と思います。

絶望した人にはかける言葉がないし、愛情も友情も行き場を失くします。

シャットアウトされるのが見えているのでね。

まだ道はあるかもしれない、という希望を持つ人にしか、

救いは届かないんじゃないかと思います。

そう、絶望したら救いがないのではなく、届かないのが困るのです。

そのためには心を閉ざしてしまわずに、小さくてもいいので、望みを持って。

絶望はいつでもできる、と思って、ちょっとずつでも延期してください。

希望を持つことが、誰かと、何かとのつながりを生むよすがになります。

絶望した人に、他人は何もできませんが、

望みを持つ人は応援することができます。

何かを提案できます。

無責任に励ましたりもできます。

それは現実的な救いではないかもしれませんが、

生きていく力を立ち上げることだってあるんじゃないですかね。

絶望はそれらの道を絶つことになるからやっちゃだめ、と言いたかったのです。

 

と、ここまで書いて読み直したら、

ほんまに要らん世話なこと書いてるなー

絶望しそうになってる人に、そんなん全然届かへんやろ、

と自分でも思いますが、がんばって言葉にしたので、消さずにおきますね。