京都 四条高倉の占庭から

あきらめることは罪か?

来週の山の日あたりからお盆休みに入る方も結構おられるのかもしれませんね。

もう小中高の夏休みも中盤ですか~ なんだか慌ただしい。

毎年、占庭はお盆休みはつくらず、通常営業しています。

(8月は27日土曜日を臨時休業させていただきます)

暑い盛りですが、よろしかったらおいでください。

 

先日のブログに、あきらめるのは得意なんです、ということを書きました。

いままで生きてきて、もうすでにいっぱいあきらめてきたなあと思うのですが、

あきらめることは、次から次へと現れてくるんですよねぇ。

あきらめるとね、スッキリします。

「もうこの件について思い煩わない」と決めて手を離すわけですからね。

このスッキリ感って、断捨離に似ている気がします。

どんどん捨てたらどんどんスッキリする!

みたいな感じで。

だけど、どちらもそうですが、そのスッキリの快さを得るためだけに、

どんどんあきらめたり、捨てたりするのはいいことではないですよね。

ストッパーも必要で、あきらめればいい、捨てればいい、

になってはいけないのだと思います。

 

以前に「人それぞれだよね」という考え方は思考停止だ、と読んだことがあり、

その時、すごく衝撃を受けたんですよ。

他人の考えを認めるために、否定しないために「人それぞれ」という考えは

非常に平和的でよいものだと疑わなかったので。

それを思考停止と断じられて、えっ! となりました。

けれども、そう指摘されると、たしかにそういう面もあるなあ、

と、納得するところもありました。

同じように、あきらめるのも思考停止という一面もあるのでは?

と考えてしまいました。

 

あきらめるというのは「期待しない」ということです。

それは誰かに対しての場合もあれば、自分に対してということもあります。

期待しなければガッカリすることもないわけで、穏やかでいられます。

やさしくもあれます。

それはお互いにとっていいことも多いのです。

 

長くなりますが、ここでわたしの懺悔を聞いていただけますでしょうか。

ずーっと昔のこと、まだわたしの子どもが中学生だったので、

20年くらい前になりますか。

安定していた成績が、ガクンと落ちたことがありました。

特に勉強をがんばる子ではないけれども、なぜか成績は悪くなかったので、

勉強に関して何も言ったことはありませんでした。

それはわたしの子なんだから、いい成績がこのまま続くなんてことはまずないだろう

と思っていたし、だいたい小中学生のころ成績がよかった子って、

その先で伸び悩んだりしがちだし、きっとうちの子もそういう時がくるんだろうな、

と予想していたのです。

ところがいざ下がると、やっぱりショックだったんですよ。

というか、ショックを受けている自分にショックを受けました。

勉強ができることよりも、ひとりで生きていける力をつけることのほうが、

ずっと大事、と思っていたし、子どもにもそう話していたというのに。

 

そして、これは「勉強しなさい」と言うべきなんだろうか、と考えました。

しかしですね、わたしは小中高と一貫して、勉強の努力をしませんでした。

そのわたしが親だからといって、勉強しなさいなんて、どの口が言うの?

って話ですよ。

しかも、成績が下がったことで言うなんて最悪じゃないか。カッコ悪ぅ~

と思えました。

 

そこでどうすればいいのかよくわからないもんだから、子どもに訊ねたんですよ。

「今回の成績が自分の実力だと思う?」と。

もし、これくらいが実力なのであれば、もっとがんばれというのは酷だし、

いや、実力はもっとあるのに、今回はたまたま悪かったと思っているのだったら、

がんばれと励ましたほうがいいのかな、と思って。

そしたら「わからない」と言うので、

「じゃあ、このくらいでいいやと思われたいか、もっと期待してほしいかどっち?」

と訊ねたんですね。

ひどいでしょ。なんてひどい母親だったろうかと思います。

 

子どもに対して誠実であろう、何かを強いる親でありたくない、

と思っての発言だったわけですが、実のところそれは、

自分が自分の気持ちと折り合いをつけようとしていただけで、

結局は子どもに非情な問いかけをし、負荷をかけてしまっていたのです。ああ。

 

そうすると子どもは、

「期待してほしい」と言ったんですね。

そりゃそうです。親にあきらめられたくはないですよね、誰だって。

まったく酷なことを問うたものです。どうしようもなく未熟な親でした。

そこに父親がいたら、また別の意見を示してくれたのかもしれませんが、

なにしろ母ひとり子ひとりの二人家族でしたので、

子どもには申し訳ないことでした。

 

という子育てにおいての痛恨の一件が、忘れられないということもあり、

 あきらめる=期待しない

の冷酷さも痛いほどわかってはいるのです。

その上に、

 あきらめる→思考停止

なんてことになると、あきらめることに罪悪感を持ってしまいそうです。

 

けれどね、

 あきらめる=潔い

という場合もありますし、あきらめることで煮詰まった視点が切り離され、

新たな切り口が見えることもあります。

悪いことばっかりじゃないんです。

ただ、そこに愛はあるのか? と問われたなら、

 愛はあるよ。あるけれども、その愛はぬるいのかも、

と思ったりもするのです。

いやあ、難しい。

子育てに正解なんてないとはわかっていますが、

ただ生きているだけでも、難問はいつまでも出来し続けるのですね。